16彼女の名は
俺は自分が凡人であると自覚している。
学生の時は成績は二百人中七十番という可もなく不可もなくな順位で運動はどちらかといえば苦手。家もやや妹の菜彩が反抗期ではあったものの円満。友達はいなかったが別にそれを困ったもんだと思ったことはなかった。たとえぼっちでも授業でペアやグループを作るときは同じように余ったり中途半端な人数で固まったところに入れてもらえるし『クラスでは』特に困り事もなかった。
だから別に一人でいるのは苦じゃない。むしろ一人にして欲しいとすら思っていた。
空いた時間はフルで自分のために使えるし他人に気を使うことすら俺にとってはプレッシャーでストレスの元だったから。
曽屋と出会ってからはむしろ『俺は一人でいなくちゃいけないんだ』と自分に言い聞かせていた。
平凡で目立たない俺が、極力他人との関わりを避けていた俺が誰かに助けを求めることはあってはならないからだ。
俺は誰かに干渉しない。その代わり誰も俺に干渉しない。
それが暗黙の了解のようになっていたから。少なくとも俺はそんな考えを持っていた。
少しでも他人の温もりに触れてしまったらふと一人になったとき、きちんと立ち続けることが出来るのかが不安になる。
俺は自分が人より弱い人間であると自覚している。
だから守らなければならない。
守ってくれる人がいないのなら尚更自分を、強固に守っていかなければならない。
これが俺が自分自身に課したルールなのだ。
※
ぶくぶくと水面が泡立つ。
ストローに息を吹き込んでは止め、吹き込んでは止めを数度繰り返す。
行儀の悪いことなのは理解していたがそれを咎める者はいなかった。
これは俺なりの精一杯の反抗だったのに思いっきり視界に入ってるはずの目の前の『そいつ』はチーズケーキをつついていた。
「キミ、名前なんだっけ?」
ケーキが半分消失したタイミングでやっと彼女は顔を上げた。
あの場で話を続けようとした彼女を半ば強引に引っ張って近くのカフェに移動してから彼女は初めて言葉を発した。
そのまま素直に答えるのはなんか癪なので言葉を返すことにする。
「人に名前を尋ねる時はまず自分からーー」
そう言いかけている途中で彼女はフォークに刺したチーズケーキの一欠片を俺の顔の前に突き出した。
思わず体を後ろに逸らす。
「...何?」
「報酬。前払い」
そう言って彼女はひょいと身を乗り出しさらにフォークを近づけてくる。
...これ、主観的に見ても客観的に見てもひょっとしていわゆる『あーん♡』ってやつなのでは?
シチュエーション的には萌えるんだろうがどうにも胸がときめかないのは何故だろうか。
やってる奴は完璧無表情だからか。
無言で圧力かけているように見え、もはやご褒美ではなく脅迫されているとしか思えない。
「...報酬なら君の名前教えてくれるだけで十分なんだけど」
顔を背けてそういうと彼女はキョトンと首を傾げた。
「私がした演算では、それだと釣り合わない気がしたんだけど」
「その演算、絶対どこか致命的なミスがないか」
どうしたらそういう発想が出てくるんだ。
ただ名前を教え合うってだけだろ。
それじゃ釣り合わないって追加報酬を支払おうとするのはおかしいだろ。男が下心しか持ってないとでも?
曲解すぎて無意識に額に手を当てた。
ダメだな。
校門前の一件で彼女とのコミュニケーションは成り立たないと理解したはずなのに深く考えようとしてしまった。
...って、これ俺が悪いの?
彼女が椅子に座り直しフォークを自分の口元に運ぶのを確認して一息つく。
「香耶憐」
これ以上話を引き伸ばすとより面倒なことになりそうなので仕方なく俺から折れた。
彼女はこちらに視線を向けたままもぐもぐと口を動かしごくんと飲み込む。
「そう」
それだけ言って彼女はさらに一口ケーキを口に入れた。
それを咀嚼するとさらにもう一口口に入れる。
「いやいやいやいや。これで話は終わったみたいな顔するな、まだ君の名前聞いてないから」
思わず身を乗り出すと
「ひめき」
ボーッとしていれば聴き逃していたであろう程の声で彼女がポショリと言った。
「え......」
唐突にそう言われ咄嗟に言葉が漏れる。
「姫に月って書いて姫月。姓は与茂衣」
「いや、そんな武士みたいな名乗り......って、え?」
よもい...よもい......
頭の中でその名を繰り返す。
目の前の彼女は確かに今日初めて出会ったのに、俺はその名を聞いたとこがある。
忘れもしない。タイムリープ後の初登校の日の朝。
自席が分からず右往左往していた俺がやっとのことで腰を下ろしたのは別のクラスメイトの席だった。
その時の担任の戸惑った声とクラスメイトの嘲笑は今も耳にこびりついている。
『...ええっと...香耶くん?なんで与茂衣さんの席に...?』
俺はあの後すぐに名簿を確認した。
そのとき偶然発見したのは名簿の下に置かれた席ごとに名前が記された紙だった。
無意識に確認したのは一つの席。俺が間違えて座ってしまった場所だ。
その時のことは恥ずかしい記憶として不覚にも脳に刻まれてしまった。普段記憶力はさほどいいとは言えないが、嫌な記憶程妙に記憶に残るものである。
当然、一度確認しただけではあるが彼女が俺が知りうる限り、本来の学生時代も含めて姿を確認したことがないということもあって、その名は漢字まではっきりと記憶している。
『与茂衣姫月』。
クラスの誰も話題にすら出さない。空いた机を気にもしない。そんな誰彼問わず忘れられた存在。
そんな幽霊みたいな不登校児だ。