前
一人で秋を迎えるのは、もう何度目になるだろう。この頃はもう年を重ねる度に、孤独になっていく気がする。孤独に、同時に、自由に。
かさついた髪に触れる風が涼しい。昨日までは感じ取れた夏の名残の熱はどこかに吹き飛ばされて、空の高いところにはほうきの跡に似た薄い雲が浮かんでいる。冬の先触れの寒さもまだない。完璧な、秋だ。ごく短い期間しか味わえないその空気の中、いつもよりもゆっくりと歩く。
澄んだ藍色の海に、白い泡の筋ができている。もう耳になじみ過ぎた波の音を、拾い上げるようにして聞き取る。スニーカーの下で白い砂が沈む。ゆっくりと歩く。浜を歩いている間は、仕事について何も考えないことにしている。急な依頼で眠れていなくても、家に帰った途端にパソコンと向き合わなくてはいけなくても、この時間は、そのことを考えない。海に向かって心を開け放しておく。そうやって、心を静かに保つ。静かな、一人きりの生活。孤独で、快適な、私だけの生活。長い時間をかけて、すっかり若さを失った私が手にした、あるいは私が辿りついた生活。それを、きちんとしたかたちで保っておくには、こういう時間が必要だった。
夏場よりも色が濃くなったように見える砂を見る。たまにいいガラス片が見つかるのだ。シーグラス。今日も見つけた。石に混じって、あおいガラス。拾いあげて光にあててみる。曇った丸い水色。硬くてひやりとした儚い手触り。もともとは何だったのだろう。どこからやってきて、こうなるまで、どのぐらいの時間がかかったのだろう。
少し楽しくなって、口笛を吹いた。吹き始めてから、その曲がニューシネマパラダイスの愛のテーマだということに気づいた。私の口笛は細く、寂しげな音が出る。
最初、気のせいかと思った。感傷的な気分が勝手に音を足しているのかと。それはその口笛が、あんまりにも私の気分にぴったりと沿っていたせいでもある。寂しくて、それでいてたっぷりと甘くて。それが現実の音なのだとわかってからも、なんだか夢のようだと感じていた。海風の中、細い糸のような私の口笛に、細く淡いのに決して途切れることのない音が甘く絡みつく。一息吹くごとにその音は口笛だけでなく、私自身の輪郭に甘く沿って絡む。潮風さえどこか甘くなる。
導かれるように吹き、導かれるように終わった。甘い余韻の底で、波の音がざわめく。
「先生」
そう呼ばれること自体、久しぶりだった。振り返る。
「……驚いた」
口をついて出たのはその言葉だったけれど、自分で知覚できる意識の奥では、知っていた気がした。寂しく甘い夢のようなニューシネマパラダイス。口笛ではないけれど、それを聞いたことがあった。何年か前の自動車のCMで、白いシャツとジーンズの彼が弾いていた。映画音楽からポップスやロックまで、さまざまな曲のピアノアレンジを彼が弾くシリーズ。あれで、彼の名前と顔はクラシックファンだけでなく、本当に誰もが知ることになった。大衆化したのだ。それでも、もともとのファンや評論家からの評価も高いままだ。先月もニューヨークでコンサートを開き、大喝采を浴びていた。来月にもまた東京でコンサートがあるはずだった。
「……久しぶり」
目を細める。
写真や動画で見るよりも、ずっと背が高いように思う。かたちのいい小さな頭蓋骨。陰になったところは青く見えるほど白いなめらかな肌。細長い手足の運びは無造作でも、どこか人に見られ慣れた人間の洗練がある。どの瞬間もそれで一つの絵のようだ。着ている薄手の黒いセーターも細身のパンツもキャンパスシューズも、派手ではないけれど高いものなのが一目でわかる。その佇まいが、この寂れた町に慣れた私の目にはいちいち浮き上がって見える。注目と喝采を浴びるために生まれたような人間。
「うん。久しぶり」
でもそのどこか躊躇いながらも甘えるような微笑みは、昔のまま、小学生の彼のままだった。日に焼けた肌の、いつもぐにゃぐにゃと何かにもたれかかろうとする男の子の姿が、記憶の底から不意に鮮明に浮かび上がる。十五年。小学校を卒業した彼がこの町を出て行ってから、もうそれだけの時間が経っていた。
