正しい未来の選び方
パシンッ
振りかぶった手のひらはためらうことなく私の頬に振り降ろされた。こんな時だというのに振りかぶられた手の影を見ながらぼんやりと、
(ああ大きな手のひらだな。)
なんて思っていたのだ。
思わず蹲るほどの痛みとともに、私の頭には様々な情報が流れ込んできた。
見上げるほど高い建造物。
けたたましい騒音をあげて走る箱。
庭もない狭い住居。
手軽だけれど十分満足できる食事。
頭の中に落ちてくる情報を積み重ねながら、情報たちを分析。
私はその時思った。
ああ、これって異世界転生ってやつ?
私はもともと地球と呼ばれる星の日本という島国で暮らしていた。
とりたてて美人でも頭脳明晰でもセレブでもなかったが、ほんわかとしたあたたかい家族に囲まれて充実した仕事を得ていたあの頃の私は確実に幸せだったのだと思う。
ずっと自我の奥底で眠っていた日本に居た頃の”私”だが、どうやら頬をぶたれた衝撃で一気に目覚めたらしい。
なぜ今になって目覚めたのか。
こんなにも周囲に踏みつけられている自分に耐えきれず呼び起こされたのかもしれないし、もともと短気であった日本に居た頃の"私"の怒りのメーターが振りきれて自発的に目覚めたのかも知れない。
まあ、どっちでも良いのだけれど。
この世界は日本でも娯楽小説や漫画で愛されていた剣と魔法のファンタジーななんちゃって中世風。スーリルズ王国というのがこの国の名前だ。
王族が国のトップに立ち、貴族が領地を治めて王家に忠誠を誓っている。そんな制度の中で私は次期侯爵夫人というポジションだ。
いや違う、次期侯爵夫人だった。
もともとガレノス伯爵家の娘として生まれた私、リーティアは12歳の頃に当時16歳であったウルボス侯爵家嫡男であるライノルト様と婚約した。
貴族らしい貴族である両親から「貴族であるからには親が決めた相手と、家や領地のためになる婚姻を結ばねばならない。」と物心ついた頃から聞かされ続けた私は、この婚約をそんなものかと受け入れた。しかしライノルト青年にとっては大層ご不満の様子だった。
美しい銀髪に凍てつくようなアイスブルーの瞳。まだ少年の面影を残す16歳のライノルト様はご令嬢方から大人気という噂ではあったけれど、初対面から敵意むき出しだったために恋に落ちるということもなかった。
確かに16歳という難しい年頃で12歳の少女と将来結婚せよと言われると、反抗心が湧いてくるものなのかもしれない。
特にウルボス侯爵家のご当主と夫人は貴族としては珍しい恋愛結婚で、今でも見ていると恥ずかしくなるほどの仲睦まじさ。幼馴染であった男爵令嬢を身分差をものともせずに熱烈に求婚し、恋を成就させたというお話は市井の者でも知っているほどの恋物語だ。
そんな両親を見てきたライノルト様は「どうして自分だけ。」という気持ちが少なからずあったように思う。
まあ、だからと言って顔合わせの際に4つも年下の少女を強く睨みつけるなんてどうかと思うけれど。
さらに夫人が「婚姻を親が決めるなんていう負担を強いてごめんなさいね。」なんてウルウル涙目で言うものだから、ライノルト様の悲劇のヒーロー化が進んでいったように私は考察している。
そもそも何の利益にもならない男爵令嬢を恋情だけで娶り、侯爵家の財政を悪くさせたのはご当主と夫人だ。ライノルト様も恨むのならご両親を恨んでくれと思ったものだ。
最初から上手くいくわけがないと思っていた関係だったが、親は立ち止まることも振り返ることも許してくれない。私は戦場の捕虜のような諦観した顔で花嫁支度をし、花婿にまったく歓迎されていないにもかかわらず15歳で嫁いだのだった。
そんな風にはじまった婚姻関係が上手くいくと思うだろうか?
