君とメロン
「露出狂ーー!!」
と女子高生が叫んだ。正面の曲がり角から現れた彼女は、一歩こちらに踏み出した足を即座に切り返し、バスケの選手顔負けのターンで再び角の向こうに消えた。私がぽかんと口を開けて立ち尽くしたのは、「露出狂ーー!!」などと呼ばれる経験が初めてであったのと、そも私には公衆の面前に恥部を晒す趣味はなかったのと、まずしっかり服着とるのとで、その不名誉な称号に心当たりが全く無かったからである。それでも、その呼称が自分を指すものだと解釈できたのは、彼女とバッチリ目が合ったのはもちろんのこと、加えて、先程からすれ違う人々の視線がやけに刺さるのに合点がいったからであった。ここは見知らぬ住宅街である。帰宅ラッシュの直中で、道行く人々は皆この辺りの住人であると想像できた。他所者に敏感な人が多いのだろうか、見られているのはそのせいか――しかし、こちらを遠巻きに眺める彼らが、口々に「痴女……」「痴女……」と呟いているのが気にかかっていた。やあ、何のことはない。私が露出狂であるせいだった。そうとわかれば、少し前に出会った彼はとても善い人であったと思える。「大丈夫ですか! 何か困ったことでもありましたか!」真面目そうなサラリーマンに肩を掴まれそう問われ、え? いえ、別に……と狼狽えているうちに、「ああ……」と何かを察したように頷いて、その人は静かに去っていった。なるほど、私が恥部を露出しているので心配してくれていたわけだ。納得。これまでの事象に納得したはいいが、やはり露出部位には思い当たる節が無い。入念に全身を確認するが、スカートが捲れているわけでもない。丈が短すぎるのだろうか? いや、今日の面接では何も言われなかったぞ。
その時先の曲がり角から、今度はママチャリに乗ったおばちゃんが登場した。力強いペダリングで脇を通り過ぎるかと思いきや、私の真横でキキーッと威勢よく停止。籠のエコバッグの中で、卵が心配な音を立てる。何事かと振り向けば、おばちゃんは眼球が落ちそうなほど目を剥いていて、戸惑う私に正解を示した。
「あんた! マスクしてないわよ!!」
聞くところによれば、この時代の人々にとって、唇は恥部であるらしかった。
タイムトリップしていても、慣れないリクルートスーツで肩が凝り、パンプスの中で爪先が窮屈さに悲鳴を上げていることに変わりはなかった。ついでに、日付は四月の十一日、現在時刻も変わりない。タクシー代をケチって面接会場から駅まで歩こうとした結果、道中迷って二、三本脇道に反れた場所に居ることも同様。違うのは、年だけだった。三十年後。三十年後の四月十一日にいる。私は、三十年後の四月十一日に来ていた。
おばちゃんはエコバッグから予備のエコバッグを取り出して、帯状に畳んだそれを私の口元にあてがい、頭の後ろに両端を回して輪ゴムで止めてくれた。こんなものしかなくってごめんね、そう言うおばちゃんの口元は、3D形状の水色の布マスクで覆われていた。縫い目継ぎ目も見当たらない、スタイリッシュな布製というのがもの珍しくて見ていると、あまり見ないで、安物だからと笑われた。
――あんた! マスクしてないわよ!! ――そんな只事でない様子にピンと来ていない私を見て、おばちゃんはすぐに何かがおかしいと察してくれた。どこから来たの、何があったの。道に迷ったぐらいです。三十年の時を飛んで来たことが発覚した時、二人とも驚きはしたが夢とも嘘とも疑わなかった。唇が恥部か恥部でないか、要はパンツの下を晒して歩けるか歩けないか。認識と感覚の違いは、それほど大きな差異であった。
元の時代に戻れるといいわね――そう言い残し、おばちゃんはチャリを飛ばして帰っていった。私は途方もない感覚を持て余したまま、その言葉に小さく頷いた。戻れるといいわね。その通り、だが、タイムスリップした方法も、切欠すらもわからない。おまけに、唇を晒すことが禁忌であるなんて。唇に当たるナイロン生地が、息苦しくて不安を煽った。
どうしようもなく、その場の縁石に腰かけてぼうっとする。ひとまず爪先を休めるべきだと感じた。そこに、こぞって帰宅せんとする小学生の集団が通りかかる。どいつもこいつもマスクをしていた。そういえば、あのサラリーマンも女子高生もマスクを着用していたように思う。花粉症患者が多いのかぐらいに思っていた。嘘だ。疑問に思ってもいなかった。
「ああー! 何顔につけてんのそれ?」
「メロン忘れたの?」
「メロン忘れたとかださッ!」
「メロン忘れるとかありえなくね?」
先頭の男の子が私を指さし声を上げれば、後続の少年少女もこちらに駆け寄って好き勝手言い始める。窓の向こうの喧騒を見るような感覚に陥り、「メロンって何……」と、脳の片隅から漏れ出るように呟いた。すると、「え?」との後に静寂を挟んで、誰かの「ええええええ!!」を合図に更なる笑いに包まれた。