「……帰ってきてたの?」
テレビか何かの取材かもしれない、と思って、こっそりあたりを見回してみる。静かな砂浜に、私たち以外の影はない。
「うん」
この大人が信頼できるのか見定めようとしながらも、甘えたい気持ちが隠し切れない。そんな様子で彼はうなずく。子供の頃からいつもそんな調子で話すので、生徒の扱いはなるべく平等にしようと心がけていても、どうしても注意を持っていかれた。半ば無理矢理のように注意を引き付けられて、指導にも熱がこもった。もっともその熱は、彼のそういう態度のせいだけに引き起こされたものではなかったけれど。
「先生、変わらないね」
そういうことを言われたときの習慣として、否定しようとする。もう、年寄りだ。でもそんなことは彼にだってわかっているだろう。くすんだ肌。柔らかく崩れていく体型。見ての通りだ。しかし、歳をとっても、私は変わらない。ある意味ではその通りでもある。
「君も変わらないね」
「ほんとう?」
無防備なほど無邪気に尋ねる彼に頷く。
「全然変わらない。背は高くなったけど」
彼は笑う。そういえば、笑窪があったのだ。思い出す。どれだけ写真や動画で見慣れていても、また出会うまで見落とし続けていたところがあるのだ。
「先生、散歩?」
「そう。散歩」
「散歩毎日してるの? 今も?」
頷いた。
砂浜を歩くのは毎朝の習慣だった。よほど強い雨でも降らない限り、朝食の後に砂浜を歩く。もうずっと、ずっと、そうしている。この町に帰ってきてから二十五年、ずっと。
彼が小学生のころ。彼は夏には朝から海で遊ぶので、よく会った。ちょっとだけちょっとだけ、と言いながら、結局いつも昼まで付き合わされたものだ。彼には漁師の父と看護師の母がいて、二人とも忙しく、なんとなく、私が彼の面倒を見ることを期待されている気がした。三十を過ぎて結婚もせず親の世話もせずに暮らす女には、その程度のことは当然に期待される。ここはそういう町だった。ひとたび目を離せば沖に向かってどこまでも泳いで行ってしまう男の子を捕まえて、もう帰ろう。帰って一緒にお昼にしよう、と言い続けていた。痩せた真っ黒の彼は私に捕まるとだらんと力を抜いて重たくなって、まだ遊ぶんだと砂の上に倒れ込んだ。ときどき私も引きずり倒されて、二人で砂まみれになった。
ずっと泳いでいったら何があるの。
いつだったか、濡れた肌の彼が寝転がって言った。
別の国。
そのうち行ける?
その問いを覚えているのは、彼がいずれ、行ってしまうだろうと思っていたのを言い当てられたような気がしたからかもしれない。あのとき、私はなんと答えただろう。海の向こう。別の国。私が見られなかった場所。小さな痩せた背中にくっきり浮き出した肩甲骨。こんなに幼いのに、すでに私よりも、私のほんの僅か輝かしかった若い日よりも、ずっと、ずっと、彼の翼は力強い。どこにでも行ける。まだ、この子はそのことを知らない。
「楽しかったなあ」
「え?」
いつの間にか肩に腕が触れそうなほどの距離に彼が立っていた。あのとき私が思った通り、十二歳でこの町を出ていき、十五歳で日本を出て行った彼。
「夏はここで先生と遊べて、いつも楽しかった。いっぱいしゃべれたし、お昼も食べさせてもらって」
なんの他意もない、混じりけなしの懐古だった。丸く大きな瞳に、海から光の粒が入り込んでいる。
「俺、先生大好きだったから、ほんと楽しかった」
小学生のころと何も変わらない、甘えた物言い。躊躇いながらもこちらに寄り掛かるような微笑み。
眩しい。
私は目を細めて、黙っていた。彼は私の手を握った。それは男が女の手を握るやり方ではなく、子供が大人の手を握るような、不格好なやり方だった。軽く握り込んだ私の手を無理に開かせて、自分の手を滑り込ませる。子供のやり方で握りながら、大きな大きな手のひらの中に、私の手を覆ってしまう。なんて大きくて、指先まで力強い手だろう。彼の手。世界中に届く音を奏でる手。乾いた皮膚が、脈打つように熱い。
