母
母が珍しく朝から台所に立っていた。
「おはよう。珍しいね」
「あ、起きたのね。今日は頑張ってよ」
そう言って食卓に母が出したのはぜんざいだった。
僕がまだ小さい頃に父と離婚した母は知り合いから引き継いだ居酒屋を毎晩、深夜まで営業している。そんな母が帰宅して床に就くのは明け方近い。だから、朝起きるのは僕が学校へ行った後だ。
試験に備えて早く起きた僕が2階の部屋から居間に降りて行くと、母が台所に立っていた。
今日は高校の入学試験がある。
「朝からぜんざいなの?」
「ほら、甘いものを食べると脳が活発になるって言うでしょう?」
今日が入試だと言うことを母は覚えていてくれたようだ。まあ、それも当然か。カレンダーのはしっかり印がつけられているのだから。
「今更、じたばたしても仕方ないけどね」
そんな会話をしながら、僕はぜんざいに箸をつけた。その時、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。
「火事かしら?」
窓を開けて外の様子を窺う母。
「ちょっと見て来る」
母はそう言って、外に出て行った。
カバンの中身を確認して、家を出ようとした時、母が戻って来た。
「近く?」
「二丁目の佐藤さんちだよ」
「佐藤んち?」
「そうなのよ」
佐藤は僕のクラスメイトで、今日、一緒に同じ高校を受験することになっている。僕は彼の無事を祈りつつ、時間がないので受験会場へ向かった。
試験が始まった。佐藤は来なかった。
試験が終わって、僕は佐藤の家を訪ねた。ほぼ全焼だった。焼け落ちた家を前に立ちすくむ佐藤が居た。僕は彼の横に立った。掛けてやれる言葉が見つからなかった。
「家が燃えてたら試験どころじゃないわな」
「…」
「ま、滑り止めの私立は通っていたからな」
「家族は?」
「叔父の家に避難してる。警察やら何やらが来ていて居心地が悪くてさ」
「お前もそっちに?」
「親父が転勤になったんだ。だから、どのみちこの家とはさよならするはずだった。ちょうどいい」
そうは言って、彼は苦笑した。
「どうだった?」
帰宅するなり母が尋ねてきた。
「どっちが?」
「どっちも」
「試験はばっちり。佐藤んちは…」
その先を言う気にはなれなかった。
「哲也君の分まで頑張らないとね」
母はそれっきり何も言わずに店へ向かった。
夕方、母から電話があった。急いで店に来いと言う。僕が店に行くと、そこには佐藤とその家族が来ていた。
「今日は貸し切りだから」
いつも世話になっている息子の友達に対する母なりの気持ちだったのだろう。