「メロン知らないとか森!」
「森って何……」
不意にくいと袖を引っ張られて横を見れば、集団の中でも一等小さい女の子が、頬に片手を添えて立っていた。おばちゃんが着けていたのと同じ3D布マスク、しかし、可愛らしい苺柄のそれを私の耳元に寄せてきて、小さく小さく囁く。
「メロンはね、マ……マスクの、ことだよ。マスクメロンの、メロンだよ……」
言い終えて、離れていった顔を見る。なんて愛らしい。少女は、顔を真っ赤にしてこちらを見ていた。ツインテールの先っぽを両手で弄っている。徹頭徹尾小声であったけれど、マスク、という単語が特に小さく掠れていて。……なるほど、メロンは所謂、隠語であるのだ。
子どもの時期、例えばパンツという単語が言いにくくなる。パンツとか、ウンコとか……そういう言葉を、ちょっと恥ずかしいと認識するようになる。そんな気持ちに打ち勝って無知な私を助けてくれた、この少女の健気なこと。私は俯く少女の頭を撫でた。
「教えてくれてありがとう。そうなの、お姉さんメロン忘れちゃったの……」
「まじで忘れたとかやばいやつやん」
うるせえ私はこちらの少女と喋ってんだよ。心底からドン引いたようなヤジに紛れて、少女のうん、という返事が聞こえた。
「私、家近いから、使い捨てのメロンでよければ持ってくるよ」というしっかりものの高学年女子を皮切りに、私は小学生たちに面倒を見られることとなった。どうやら、放っておけない存在、もしくは極まった阿呆として認識されたようである。カメラが滅茶苦茶に沢山ついた「未来のスマホ」を取り出して、お姉さんどんなメロンが好きなの? と画像検索画面を見せられる。あたし、大きくなったらこういうの着けたいんだ……と、黒いメロンの少女に見せられたのは、アラビアの踊り子を彷彿とさせる、セクシーなヴェール型マスクであった。
色、形状、機能性、マスクの商品展開は意外なほど幅広かった。鼻を覆わないタイプのマスクに驚く。ヴェール状のものは、ファッション性に加えて食事をしやすいという点でも最近注目されている優れものだそうだ。
眼鏡とマスクで顔面が渋滞している少年が、マスク文化の歴史についても教えてくれた。曰く、ある時世界的に感染症が流行し、マスクを日常的に使用する時代が到来した。マスク着用は社会的なモラルの一つとされ、ファッション業界と結託することでやがて文化として構築されたらしい。その過程で感染症予防という目的は徐々に忘れ去られ、口元を隠す風習、転じて唇を恥部とする認識が根付いたと。
「でも、この前デモが起こったよね」
「うん、この辺りはね、ジジイらがメロン反対運動してるの」
「年配の方々って言わないとダメなんだよ」
「年配の方々はメロンしない時代を知ってるから」
それを聞いて、私はふうんと頷いた。確かに、三十年の間にそのような歴史の大変革が起こるのなら、唇を恥部とする文化に馴染みない年齢層もまだ残っているわけだ。時代に取り残されている人々の存在を、小学生たちはわざわざ教えてくれる。小学生の話題は多岐に渡った。
夏とか暑いだろうしね。ちょっと同情して言うと、皆一様に力強く頷いた。
「でも、メロンしないとやばいやつじゃん」
しかし、メロン反対運動家は、所詮昔の人間なのである。時代は、新しい世代が作る。いくら苦しかろうと暑かろうと、私がパンツを履くように。三十年後の小学生たちは、パンツとマスクを身に着ける。
お姉さん! メロン持って来たよ! みんな後ろ向けー!
元の時代だ。
小学生たちに道を案内してもらい、駅に繋がる大通りに出た。少年少女を見送り、三十年後の世界で一人ぼっち。……。とりあえずコンビニで飯を買おうと踵を返したところで、視界に入ったのはマスクをしていないサラリーマンだった。
「露出狂!」という叫びは、掠れ声にまで落とすことができた。花粉症の時期なのでマスクをしている人は多いが、皆一様に白い使い捨てマスクを着けている。その雑踏の中で、ごく自然に、素顔の人が歩いていた。
ひとまず近場のコンビニに入っておにぎりとお茶をレジに持っていく。話はそれからだった。
レジの女性はマスクをしておらず、厚めの唇に最近流行りの赤いリップを塗っていた。唇の化粧は、マスク文化においてどうなっているのだろうか。あまり塗りたくるとマスクに付着するだろうし、そもそも人に見せる部位ではない。
「ポイントカードお持ちですか?」
「ポ」と破裂音を出すのに、一瞬閉じた唇が勢いよく開いた。大した衝撃ではないはずなのに、下唇が異様に揺れたように見えた。鮮烈な色のリップは、唇に陰影をもたらして動きを際立たせる。曝け出された上に彩られたその、体内と外界を直接に繋ぐそんな器官が、人の目を誘う。
はっと、吐息がマスクの中に広がる。とっさに顔を背けていた。
「あの、ポイントカード……」
「唇エロいですね」
「はい?」
「メロンした方がいいですよ」