顔をあげると、彼はちょっとした悪戯を成功させた子供の顔で笑っていた。私も笑おうとする。うまくできたかはわからない。
「……うちに来る?」
「いいの?」
聞きながら、もうすっかり行く気になっているのがわかった。かかとが軽く跳ねて、握った手がぽんぽんと彼の腿にぶつかる。
今度は笑おう、と思うよりも前に、笑っていた。
海辺の家は両親の遺産だ。三人で住むには大きくはない家だったが、一人で住むには広い。どうしようもないところ以外はほとんど手を入れていないので、ずいぶん古びている。台風が来るたび、軋む家の中で縮こまって、これが最後かもしれないと覚悟を決めることになる。これが最後かもしれない、それでもかまわない、と。
「教室、もうやってないの?」
壁の、四角く色が変わったところを見て彼が尋ねる。五年ほど前まではそこにピアノ教室の看板があったのだ。
「もう私も年だしね。やめちゃった」
引き戸を開けて中に入る。ものがないので散らかってはいないけれど、一人しか出入りしていない家はくたびれた気配に満ちている。自分でも久しぶりに見る客用のスリッパを、玄関の物入から引っ張り出して勧める。
「中、全然変わってないね」
「そう?」
ポケットからガラスを出して飾り棚の籠のそばに置いた。拾ったら置いておいて、気が向いたときにまとめて洗って籠の中に入れる。籠の中にはそうやって集めた色とりどりのガラスがいっぱいだ。窓から日が入ると、きらきら光って綺麗。
「ガラス?」
飾り棚の前に立つ私の両脇に手をつくようにして、彼が尋ねる。私の髪が、彼の声で揺れる。
「先生まだこういうの拾ってたんだ」
籠の中に節くれだった長い指を入れる。かしゃかしゃ、と高い音が立つ。音と感触を楽しむように、籠の中をかき回す。ぱちぱちと、籠の中で光が跳ねる。
「覚えてるの?」
尋ねると、指が止まった。
「覚えてるよ」
指を抜く。籠の中のガラスは、なぜだかさっきよりも生き生きとあざやかに見える。日常の中に沈んでいた色彩が浮き上がってきたような。
「すごくよく覚えてる」
念を押すようにそう言うとかかとを使って靴を脱いで、つま先で引っ掛けるようにしてスリッパを履く。何かを急いているような仕草。昔と同じだ。
廊下を通って居間に入ると、
「うわ、ほんと全然変わってない」
と笑って、椅子に掛けた。四人座れるテーブルセットだけれど、自分以外の誰かが据わっているのを見るのは久しぶりだった。
「でもこんなに小さかったんだ。このテーブル」
「今何センチ?」
「さあ。180は超えてるけど」
「おやまあ」
「なにそれ」
二人で笑い合う。私は台所に入って冷蔵庫を開ける。
「手を洗っていらっしゃい。いいものがあるから」
「はあい」
ことさらに子供っぽく言って、彼は洗面所に向かう。鴨居に頭をぶつけそうになり、慌ててかがんでいる。
「やれやれ」
小さく呟いて、私は「いいもの」を洗って、皿に盛る。
「いちじくだ」
思いがけない距離で言われて、皿を落としそうになる。私の肩に顎をつきそうな近さで彼が手元を覗き込んでいた。いつの間に台所に入っていたんだろう。動揺を表に出さないようにする。
「先生いちじく好きだよね」
「好き。よくもらうしね」
このあたりでよく取れるのだ。インターネットやいろいろな手続きに疎い近所の人たちの、簡単な雑用の代金として、果物はよくもらう。原始的でないことをしてもらう、原始的な甘い貨幣。
「いただきます」
そのまま私の両脇から腕を回して、いちじくを手に取る。熟れた赤褐色の皮の上を、水滴が丸く滑り、シンクに落ちる。私の肩に顎を乗せて、皮の裂けたところから半分に割った。果肉が引き裂かれ、香りが飛び出す。甘い、甘い、香り。長い指が果肉をつまみ、口に運ぶ。白く光る歯が覗く。薄い皮ごとかぶりつく。
「甘い」
「お行儀が悪い」
彼は白い喉を晒して笑う。昔から、こうだった。昔からお行儀が悪くて、私が本当に怒るぎりぎりのところまで甘えかかってくる。
