交代
8月13日
【22時00分】
暗闇の中、3歳ほどの少年は男に連れ去られている。
男の顔は見えない、少年は振り落とされないように、男の服を鷲掴みにしている。
何処に向かっているのかも分からない。
ひたすら男は走っている。
少年は声も出ない、本来ならば叫び声を上げて助けを求めるべきなのだろうが、恐怖でそれもできない。
怖くて声を出そうと思っても、空しい呼吸音だけが響く。
男は少年を抱き方を変える。肩に担ぐようにすると、梯子を上り始めた。
少年は遠ざかる地面、暗闇に沈んでいく地面を見つめる。上へ上へと昇っている。
男が上っているのは、役所の貯水タンク。
上まで昇りきると、フタを開ける。
ゆっくりと男の子に貯水タンクの中を見せるように
頭から暗い貯水タンクを覗かせる。
男の子は恐怖から震える。声は出ない。暗い水面が揺れている。
これから、この暗い水の中へと投げ込まれてしまう。
男の子は涙を流しながら震える
そのまま、男は男の子を頭から貯水タンクの中へと投げ入れた。
男の子は泳げない、沈んでしまう、必死に暗いタンクの中でもがく
投げ入れた男は、その様子を数秒見た後、ゆっくり蓋を締める。
その時初めて、男の子は声を上げた
「やだ……やだーっ!」
空しく閉まる蓋。
真の暗闇に包まれた。
男の子は必死にもがくが、服が水を吸い抵抗できなくなってくる。
沈む。暗い水の中へと
その時、男の子の脇を抱える手が現れた。そのまま浮上する。
男の子は水面に顔を出し、水を吐き出しながら咳こむ。
そして自分を抱える手の主を見た。
「大丈夫……?」
そこには、いつかカステラを持ってきてくれた高校生の姿があった。
「お姉ちゃん……」
高校生は片手で男の子を抱きかかえながら、もう片方の手でタンクの壁を叩く。
ゴン! ゴン! ゴン!
【22時20分】
「大樹ー! 大樹ー!」
父親が叫びながら息子を探す。それに続くように、母親も。
「あ、あなた……私は向こうを……」
「わ、わかった」
二人は別れ、捜索を続ける。母親は必死に走った。自分の息子を探す。
その時、母親の耳に何か叩くような音が届く。
ゴン、ゴン、と。
母親は直観で息子が助けを求めていると感じる。
必死に走る。その音がする方向へ、
と、そこに辻が現れた
「辻さん! 息子は……この音は?!」
「わ、わかりません……とりあえず行ってみましょう!」
辻と母親は走る。
音が聞こえてくるのは、この街の役所だった。
役所の敷地内に入り、静まり返った中、唯一聞こえてくる音に耳を澄ませる。
「あ、あっちから……」
母親は役所の裏手にある用水施設へとやってくる。そこのタンクの一つから、音がする
「そ、そんな……大樹?!」
母親は、5メートルはありそうなタンクの梯子に手を掛けて上る。
辻は小さな梯子の為、下から見守る。
「大樹……大樹……!」
蓋を開け、中を覗いた。
月明かりで照らされる。そこには息子の姿。
そして、息子の脇を抱える手。
母親は思わず震える。
その手の主が、ゆっくりと月明かりの下へ移動してくる。
母親は目を見開いて手の主を見た。
月明かりで照らされた高校生の姿。
殺されたと報道された高校生。
ゆっくりと、男の子を掲げる手。
母親も手を伸ばし、息子の手を掴むと、ゆっくり受け取る。
抱きかかえ、タンクの中を見る。
そこにはもう高校生の姿は無かった。
「あ、ありがとう……」
母親は一言だけ呟き、梯子から降りる。
びしょ濡れの我が子を抱きしめ、泣いた。
辻はその光景を見守っていた。
【23時00分】
裏野ハイツへと帰ってきた母親。辻はいつの間にか居なくなっていた。
裏野ハイツの入り口には、心配そうに201号室の老婆が立ち尽くしていた。
「あぁ、大丈夫かね……?」
老婆の声を聞くと安心してしまう母親。息子は疲れたのか、腕の中で眠っている。
「よかった……本当に……」
「あの子が……助けてくれたんです……」
母親は老婆に呟く。老婆は首を傾げると
「あの子って……どの子だい? 私も知ってる子かぃ?」
「この前……203号室に引っ越してきた子が……助けてくれたんです……」
老婆は絶句する。
「すみません……気のせい……ですよね……」
母親は老婆にお辞儀して、自分達の住まいへと戻っていく。
老婆はそんな母親を見送りながら、しばらく動けなかった。
【23時10分】
辻は走り回ったあげく、裏野ハイツへと戻ってきた。
結局男の子は見つからない。
すると裏野ハイツの前で老婆が立ち尽くしている。
どうしたのか、ボーっとしている。
「お婆ちゃん、どうしたの? 男の子は……」
老婆の様子からして何かあったのか、と思う辻だったが
「あ、ぁぁ、見つかったらしいよ、それが……変な話聞いちゃって……」
男は首を傾げる、見つかったのならいいではないかと
「ほら、203号室に引っ越してきた……あの子が助けてくれたって……奥さんが……」
男は震える。あの幽霊はやってくれた、男の子を助けてくれた、と。
もしそうなら、あの幽霊は見たはずだ。もう一人の「辻」を。
「そ、そうですか……もしかしたら……見守ってくれてるのかも……しれないですね……」
男はそう言いながら、自分の部屋へと戻る。
「はぁ……」
そして鏡に向き合う。
「おい、ありがとな……あの子助けてくれて……」
男は鏡の向こう、自分の背後に現れるであろう高校生の霊を待つ。
だが
男の背後
現れたのは、自分と同じ顔をした男
「なっ……!」
男は固まる。
その直後、鏡に血が飛び散る。
背後に現れた自分、その手にあったカッターナイフで首を切られた。
「交代だ」
辻が最後に耳にした言葉だった。