駅に潜むもの
休日のためか、プラットホームの人影はまばらだった。
いつもならこの時間は通勤通学者でごった返しているところだ。
私はスマホをいじりながら、トイレに行った妻子の帰りを待っていた。
悲鳴のような声にふと顔を上げると、数メートル先の不審な母娘の姿が目に入った。
母親は鬼の様な形相で、嫌がる娘の手を引きホームと線路の境界線に向かおうとしていた。
小さなボールを握り締めた幼女の顔は苦痛に歪み、引きつった泣き声を上げている。
その尋常ならざる光景に、周囲の乗客は固唾を呑んで見守った。
まさか……
飛び込み自殺……!?
見ていた者の大半がそう感じたであろう。
それが証拠に、あと数歩で線路へ落下するというのに母親の勢いは止まらなかった。
最後の一歩というところでやっと手が離れ、幼女の体は床面に転がった。
「おい、こら!」
私は思わず声を荒げて叫んだ。
正義感というよりは、幼女の年齢が自分の娘のそれと近かったせいかもしれない。
つい腹が立ったのだ。
異変に気付いた駅員がようやく駆け付けて来た。
二人掛かりで腕を掴まれた母親は、髪を振り乱しながら懸命に逃れようともがいた。
「これしか方法が無いのよ!」
何度もそう叫びながら、娘に近付こうと駅員を押し返す。
思いのほか力強い母親の抵抗に、掴んでいた駅員の手が一瞬離れた。
空を切った腕の勢いにつられ、母親の体が境界線から宙に舞った。
ストップモーションのように浮き上がる肉体……
その身体を運悪く入構してきた急行列車が捉える。
卵を叩きつけたような音が周囲に木霊した。
嘘のような静寂の後、堰を切ったように悲鳴と怒号が飛び交い始める。
走り回る乗客と駅員を見ながら、私の体は小刻みに震えた。
たった今、声を掛けた相手が事故……自殺!?
その事実が耐えがたい不快感を催させた。
茫然と見つめる視界の隅に、床に座る幼女の姿が映る。
泣きじゃくる幼女の手からボールが転げ落ちた。
それはそのまま私の足元まで転がってきた。
反射的にボールを拾い上げると、目前に幼女が立っていた。
訝しげに見つめる私に、幼女はそっとボールを取り上げ微笑んだ。
「次はあなたが遊んでくれるの?」
その言葉と共に突然、ホームの乗客が次々と線路に落下するビジョンが頭に流れ込んで来た。
皆無表情のまま、硬直したように後ろ向きに倒れていく。
何の躊躇いも無く、まるで倒されたドミノのように……
そして怖ろしい事に、その中には私の妻子の姿もあった。
「これは……一体!?」
と絶句した次の瞬間、周囲の景色が一変した。
スマホを片手に立ち並ぶ乗客
待合ベンチに座り談笑する男女
ホームの端で列車を待つ駅員
私がここに来た時、最初に目にした光景だ。
まるで自殺など無かったように、普段通りの雑踏に戻っている。
気付くと幼女の姿も消えていた。
「どういう事だ……」
私は呟かずにはいられなかった。
あれは……幻覚だったのか。
訳が分からない……
頭を振り、正気を保とうと焦る私の背中を誰かがつついた。
慌てて振り返ると先ほどの幼女が立っていた。
「次はあなたが遊んでくれるの?」
幼女は再び言葉を繰り返すと、子供とは思えぬ妖艶な笑みを浮かべた。
それを見た私の背筋に薄ら寒いものが走った。
幼女は問い質そうとする私を手で制し、静かに背後の何かを指さした。
振り返ると、エスカレーターからホームに降り立とうとする妻子の姿が目に入った。
私を見つけ笑顔で手を振る妻と娘。
突如、形容し難い恐怖感に襲われた。
直感的に危険を察知した私は妻子に駆け寄ろうとしたが、何故か体は動かず声も出ない。
「お前の……仕業か……」
金縛り状態の私は辛うじて動く視線を幼女に向ける。
幼女はうなだれたまま肩を震わせた。
「シャァァァァァッ!!」
まるで鳥類のような咆哮が構内に響き渡った。
私の体を貫いたのは驚きでは無く、猛烈な怒りだった。
有無を言わさず、私は幼女に掴み掛かった。
不思議な事にこの瞬間だけ体が動いた。
肩に手を掛けると、雄叫びのやんだ幼女の首がゆっくり持ち上がった。
その顔を見て私の喉から声にならない叫びが漏れた。
耳の付根まで裂けた口
赤く燃える眼球
そして……
頭部から突き出た角のような異物
それはもはや人間の姿では無かった。
熱い異臭混じりの吐息を吐きながら、じっと私の顔を眺めている。
萎縮し、混乱した私の頭は一気に判断力を失った。
なんだこいつは!?
なんなんだ……この化け物は!?
まとまらぬ思考の中、再び先ほどの幻影が瞬いた。
乗客が次々と倒れていく姿……
妻と娘の無表情な顔……
それがこの異形が送り込んだ思念なのか、自分自身の想像なのかは分からない。
ふいに、このままでは駄目だという本能が働く。
なんとかしなければ……
私はもう一方の手で幼女の腕を掴むと、線路との境界線へと向かった。
今ここで息の根を止めねば……
私の……妻と娘が……
床面に倒れ、なお引きずられる幼女の姿を見て乗客の一人が悲鳴を上げた。
それを聞き付けた駅員たちが慌てて駆け寄って来る。
左右から腕を掴み、強引に私から幼女を引き離そうとした。
私は半狂乱の如く抗いながら叫び続けた。
「頼む!これしか……これしか方法が無いんだ!」
遠くの方で警笛が鳴っていた。