こんなに大きくなってもなお、まだ私に甘えたいのだろうか。はねつけてもいい。もちろん。でも彼の態度から見える微かな怯えのようなものと、それから私の中にあるものが、それをさせない。受け入れてしまう。
「先生もいる?」
聞きながら、ひんやりとした果肉を私の唇に押し当てる。口の周りが果汁にまみれる。私はそっと口を開いて、柔らかな果肉を招き入れた。唇を押すように彼の指が触れる。ピアノに触れるときも、こんなふうだろうか。馬鹿げたことを思いながらいちじくを齧る。彼は台所の窓から入る日に目を細めて、無造作に汚れた指を舐めた。
「あとは向こうで食べましょう」
手拭き用の布巾を搾って言う。はあい、と彼は皿をもって運んでくれる。
昔座った通りに私の席の正面に座って、いちじくの皮を指でつるりと撫でながら、唇を尖らせる。
「どうしてって聞かないの」
「聞いてほしいの?」
うーん、と唸って、いちじくの実を裂いた。
「聞いてもらうほどのことがない」
「どういうこと?」
うーん、ともう一度唸って、裂いた実を差し出す。香りがむっと鼻をつく。
「あげる」
「なにそれ」
それでも受け取って、口にする。彼の指に触れた場所がぬるんでいて、いっそう甘い香りを漂わせているように感じる。柔らかく甘い果実がぷちぷちと口の中でほどけていく。
「指が甘い匂いがする」
彼が唇に指をつけて言う。また、見知った仕草。昔も果物を食べた後は、そうやって匂いを嗅いでいた。
「気になる?」
「ううん。果物食べるの久しぶりだなって思った」
「そう?」
「買わないしもらわない。食べに行ったら出てくることもあるけど、丸のままは出てこないし、まあ、手では食べない」
私はお行儀よくナイフとフォークで食事する彼を思い浮かべようとする。映像や写真や記事で見るだけだったときなら、まだできたかもしれないけれど、もう無理だった。行儀悪く人に甘え、指の匂いを嗅ぎ、座っていることが自分に合わないとばかりに体を揺らしている彼は、体ばかり大きくなった、私の知る小さな男の子としか思えない。実際、そうなのかもしれない。若い頃いくらか交流があった演奏家たちも、そういうものだった。彼らはずっと、楽器しか知らない。後のことは皆大人がやってくれる。彼らが見事な音を奏でる限り、大人としての振舞いを知らないことなど誰もとがめはしない。彼らにとって精神的な成熟は、演奏に合致する肉体を作り上げてから獲得するもの、あるいは、永遠に得られないもの、だった。
「先生、ねえ」
「なに」
「弾いていい?」
居間に置いてあるグランドピアノを指差す。日に褪せた赤いカバーがかかっているピアノは、使い道のない家具のようで、もう楽器にも見えない。それでも私は手を拭いて立ち上がると、カバーを外した。埃が立って、鼻がむずつく。カバーの下から現れた肌は黒くつやつやと輝いている。今まさに目覚めて、人に触れられたがるように。その黒い肌を、彼の白い指が撫でる。優しく、親し気に、懐柔するように。
「調律してる?」
「一応ね」
ピアノのためというよりも、頼んでいるところとの付き合いのために調律はしていた。いい状態とは言えないが、音はそう狂ってはいないはずだ。
彼は蓋を開けて、赤いフェルトのキーカバーを取って私に渡した。それから立ったまま鍵盤に指を走らせる。
「あ、弾けるね。懐かしい」
歯を見せて嬉しそうに笑う。私は笑うことができず、部屋に漂う音色の余韻を耳で探ってしまう。彼は今、ピアノを弾いたというよりも、ただキーを押して音を確かめただけだ。
それでも、違う。なぜこんな音が。何が違う。彼の指が鍵盤を押す。それだけなのに、他の誰とも何もかもが違う。ピアノは、こういう音を出すのだ。こんな音を出すために生まれた楽器なのだ。黒い大きなグランドピアノが、内側に抱えた空間すべてを使って歌う。くたびれた部屋の空気が音によって沸き立ち、明るく澄んでいく。
「先生?」
先生?
