引っ越し
2016年8月10日
【15時00分】
「ぼろぃ……」
引っ越し業者と共に車から降りた女子高生は嘆く。
この女子高生、姫川 瑠衣 17歳は新たな新居へとやってきた。築30年の「裏野ハイツ」へと。
「でも……我慢しないと……」
引っ越し業者が、瑠衣へ確認を取りながら部屋へと荷物を運び込んでいく。瑠衣もそれに続くように、部屋の中へと入った。
「203号室……忘れないようにしないと……」
間違えて他の部屋に突入しないようにと、瑠衣は記憶に留めておく。このアパートには表札が無い。住人の名前なども分からなかった。
そもそも高校生の瑠衣が何故この時期に引っ越し、しかも一人暮らしを始めるのか。
元々は両親と共に一戸建ての自宅に3人暮らしだったが、半年前に両親が事故で他界した。そして両親には借金があった。
1億という瑠衣にとっては高すぎる借金。しかし自宅を相続しなければ借金も払う必要は無いと弁護士に言われ、今回この裏野ハイツへとやってきた。
瑠衣は手荷物を置き、ベランダへと出る。なんの変哲もない景色。若干のたんぼに住宅が見えるだけだった。
「姫川さん、ここでいいですか?」
引っ越し業者の男が瑠衣へとテレビの位置を確認する。瑠衣は頷きながら、もう少しベット寄りにと注文する。
【16時30分】
家具の配置が終わると、引っ越し業者は帰って行った。瑠衣は部屋に一人残されると、自分の新居を見て回った。トイレ風呂は別、独立洗面台、それにコンビニも歩いていける距離、高校生の瑠衣にとっては多少古いアパートでも、これだけ揃っていれば十分だった。残り一部屋だった為、駆け込むように契約したが我ながら良い判断だったと瑠衣は思う。
「さて……」
瑠衣はダンボールの中から両親の位牌を取り出す。簡易的な仏壇を配置し、位牌を置くと両手を合わせる。
「お母さん……お父さん……私の新居です……一人暮らしだけど、見守っていてください」
それだけ言うと、立ち上がり自分の荷物をダンボール箱から出す。服に教科書、漫画にヌイグルミ。瑠衣は荷物を整理している途中、
「ぁ、挨拶に行かないと……」
すっかり忘れていた、と親切な近所の叔母ちゃんに持たされた菓子箱を取り出す。瑠衣の実家の隣に住んでいた叔母ちゃんは、なんだったら自分の家に住めばいいと申し出てくれたが、流石にそこまで迷惑は掛けられないと断る瑠衣にせめてもと差し出してくれていた。
「今度お礼しないと……」
瑠衣が働いているバイトのスーパーと実家は元々近い。そのバイトも続きけるつもりなのだから、会おうと思えばいつでも会える。今度ゼリーでも買って寄ろう、と考える瑠衣は菓子箱を5つほど紙袋に入れて部屋の外へと出た。
「まずは……202号室……」
インターホンを押す。しかししばらく待っても人が出てくる気配はない。留守だろうか、と瑠衣は様子を伺う。その時、隣の部屋から人の好さそうな老婆が出てきた。
「あら、あんたぁ、そこに人は住んどるけど……どうしたん?」
瑠衣は人の好さそうな老婆にお辞儀をしながら近づき、自分が203号室へ引っ越してきた事を告げる。
「あの、これ……つまらないものですが……」
と、老婆に菓子箱を差し出した。老婆は嬉しそうに菓子箱を受け取ると、
「あらあら、ご丁寧に……お若いのに感心ねぇ……そこの部屋の人は……あんまり関わらんほうがええよ、難しい人やし……何か困った事があったら言ってきや」
瑠衣はそれから一言二言老婆と会話した後、他の住民の事も尋ねた。
「そうねぇ、102号室の人も……たぶん居留守使われると思うけど……私もあんまり見てないんよ……」
老婆が小声で言うのを瑠衣は、愛想笑いをしつつ聞いている。
「他の人は良い人だから……挨拶してくるといいわぁ、それじゃあ、何か困った事があれば、いつでもいいなさいねぇ」
そう言いながら老婆は戻っていく。瑠衣は軽く会釈をしながらお礼をいい、まずは103号室へと向かった。
インターホンを押す。すると、鍵が開いてドアがゆっくりと開いた。
「はぃ……」
3歳くらいの男の子がドアを開け、瑠衣と対面する。瑠衣は姿勢を低く、前かがみになりつつ
「ぁ、お父さんか、お母さん……居るかな」
瑠衣は男の子に確認を取るが、男の子は首を振る。どうやら今は一人の様だった。
「えっと……じゃあ、お父さんか、お母さんが帰ってきたら……これ渡してくれるかな。新しく203号室に引っ越してきた、姫川ですって……伝えてもらえる?」
男の子は菓子箱を受け取る、小さく「はい」と返事をし、礼儀正しくお辞儀をしながらドアを閉める。
「あんな小さい子一人で……大丈夫なのかな……」
瑠衣は心配しつつも、次の部屋の102号室は老婆のアドバイス通り飛ばし、101号室のインターホンを押した。