勿論上手くいくわけが無い。
結論から言うとライノルト様は初夜でも寝室には訪れなかった。それどころか15歳の頃からの恋人だという方を結婚式の前から館に住まわせたため、私は結婚したその日から夫の愛人と同居することになったのだ。
貴族の婚姻は家同士の契約。だからこそ恋情や愛は外で育むのは一般的。しかし普通であれば外に屋敷をかまえたり、敷地内であっても離れを建てたりするものだ。ライノルト様にとってはそんな当たり前の気遣いすら必要のない相手として考えられていたのだと思う。
自分の意思に関係なく決められた婚約者。だからこそ自分の関心は向かわないと見せつけたいかのようだった。
どれもこれも私を傷つけようとする行動だと分かっていたが、不思議なほどにまったく心が動かない。なぜならライノルト様に恋したこともなければ期待もしなかったからだ。
私の持参金を手に入れ、数年後に子ができないということで離縁するつもりであることは分かっていた。
15歳で嫁いだ私はまだ18歳。再婚も今よりも格下であれば十分に可能。
そんな状態だからこそ、ライノルト様は私が何の抵抗もせずに離縁に応じると思ったはずだ。
さらに追い打ちで一発くらい叩いておけば、混乱状態の中ことを有利に進められるとでも思ったのだろう。
確かに淑女たれと刷り込みされてきた今までの私であればライノルト様の思い通りだったかもしれない。粛々と離縁を了承し、実家に戻った後に高齢者の後添えにでもなったのだろう。
だからこそライノルト様には頬を打ってくれたことに感謝しなければならないだろう。
誰が思い通りになるかよ、このくそ野郎!!!!
まさか私がこんな風に思うようになれるなんて。
蹲ったままの私は頬にあてていた手を眺める。白魚のような美しさに自分でもびっくりとしてしまう。
俯いた時にサラリと視線に入る髪は波打つブロンドで、窓から入る光できらめている。瞳は確かエメラルドグリーンで、睫毛はバサバサと音をたてそうなほど。
そう、今世の私は夫に愛されないことが不思議な驚くほどの美人なのだ。
そんなことをぼんやりと考えていると、大人になっても反抗期から抜け出せない夫がイライラを隠せずに怒鳴り散らしてくる。
「おい!聞いてるのか!?いつまでたっても子がなせないお前などお荷物だと言っているんだ!離縁だ離縁!!」
夫はなんだかガウガウ怒っているようだが、私はいまだに自分の魅力に夢中である。
あれ、私のお胸、けしからんな!!!
「ちょっと!ライノルトが話しているのよ、聞いているの?」
経年変化で少し乾燥してしまった砂糖菓子さん、元男爵令嬢ことウルボス侯爵夫人が甲高い声で叫ぶけれど、私の魅力の確認の方が今は大切である。
けしからんお胸のクセしてこのウエストの細さ!!
「おい君、聞いているのか?」
侯爵ご当主はいつまでも立ち上がらない私を冷たく見下ろしている。
あれ?だれも私の心配してなくない!?立派な体格の男にぶたれたんですけど!!!
と思ったところで目に入ったむっちりとしたおしりに気分があがってしまう。ああ!メリハリけしからんマシュマロボディを神様どうもありがとう!
だがしかし、こんな絶世の美女を引っ叩いておいて謝りもしないなんて良い性格してるな。
今までは刷り込みのように言われていた、夫に従順であれという言葉に無意識に従っていた。
けれどもう我慢できない!!
ッブ......ブブッ........
だめ!笑いが我慢できないよ!!
急に笑い出した私を3人は不気味なものでも見るかのように見つめてくる。
「あーはっはっは。侯爵家のみなさんはもしかして神話の女神や聖女を嫁にもらったとお考えですの?私、人間の女なのでご期待にそえませんわ!ごめんなさいね。」
笑いながらそう言うと、侯爵様が怪訝な顔をする。
「それはいったいどういうことなんだね?」
「ですから処女懐胎をお望みなのでしょう?」
「え?処女!?」
「ええ、お義父様やお義母様に閨でのことをお伝えするなんて恥ずかしいのですけれど、私旦那様と寝所を共にしたことは一度もございませんわ。」
クスクス笑いながらそう告げると、侯爵様と夫人は間抜けな顔で息子を見つめている。
ライノルト様は私が反抗するなんて思ってもみなかったのだろう。両親からの視線に耐えきれずに下を向いてしまっている。
良い年をした青年が恥ずかしいぞ!まったく。
「私の証言だけでは信じていただけないかと思って、診断書もとってありますわ。必要であれば後で届けさせます。」
侯爵様は眉間の皺をより深めながらため息をついた。
