秘伝の味
店主が、とんとんとんとお盆に乗ったハムエッグを僕らの前に置く。
いただきます、と合掌して玉子の白身の部分を箸で切る。
「あれ? ハムは?」
箸の先にハムが引っかかるだろうと思って少し力を入れて動かしたのだけれども、スカッ、と空振りするような感じになった。
店主がこともなげに答える。
「ああ。ハムが一枚しかなかったから三等分しといたよ」
慌ててひっくり返して見る。
円グラフの一部分のような形のハムが、申し訳程度にピトッと黄身の裏に敷かれていた。
「あの・・・ソースか塩かいただけますか」
ユウリが遠慮がちに店主に訊く。
正当な要求と言えるだろう。ハムも少量で味がしないのだ。
しかし妙だ。定食屋なのにテーブルの上には調味料が何も置かれていない。
「うちは醤油しかない」
「ええ・・・?」
店主は奥に一旦引っ込み、醤油瓶を持って戻ってきた。
「これだ」
ユウリだけじゃない。僕も非常に不本意だ。
僕は玉子にはソース派なのだ。
「まあ、郷に入っては郷に従え、だな」
セヨが真っ先に醤油をかける。
ユウリと僕も止むを得ずそれに倣った。
一斉に一欠片、パクッと口に入れる。
「!」
「!」
「うむ」
こ、これは・・・
「ウマい!」
「おいしい!」
僕とユウリが同時に声を上げた。
なんと言えばいいのだろう。
コク、というか、滋味、というか。
深く、それでいてホッとする味。
僕らは夢中で食べ続けた。
店主が自慢げに言う。
「ウマいだろう。この醤油がうちの店の自慢だ」
「醤油、ですか?」
「そうだ」
ユウリの問いに店主が流暢な口上を述べる。
「この『高瀬コタロー商店』の醤油はどんな料理にも一瞬に染みるシミ醤油だ。大根、里芋、ごぼう。煮物だけじゃないぞ。かけてもイケる。冷や奴、大根おろし、刺身・・・おっと、刺身なんぞは多少鮮度が落ちててもこれをかけりゃあ獲れたて同然よ。客もうめえうめえと食ってくれる」
いや、それはダメだろう。
「おじさん、その醤油ってどこで手に入るんですか?」
「そんじょそこらにゃ売ってねえよ。生醤油だから冷蔵庫に入れとかないといけねえしな。なんといってもうちの店の秘伝の味だからな」
いや。
秘伝なのは高瀬コタロー商店が、だろう。
オヤジさんのハムエッグのどこに秘伝があるというのか。
「どうだ、正解だったろう?」
「まあ・・・ね」
セヨのドヤ顔に僕とユウリは割り切れない思いでいっぱいだったけれども、まあ安いしおいしかったのは事実ではある。
すべて醤油のおかげだけども。
・・・・・・・・・
1週間ほど経った頃、僕に禁断症状が出てきた。
「・・・嫌だけど、また食べに行こうかなあ」
「おお、ヒロオ! ウチの店選びのセンスに脱帽だろう。行くか!」
「ああ、セヨちゃん、ヒロオ。高瀬コタロー商店の醤油だけどね」
「うん?」
「手に入ったよ」
「ほんと⁈」
「何⁈」
ユウリがこともなげに言う。
「ネットで普通に買えたよ。明日にはクール便で届くから」
「やった!」
「ユウリ、余計なことを!」
結局、トキモ食堂の味はすべて秘伝でもなんでもなかった。
僕とユウリは二度と行くことはなかった。
ただ、セヨだけはオヤジさんに会うためか安いからか、たまに食べに行っているようだ。