彼が私をそう呼ぶ。奇妙だった。何が先生だというのだろう。私が彼に、何を教えられたというのだろう。最初からそうだった。この子はほかの子とは違っていた。四歳のときから、この子の中には何かがあった。音楽そのもの。才能そのもの。私は横にいて、それを見ていただけだ。大きな得体のしれないものと、彼がなじんでいくのを。それがなんなのかも、本当のところわからないまま。わからないまま見つめ、そして他人の手に委ねた。
「……何を弾くの?」
微笑んで尋ねる。顔の筋肉が、あの頃と同じように動く。彼のためだけにつくる笑顔。
彼も微笑む。気を遣わずに笑うとき、歯が奥のほうまで見える。白くてきれいな乳歯みたいなかたちの歯。前歯のあいだが少し空いている。まだまだこれから大きくなるつもりみたいに。
「先生の好きなやつ」
そう言うと、鍵盤の上に指を落とした。その瞬間、腰から浮き上がるような心地がした。ピアノから響いた音が、裸の足の裏から私の体に突き刺さる。この部屋すべてが、その中にいる私までが楽器になったように、音が中まで入ってくる。澄んだ音は愛らしい響きを伴いながら、私を拘束する。逃げ場がない。私に動く意思がないと確認すると、音はご褒美のように皮膚すべてをやさしく愛撫する。私は最初の衝撃を忘れてうっとりと音に没頭する。気持ちが音に沿うと、音は応えるようにどこまでも優しくその中に浸らせる。目を瞑ると、瞼の上を音がなぞっていく。音楽は耳で聴くものじゃなく、空間を動かすものなのだ。瞼の暗闇の中で彼の長く強い指が白い鍵盤に落ちるさまを思い浮かべる。あの指が。音を。音はまるく皮膚を転がり、私の芯を揺らす。音と私は境目をなくして、私が曲のなかに入り込む。
曲が終わる。最後の一音が鳴り、余韻が静かに空気に沈む。私は息を吐いた。彼の音に洗われて、自分の体が何か新鮮で甘いものになってしまったように感じる。微かにしびれる指先を握る。起こったことがおそろしい、と感じているのに、曲のなかにいた体はまだ甘い陶酔に浸っていた。目を瞑って、このままここに崩れ落ちてしまいたい。
「これ好きでしょ」
彼は笑う。白い歯が見える。私は表情をなくして、頷いた。リストの愛の夢第3番。好きだ。ずっと好きな曲。彼の演奏も大好きだった。CDも何度も聞いたし、コンサートの演奏も何度も見た。でも、こんな、こんな近くでの体験は、好き、なんて言葉で表すものではない。なぜ彼はこんなに、どうということもないような顔で笑えるのだろう。
違う。彼にとっては本当に、なんてことのない演奏なのだ。
「久しぶりに弾いたけど、これいいピアノだよね」
戯れのように指を落とす。そんな音が鳴るのは、あなたに対してだけだ。
私のグランドピアノ。私の。四歳のときに買ってもらった、私の、ピアノ。ここに運び込むために、朝から大人がたくさんやってきて、大騒ぎだった。黒いきらきらした大きな大きなピアノ。赤いフェルトのキーカバーを外して、真っ白な鍵盤に初めて指を落としたときの、その高揚感。そうして出会ってずっと一緒だった。楽譜なんて読めないときから、右手と左手で違う動きができるようになる前から、ずっと。小学校に入る前は母に、小学校に入ってからは隣の町から先生に来てもらって教えてもらった。中学に入ってからは自転車と電車で一時間半かけて先生の教室に通って、家ではこのピアノを弾いた。環境が悪くて無理だろうと言われながら、必死で練習して、東京の音大に進学した。一人暮らしのマンションにも運び込んで、狭い部屋でもずっと一緒だった。私が夢を持ったときも、夢はただの夢だったと悟ったときも、ずっと一緒だったピアノ。
でもそんな感傷など、何の意味もない。彼が無造作に指を落としただけで、私の費やした時間すべての無意味さを思い知らされる。私はあれだけの時間をかけて、このピアノと本当に出会うことさえしていなかった。私との触れ合いの長い長い時間の中でさえ、このピアノにはずっと触れさせず、隠していた部分があった。
