第98魔 『誓いのキス』
「……もういいでしょ。オックスを出してあげてよ」
「おいおい、彼氏の前で元彼の名前を出すんじゃねぇよ。腹が立って、腹が立って、思わず痛めつけちまいそうになるじゃねぇか」
「やめて! もう言わないから、これ以上は……やめてよ……」
「もう元彼の話はしないと誓うか? 忘れると誓うか?」
「……誓うわ」
「うーん、口ではなんとでも言えるからなぁ。やっぱり行動で示してもらわねぇと」
「……じゃあ、どうすればいいのよ?」
「そうだな。キスをしてもらおうか。誓いのキスってやつだ」
「キス……?」
ルビーの顔が更に青ざめる。
それを見たソルベーが眉をひそめた。
「嫌なのか、それじゃ……」
「嫌じゃない! 嫌じゃないわ! するわ。キスするから……でも、お願い。ここじゃない場所で……ここじゃ……嫌……」
「ダメだ。こいつの前でやるんだ。俺は彼氏なんだぞ? 元彼がいようが、彼氏の頼みを優先するのは当たり前だろ。それとも付き合うってのは嘘だったのか? なら……」
ソルベーが右手を掲げると、ルビーはソルベーの足元に縋りついた。
「待って!」
それを見下ろし、ゲス男は恍惚の表情を浮かべる。
「愛しの彼氏がお願いしてるんだ。――どうする、ルビー?」
「……やるわ。キス……するわよ」
顔を伏せ、ルビーが立ち上がった。
「ハッハッハッ、悪ぃな元彼くん。――さぁルビー、元彼くんに見せつけてやろうぜ。おっと、軽いキスで逃げようなんて思うなよ? やるのは舌を入れた濃厚なやつだ。そうだな、最低1分は続けるぞ? わかったな?」
「…………わかったわよ」
顔を上げたルビーには、表情というものが無くなっていた。
震えながら、小さな顔を、ソルベーのニヤケ面へ近づける。
この世の地獄のような光景だった。
だが、オックスは目を逸らさずにいた。
いや、どうしてだか、逸らせなかった。
ギリギリと歯軋りが鳴る。
歯がかけようが関係ない。
いっそ狂ってしまえば、どんなに気が楽だろう。
この気持ちは……なんだ?
怒りや、不甲斐なさの他に湧き上がった感情は、オックスの知らなかったものだった。
これは……これが『嫉妬』なのか……。
左肩の紋様部分が、なぜか燃えるように熱い。
そして、ルビーが目を閉じ、そのピンクの愛らしい唇が、汚らしいソルベーの口へ……
「なにをしているのです?」
「うおぉっ!」
唐突に聞こえた声に、ソルベーがビクッと跳ね上がって、後ろを振り返った。
「なにをしているんですか、あなたは?」
そう言ったのは、オックスらに首輪をはめた貴族風の男――ダビドンであった。
「旦那……ここでいったいなにを?」
「質問しているのはボクですよ。いったいなにをしているんです?」
呆れたようにいうダビドンに、ソルベーは、しどろもどろの弁明をした。
状況から判断するに、立場はダビドンの方が上らしい。
「……というわけでして、あの、それで旦那はなにを?」
ソルベーのデタラメな説明を聞き流し、ダビドンがオックスを見つめた。
「こいつに用があります」
「用って……」
「あなたには関係ありません」
そういって、ダビドンは鍵の束を取り出すと、カチャカチャと牢の鍵穴に差し込んだ。
ギィィィィ、と格子の扉が重い音を立てて開く。
「だ、旦那! いったい何を!」
ソルベーの叫びを、ダビドンは無視した。
そのまま牢屋へと足を踏み入れる。
オックスは床に倒れ込んだまま、その様子を見ていた。
なんだ?
なにをしようってんだ?
こいつはボーリを連れ去っていったはずだ。
こいつをぶちのめして、ボーリがここへ来たってんなら、状況は理解できる。
だが、こいつがひとりで俺に会いに来る理由はなんだ?
それどころか牢に入ってくるとは……。
それにボーリは何をしている?
そのとき、今置かれている状況を改めて見つめ直した。
まさか、こいつは……。
すると、ダビドンのやろうとしていることが理解できた。
つまり、こいつは、ソルベーと同じことをしようとしている?
ボーリが、俺のことを、主人だと白状でもしたのか。
それで、俺をボーリのいる部屋に連れて行って、俺を餌にボーリを服従させるつもりなのでは?
今、ソルベーがやっているように。
その予想が正しければ、ボーリはダビドンの言いなりになってしまう。
ボーリにとって一番大事なのは、オックスの命なのだから。
だが、ダビドンの行動は、理解の範疇を超えていた。
新たな鍵束を取り出し、オックスの首輪の鍵穴に鍵を差し込んだのだ。
ガチャン。
オックスの首から忌まわしい魔道具が外れ、床へ落ちた。
それどころか、ダビドンはオックスの手枷と足枷も、同じように外していった。
すべての戒めから解放されたオックスは、ゆっくり立ち上がる。
ダビドンの行動の意味も理由もわからん。
だが、今なら。
そして、ソルベーを睨みつけた。
オックスから、ただならぬ殺気が放たれる。
今なら……。
今の俺なら、このクソ野郎を!
「ヒッ!」
ソルベーは短い悲鳴をあげると、ルビーを抱えて、弾かれたようにその場から逃走した。