「ライノルト。夫としての役目を果たさないとはどういうことだ?」
「ですが父上。私は自分で相手を見つけたかったのです。」
「そういうことを言っているんじゃない。そもそも愛人をもっていることについては私たちもリーティアだって文句を言っていないだろう。」
真っ当な正論にライノルト様はお返事ができなくなった模様。
「夫としての役目を果たさず、子ができないから離縁など矛盾しているにもほどがあるではないか!!」
怒りがつもっているようで侯爵様のお声は徐々に大きくなっていく。
「っ...ですが!」
ドガッ
反論する間もなくライノルト様は侯爵様に殴られて吹っ飛んでしまった。とっても痛そうではあるが、溜飲が下がる訳でもない。
「盛り上がっているところ申し訳ないのですが、親子喧嘩は後にして下さる?」
「あ、ああ。リーティア、すまないね。愚息にかわり謝罪するよ。」
頭を下げる侯爵を見つめる。許しを待っているのだとは思うけれど、ここでそれを受けいれるほど私は優しくないのである。
「申し訳ありませんが、許しませんわ。」
「ぐっ...。」
「そもそも侯爵様に私からの許しなど必要ございませんでしょう?12歳で婚約を結んでから18歳までの6年間、私は無いものとして扱われました。だからこの怒りは私だけのもの。私の心が納得したタイミングが決着をつけるとき。それまではたとえ誰に何を言われたとしても決して許すことはありません。」
せっかくここまで言いたい放題したのだから諸悪の根源にも文句を言っておきたい!倒れたまま呆然としているライノルト様に向かって口を開いた。
「ライノルト様。親が決めた婚姻を不服に思うのは自分だけだと思っていましたの?」
「君は最初から微笑んで満足そうだったじゃないか。」
不貞腐れたような顔で子どものようなことを言う。
「ねえ、ライノルト様。私ずっと不満でしたわ。いくら婚約が不満だからと言って顔合わせで4つ下の令嬢に微笑みも見せない思いやりのなさ。あなたが婚約した頃よりも幼い15歳という年齢で私が嫁いできた時に、愛人を同じ館に住まわせる無神経さ。貴族として生まれたという無駄な矜持は持ちつつも、家のためや領民のための有利な婚姻に関しては後ろ向きな身勝手さ。」
ライノルト様を好きになったことなどなかったのに、なぜだか涙が勝手に出てくる自分が嫌になる。最後まで毅然としていたいのに。
「気づいておりましたか?愛人の方のお誕生日、私のお誕生日の次の日ですの。華やかなパーティーが開かれて館全体が楽しい雰囲気に満たされている夜。私がどのような思いで眠りについていたか知っておりましたか?」
「そんな、言ってくれたら良かったじゃないか!」
「言いましたわ。最初の年、まだ私も子どもだった頃ですわね。ほんの少しだけ期待を持ってしまった私はあなたに誕生日を伝えました。そうしたらその日の夜、ケーキが部屋に届きましたの。」
私はクスクスと笑いながら言葉を続ける。
「一人っきりで部屋にケーキだけ届けられて、カードもございませんでしたわ。余計に惨めになってしまって、翌年からは何もお伝えしなくなりましたの。」
大分ダメージを受けているみたいだけれど、まだまだ言い足りない。
「そうそう。愛人の方は花は薔薇、お菓子はクリームたっぷりのケーキ、そして色はピンクが好きなのではなくて?」
「なぜそれを君が知っているんだ?」
「あら、私の推理なんて大したことないのですよ。婚約期間の3年間で贈りものを受け取ったのは婚約した際のものだけ。その時にピンクのリボンで包んだ薔薇の花束にクリームたっぷりのケーキだったからですわ。」
「覚えていない。」
「ええ、意に添わぬ婚約者の好みなど把握する気もなかったのでしょう。恋人の好みのものをそのまま選ばれたのだと想像がつきました。ねえ、哀れだと思いませんか?」
「ねえ、これって良いタイミングだったのではない?」
今まで呆然と成り行きを見守っていた侯爵夫人が手を合わせて微笑みながらよくわからないことを言いだした。
「申し訳ありません。何が良いタイミングだったのか、理解できないのですが。」
「あら、頭の良いリーティアちゃんなのに今日は察しが悪いのね。初めて会ったときからあなたたち2人は色々と不満があったのでしょう?だから今日ここで不満をぶつけあうことで本当の夫婦になれるのでない?」
「母上!」
不満そうにライノルト様が抗議しているが、珍しく私も同じ気持ちだ。
「侯爵夫人、仲直りのきっかけになる話し合いで普通暴力は振るわれませんわ。結婚前から浮気をし、夫としての義務も果たさず最後には暴力を振るう。こんな悪い条件のもと、再びよりを戻したいなんて思う女性はなかなかおりませんわ。」
