第37魔 『不思議な赤ん坊』
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台所で温めた羊のミルクを手に、シスター・リーチは小走りに急いだ。
急ぎながら考える。
教会本部からの指示で、今日から預かることになった赤ん坊についてだ。
恐らくはあの子は、高貴な生まれだ。
教会本部の腫れ物に触るような内容の手紙から、それだけはわかった。
それはいい。
生まれがどうであろうと、自分の対応は変わらない。
ただ……なんというか不思議な子だったのだ。
まず見た目からして、生まれつきあるという全身の紋様は、見たことがないものだった。
それもさることながら、問題はその行動である。
ミルクを飲まないのだ。
いや、飲まなかった、というべきか。
シスター・リーチは預かってすぐに、ぐずる赤ん坊へミルクを与えた。
だが、まったく飲もうとしない。今まではどうやら、泣き叫ぶこの子に、無理矢理飲ませていたらしい。
長年の経験から、お腹が空いているのは間違いない。
なのに、ミルクを口に近づけると、顔を背けるか、手で追いやってしまう。
無理矢理飲まそうと思えばできなくもないが、食事のたびに嫌がる様を見るのは心苦しい。何も口にしようとしない赤子に、シスター・リーチは困惑した。
このままでは……。
困り果て、苦肉の策とばかりに、目の前でミルクを手に取り、なめて見せた。
するとどうしたことか。
赤子は、がっつくようにミルクを飲み始めたのだ。
それから数度、赤子にミルクを与える際は、必ず目の前でなめて見せなければならなかった。確かに一手間だが、これで赤子の健康が保てるなら安いものだ。しかし、これはどういうことなのか。
もしかしたら、ミルクに毒が入っていないかをシスター・リーチに確かめさせているのだろうか。
まだろくに目も見えていないだろうに、不思議な子だ。
もしや全身にある紋様が関係しているのかと、シスター・リーチは文献を調べようとして……止めた。
妙な偏見を持つことを恐れたからだ。
唯一、背中にある紋章だけは、かの聖人オックスと同じ、全能神ローレンシアの紋様だとわかっている。
艶々とした黒い髪に、広大な海を連想させる青い瞳。
背中に全能神の紋様を授かった、かわいい赤ん坊。
この子に関しての情報は、それだけで十分だ。
どんな事情があろうとも、シスター・リーチの役割は変わらない。
親から見捨てられた不憫な、かわいらしい赤子に教えなければならないのだ。
そして与えなければならない。
本来ならば親が教えて、そして与えてしかるべき『愛』を、だ。
それが神に与えられた自分の使命だと、シスター・リーチは身を引き締める。
とはいえ50歳を超えて、めっきり体力が落ちている。
教会本部に申請をしている、人員補充はまだだろうか?
でも、それまでは……。
――それまでは、なんとか1人で踏ん張らねばなりません!
やがて赤ん坊のいる部屋に着く。
すると、部屋の中から複数の声が聞こえた。
全て女性の声だ。
シスター・リーチの全身から、サァと血の気が引く。
もしや、子供泥棒?
「誰かいるのですか!」
急いでドアを開ける。
が、しかし、部屋にいるのは、1歳になる赤い髪の女の子ルビーと、例の乳飲み子だけだ。
「気のせいだったのでしょうか……あらあら、まぁまぁ!」
シスター・リーチの顔がほころぶ。
ずっとしかめ面だった赤ん坊が、なんと笑っているのだ。
ミルクを机に置き、ヨシヨシと赤ん坊を抱える。
ダーダーとほがらかな笑顔で、黒髪の乳飲み子はシスター・リーチを見つめている。
そのとき、
『オックス様、どうか、お健やかに……』
微かな声が聞こえた気がした。
「誰です!」
だが周りを見渡しても、やはり誰もいない。
幼い少女の声だった気がする。
気のせいだろうか。
たしか『オックスさま』と……。
そのとき、シスター・リーチは、ハッと何かを思いついた表情を浮かべた。
「そうですね……。背中の紋様も同じですし。お前の名前は『オックス』です。――いいですね? オックスや」
言って高く赤子を掲げると、赤子――オックスは、ダーと嬉しそうに笑った。




