5もっと頑張っていれば良かったのに
もう一回寝れば元の世界に戻れるのではないかと布団に戻って目を閉じ気がつけば日がだいぶ傾いて来ていた。
遠くから鍵を回す音がして誰かが家の中に入ってくる。
その気配は段々と俺に向かって近づいて来た。
「れんー?具合どう?」
そう言いながらひょっこり扉から顔を見せたのは仕事着のままの母さんだった。
うわっ、懐かし。
母さんが仕事を辞めてからというものその姿を見ることはなかったからか不意に懐かしさが込み上げた。
布団を鼻まで被っていると母さんはベッドまで近づいて来て俺の額に手を当てる。
「熱は...なさそうかな。体温計買ってきたからさっさと計っちゃいなさい」
そう言いながらベッド脇に持っていたビニール袋から取り出した飲み物を置いた。
元々混乱していただけで体調が悪いわけでは無かったのだが体裁を整えるために一応手渡された体温計を脇に挟む。
「まだダルい?」
心配そうに顔を覗き込まれ俺は反射的に視線を外した。
「別に。平気」
つっけんどんにそう返してしまい内心『しまった』と後悔する。
そんな自分が嫌で、人の好意を無下にしてしまうのが情けなくて俺は明後日の方向を向きながらも言葉を付け足す。
「心配かけてごめん。ありがとう」
『ありがとう』なんて言ったのいつぶりだろうか。
三十になるというのに大事な言葉はいつも照れやらなんやらで口に出来ない。
情けない。
ずっとそれが嫌だった。
交友関係も築けない。恋人も出来ない。なのに今身近にいてくれる家族にさえ、感謝の言葉一つも口に出来ない。
だからかもしれない。
こんなありえない状況の中で、半ばヤケになって、照れを押し込めて自分の思うがままにしようと思ったのは。
「どうしたの...?」
視線を戻すと母さんが分かりやすくぽかんと口を開けて驚いたような顔をしていた。
「そんなこと言うの、初めてじゃない?」
そうは言いつつも顔は嬉しそうに綻んだ。
今更になって恥ずかしさで顔に熱が集まる。
「べ、別にそんなことない、だろ」
「え〜、初めてだって。それに話し方もなんか変わってるし〜。あ、さては」
ビクンッと心臓が跳ねた。
まさか早速俺の正体がバレて...
「漫画の影響でも受けたんでしょ!も〜影響されやすいんだから〜」
しかし母さんの口から飛び出したのはそんな検討違いのことだった。
母さんはそのままスキップでもしそうな勢いで床を踏み鳴らし扉に手をかける。
「ご飯食べられる?」
そう言えば今日一日驚いて、混乱して慌てて、不安で、結局何も食べてなかったな。
今更の空腹を思い出したように腹が鳴る。
「お腹、減った...」
母さんは「ふふっ」と笑いを漏らし部屋を出ていった。
母さんの気配が遠ざかったのを確認して俺は布団を頭まで被った。
バタバタと布団の中でひとしきり身悶えて「よし」と布団から這い出る。
部屋の電気を付けると外が暗くなってきたからか窓に自分の顔がハッキリと写った。
無愛想で根暗...って所か。
窓越しに制服が目に入り顔を顰める。
同時に高校のときの記憶が蘇って来た。
思い出したくない記憶だ。
俺の人生、ろくなことがなかったと自負しているが高校時代はそれに拍車をかけて俺史上一番ろくでもない時代だった。
学校に行くことすら嫌で嫌で仕方なかった。
でも家でも変な目で見られるのは嫌だったのと俺がもし学校を休んだらとその光景を想像して、怖くなった。
普段からも俺は空気みたいな存在で、一部のクラスメイト邪魔だったんだろうけど、それが完全に外野の外野へと向かい、俺という存在が追い払われてしまうのではないかなんて思ったり。
それに仮に学校を休んだところでノートを取ってくれる友人もいない。大学進学を考えていたからこそ授業に遅れを取るなんて許されなかったし、授業に遅れるのは怖かった。
だから意地で通学してた、みたいなとこがあった。
そのときは『そのとき』を生きることに精一杯で自分自身を客観的に見ていなかった。
全部クラスメイトが、学年が、学校が悪いと決めつけていた。
だけどな。
俺よ。
もう少し身だしなみに気を使って、勉強も運動も友人関係すら『どうせ無理だから』なんて早くに見切りを付けて諦めないで努力しておけば多少なりとも変わったんじゃないか?
世間が悪いって決めつけてないでさ。
『は?俺らがトモダチ?バッッカじゃねぇのっ!』
今でも鮮明に思い出す、俺という存在を決定づけてしまった『あの出来事』が頭に過ぎった。
無意識に服の上から心臓を掴む。
気づけば肩で息をしていて深呼吸して、記憶を深く深くに沈め込む。
どうして人間は嬉しい記憶よりも苦しい記憶ばかりを覚えるのだろう。
ああ。
俺がもっと。
もっと上手く立ち回っていれば。
変わる努力を少しでもしていれば『今』は変わっていたかもしれないのに。
もう何度も考えた夢物語だ。