そろそろ糾弾するのも飽き飽きしてきたので決着をつけようと思う。
「侯爵様、この場合離縁ではなく婚姻の白紙ですわね。」
ニコリと笑ってそう告げると、いつもは凍り付くような視線を向けてくる侯爵様は珍しくうろたえだす。
「いや、待ってくれ!」
「待ちませんわ。嫁いで3年、使用人でさえ誰も私の言葉なんて聞いてはくれませんでしたもの。白い結婚だったのだから婚姻の白紙ですわ。私がこちらへ持ってきた持参金の全てを実家へと返金してくださいませ。」
「くっ......。」
「輿入れの際に目録をお渡ししているはずですので不足の無いようにおねがいいたしますね。」
もともと私の持参金目当てで婚姻を結んだほどの財政だからこそ、侯爵家にとってはかなりまずいことになるはずだ。なんなら慰謝料だってとりたいくらいだけれど、やりすぎて恨まれてもたまらない。
これ以上誰も言葉もでないようなので、そろそろお暇しようかしら。
「では、私はこれで失礼いたしますわ。」
「おい!どこへいくんだ。」
ライノルト様が私の背中に向かって話しかける。
「離縁に関しては、後日第三者を通して手続きさせます。私はどこかでゆっくりしてから今後の身の振り方を考えるつもりです。ですのでお気になさらず。」
「離縁された女の未来など悲惨なものだろう。ここに居れば名だけでも妻として扱ってやると言っているのに。」
「離縁ではありませんわ。婚姻の白紙です。」
「それでもだ!!」
「矜持をずたぼろにされ踏みつけられながら安寧を得るのであれば、私は自分の手で苦しんででも胸をはれる未来を選びとります。この先は私たちは他人です。ですので御心配には及びませんわ。」
「あのー。」
ライノルト様と不毛な押し問答をしていると応接室の扉がそろそろと開き、一人の男性が現れた。
「今日はお買い物があるとのことで呼ばれていたのですが。」
申し訳なさそうに出てきた男性は最近出入りしている商会の方。蜂蜜色の髪にヘーゼルの瞳。メガネをかけたその男性は木漏れ日のような優しい雰囲気を持っていた。
「あら、商会の方がいらしているとは知らず申し訳ございません。内輪の話をしておりまして、お騒がせいたしましたわ。」
私がそう言うと不思議そうにじっとこちらを見つめてくる。
「あなた様がご子息の夫人でいらっしゃる?」
「ちょっと前まで。婚姻を白紙にいたします。未来はバラ色ですわ!」
「......それはそれは、おめでとうございます。」
興奮気味にそう伝えると、苦笑しながらもお祝いをいただけた。
「ところで奥様をスカウトしたいと言えば頷いていただけますか?」
「せっかく独り身になったばかりなので婚姻関係のお話は避けたいところですが。」
「それは残念。であればあなたの営業力、貴族としての知識、センスなどが十分に発揮できる職へのお誘いなら?」
「あら!それはとても興味があるわ。」
「お話を聞いていただけるのであれば、商会で懇意にしている代理人もご紹介しますので今後のためにもなるかと。」
「そこまで親切にしていただける理由は何かしら?」
「勿論こちらの利益になりそうだからです。知識も外交力もある女性が職に就くことがまず稀なのですよ。」
「そう、ではお話だけでも聞いてみようかしら。」
「商会の事務所までご案内いたします。ところでお荷物はないのですか?」
「大切なものはある場所に預けておりますし、夫から贈り物をもらったことが無いので持ちだすものもございませんの。」
「身軽なのは良いことですよ。では参りましょう。」
呆然としている侯爵家一同を置き去りにしてとんとん拍子で話しを進める。
「そう言えば侯爵家の買い物でいらしていたんでしょう?もう帰ってよろしいの?」
「ええ、最近お支払いが滞ることが多かったのですが先ほどのお話をお聞きすると今商品をお渡しできる状態ではないようなので。」
「まあ、賢明な判断かもしれないわね。」
「では3年間お世話になりました。今後の皆さんのご多幸をお祈り申し上げますわ。」
ニッコリと微笑むと今度こそ侯爵邸を去った。
この後、様々なアイデアを提供して商会を爆発的に大きくすること、
商会の青年から溺愛され初めて受け取る愛の大きさに慄くこと、
王家御用達にまでなり夜会で侯爵家の皆さんにざまあすることになること。
今までの人生では想像もできなかった、楽しいことや幸せなことが一気に押し寄せてきて幸せに溺れそうになるなんて予想もつかない日々の話はまた別の機会に。