「先生?」
彼の訝しむ声に、咄嗟に顔に笑みを貼り付ける。
「上手になったね」
子供に言い聞かせるような言葉に、彼はへへへ、と照れくさそうに笑った。
「俺先生に褒められるの本当に好き」
ぽんぽんとキーを叩く。何をどうしたらこんなにまっすぐに音が鳴るのか。
「教室、楽しかったなあ本当」
「本当?」
「うん」
目を細める。長い睫毛。
「昔はさ、ピアノの上にななちゃんとかかずくんとか乗ったりしてたよね。先生よく怒らなかったよなって」
「君は乗らなかったけど」
「乗るものじゃないからね」
それを最初からわかっているのは、君だけだった。みんなにとって、ピアノはおもちゃだった。だからおもちゃを卒業するように、ピアノも卒業してしまった。
幼い頃の私にとっても、ピアノはおもちゃではなかった。人生とともにあるものだと思っていた。そう信じて行った東京の音大で、一番学んだのは自分には才能がないということだった。私の演奏には、他人に「この音を聴きたい」と思わせるものがない。多少器用に鍵盤を指示通りに叩けるというだけ。どれだけ努力したところで、指が器用になるだけだ。私には、才能がない。自分の音が、ない。
それを煌びやかな街の、煌びやかな人たちの中でさんざんに思い知って、ピアノはただの趣味として、会社勤めを始めた。音大でピアノをやっていた、という経歴は、ただの「育ちのいいお嬢さん」という値札にしかならなかった。粉々に砕かれた自尊心を抱えて、その破片で自分を傷つけながら、育ちのいいお嬢さんみたいな顔をして会社に行って、仕事をした。一人のときだけピアノを弾いた。何かの未練のように。何年かすると、事故で両親が亡くなった。私はピアノと一緒にこの町に帰った。両親の死が私を呼び戻した、ということになるのだろうが、私からすれば、それはきっかけに過ぎなかった。私にはもう、東京にいる理由がなかった。そうしてここに帰り、ほかにできることもないので、小さな看板を作って、ピアノの教室を始めた。子供たちは可愛らしく、しかし音楽に興味などなく、彼らにとってピアノは音の鳴る大きなおもちゃであり、授業はなんとか私の指導をやりすごして友達とおしゃべりするためのものだった。
その現実は、粉々に砕かれた私の自尊心をさらに削った。それでもそうするほかないので、私は「町のピアノ教室の先生」のように振舞った。振舞ううちに、だんだんと、気持ちもそのようになってきた。それは本当の自分ではなかったかもしれないけれど、誰かに買われるのを待つ値札よりは、幾分ましだった。少なくとも、人間だ。粉々に割れて、尖って自分を傷つけていた自尊心が、年月に洗われて、少しずつ丸くなっていく。子供たちは指導には反発しても、音楽が嫌いなわけではない。おもちゃのようにピアノを鳴らして、少しずつ曲が奏でられるようになっていくのは、どんな子供にとっても根源的な楽しさがある。私たちは素朴な音楽と素朴な楽しみを子供たちに与えることができる。そうして、私はピアノの先生として、それなりに幸福になった。ピアノの先生という立場にぴったりとはまり込んで、それなりに満足していた。夢とか欲望とか、そういうものの存在自体、忘れていた。
四歳の彼が、ここにやってくるまでは。
小さな可愛らしい男の子だった。男の子の生徒は、珍しいというほどではないけれど女の子よりは少なかった。一人っ子ならなおさらだ。たいていの男の子は姉妹のついでに通うものだった。彼は大きな目で私とピアノを見て、そわそわと体を揺らしていた。話しかけると恥ずかしそうに俯く彼の横で彼の母が話してくれたところによると、幼稚園のピアノに触って、どうしてもピアノを習いたくなったそうだ。
ピアノ好き?
尋ねると、黙ったまま口の端をきゅっと引き上げて頷いた。
自分からピアノを習いたいと言ってくれる子供がいたことが嬉しくて、私も微笑んだ。ピアノの前に座らせて、椅子の高さを調節してやった。日に焼けた頬が興奮で赤く染まっていた。
弾いてごらん。
優しく言うと、ふう、と可愛らしく息を吐いて、それから指をピアノに落とした。
それで、何もかもが変わってしまった。可愛らしい小さくて恥ずかしがり屋の、ピアノが好きな男の子によって、何もかも。
「俺、しばらくこっちにいるから、先生遊んでよ」
少し小さく見える背もたれに体を預けて彼が言う。しばらく。確かに大きなコンサートは当分なかったはずだけれど、彼ほどのピアニストにそんな時間があるのもだろうか。もしかして怪我でもしているのか、と考えて、聞いたばかりの演奏を思い出す。あれはどんな小さな不安もない、万全の演奏だった。そのぐらいは私にもわかる。
「遊ぶって、何して?」
しばらくっていつまで。あなたは一体何をしに来たの。
重要なことには触れずに問う。でも実際、遊ぶにもこの辺りには若者が遊ぶような場所など何もないのだ。スーパーの片隅のゲームコーナー。コンテナを利用したカラオケボックス。パチンコ屋。それ以外のものがほしければ車を三十分は走らせなくてはいけない。私自身は学生の頃はピアノと受験に必死で不満に感じたこともなく、帰ってきてからは東京という華やかな都市の華やかな時代を過ごしたあとで疲れていたので、海と山の景色の落ち着きに不満などなかった。だが若者に向いた場所ではないのは明らかで、みんな、海で泳ぐだけでは満足できない年になると、出て行ってしまう。海から出た生き物が陸に向かうように、華やかな内地へと向かっていく。そしてやがて時期が来ると、多くの若者たちは帰ってくる。そう定められた生き物のように。彼らはもう内地に惹かれることはない。そして親と同じ仕事をして、昔から知る誰かと結びつき、子供を作る。私はそれを、ずっと見てきた。帰ってくる子供。帰ってこない子供。
「なんだろ。散歩とか?」
「もう一回行く?」
うーん、と彼は唸る。
「とりあえずお昼にしようよ。このへんって何か店とかあったっけ」
「ラーメン屋さんならあるけど」
ああ、と彼はなんだか意外そうな顔をする。
「そっか。あそこラーメン屋か。いつも見てたけど入ったことないや」
ぴょんと跳ねるように立ち上がる。キーカバーをしてピアノを蓋を閉じる。
「そうめんじゃなくていいの?」
私の問いに、彼は嬉しそうに笑った。
昔はよくそうめんを茹でてやっていた。薬味もないただのそうめんを、彼はずいぶんたくさん食べたものだった。
「そうめん食べたいけど、先生におごってあげようと思って」
「ラーメンを?」
「フルコースが食べられるところがあるならそこにするけど。あそこのラーメンおいしいの?」
「あっさりしたラーメンって好き?」
彼は首を傾げた。
「そういえば、ラーメン自体あんまり食べたことない」
「本当?」
「袋麺とかこっちにいたころは家で食べてたけど、ラーメン屋とか行かないから」
私は浮かべかけた表情を塗りつぶすようにして微笑んだ。
「じゃあ、行きましょう」
「はーい」
彼は私の背中に手をかけて押した。子供というより幼児の仕草だ。私の背中を覆ってしまいそうな大きな手に押されて、よろめくように歩き出す。