「留守かな……」
インターホンを押しても気配が無い、と瑠衣は自分の部屋に戻ろうとする。すると
「何か御用ですか?」
50台くらいの男性が裏野ハイツへと歩きながら話しかけてきた。瑠衣は男性の姿を一見するに、仕事帰りかと思いつつ
「ぁ、えっと……203号室に新しく引っ越してきた姫川です。よろしくおねがいします……」
菓子箱を渡しながら男性へと挨拶する。
「ああー、これはどうも、ご丁寧に……辻と申します、これからよろしくお願いします」
頭を下げる男性に、瑠衣も釣られるように頭を下げる。老婆と同じく人の好さそうな印象を持つ男だった。
「他の方にはもう挨拶されました?」
男は瑠衣へ尋ねる。瑠衣は、老婆と子供だけに、と男性へと告げる。
「ああー、103号室の方は共働きなんですよ。たぶん18時過ぎには両方とも帰ってくると思いますよ」
「ぁ、なるほど……ありがとうございます、じゃあ18時くらいにまた行ってみますね」
男性は、それがいいと言いながら自室のドアの鍵を開錠すると
「そうそう、最近物騒ですから……気を付けてくださいね。貴方みたいな可愛い子はとくに……」
瑠衣は愛想笑いしつつ、お辞儀をすると男性は部屋へと戻っていく。
挨拶を終え、自室に戻った瑠衣は余った菓子箱を見て悩む。
「食べちゃおうかな……っていうかどんなお菓子なんだろ……」
渡された時にはもう包装されて、中身が分からなかった。瑠衣は一つ丁寧に開け、箱を開けると中には一口サイズのカステラが20個ほど入っている。
「おいしそう……今日の夕飯はこれに……」
なにせ今日から家賃約5万を払わなければならないのだ。事情を知った遥遠い地に暮らす親戚から仕送りを貰っているとはいえ、お金を節約するに越したことはない。瑠衣は一つ一つ包装されたカステラを一個とると、包装を解き口に運ぶ。甘くて美味しいカステラだったが、非常に飲み物が欲しくなる。
「コンビニ……行こうかな……」
瑠衣は財布と携帯を持つと、部屋に鍵を掛けて裏野ハイツから、7,8分のコンビニまで歩いて行く。
【18時00】
コンビニで飲み物と、やはりお菓子だけではお腹が空く、とおにぎり2個を買って帰ってくる。
時計を見ると、ちょうど18時を過ぎた辺りだった。もしかして例の共働きの夫婦が帰ってきてるかもしれない、と自室に戻り、荷物を置く。それから103号室へと足を運んだ
インターホンを押すと、今度は母親だろうか、中から女の人の声がする。
「はーい?」
鍵をあけてドアを開ける中年の女性。瑠衣はお辞儀しながら挨拶する。
「ぁ、私203号室に引っ越してきた姫川です、先程息子さんに挨拶したんですが、改めて……」
「ああ、はいはい、それはどうもご丁寧に……ぁ、カステラ……持ってきてくれたの貴方?」
瑠衣は頷きながら返事をする。
「ありがとうね、息子も喜んでパクパク食べてるから……私達共働きで……ぁ、よかったら息子とも仲良くしてあげてね」
「あ、はぃ、喜んで……」
瑠衣は快く承諾し、女性もお辞儀しながらドアを閉めた。
「会う人は良い人ばかり……」
会いない人間も居るが、と瑠衣は思いつつ自分の部屋に戻って鍵を掛ける。
【19時00分】
瑠衣はシャワーを浴び、寝間着に着替えるとベットに寝転んだ。慣れない事をしたせいか、疲れていた。
携帯を充電しつつ電気を消す。少し早いが、明日からはここから高校に通わねばならない。
瑠衣は明日からの新生活に向けて眠りに付く。
【23時00分】
コンコン……
コンコンコン……
コンコンコンコン……
ガン! ガン! ガン! ガン!
ドアを叩く音に瑠衣は飛び起きる。寝ぼけながら、こんな時間に誰だとドアの覗穴から来訪者を見るが
誰も居ない。しかし
ガン!
「え?! だ、だれ?!」
確かに誰も居ない、だがドアを叩く音がする。
背筋に寒気が走る。
ガン! ガン!
叩かれている。まだドアは叩かれている。
瑠衣は後ろに下がりながら耳を塞ぐ。確かに誰も居なかった。
「何……何……」
瑠衣は混乱しながら蹲り、ドアを叩く音が鳴りやむのを待つが
ガン! ガン! ガン!
鳴りやまない、瑠衣は恐怖で震えながらも、ドアに向かって言う
「だ、誰ですか?」
……………
瑠衣は尋ねる、ドアを叩く音は鳴りやんだ。
「何……何なの……」
ゴク、とツバを飲みこみ瑠衣は勇気を振り絞って、もう一度、覗穴を覗き込んだ。
ドアの外には確かに誰も居ない。
瑠衣は拭いようもない不安に襲われつつも、安心した
と、その時、覗穴の前を誰かが横切る。
ビクっと、瑠衣は思わずドアから離れた。今誰かが自分の部屋のドアの前を横切った。
瑠衣は震えながら携帯を手に取り、思わず親切な叔母ちゃんへ電話を掛ける。
時間は23時過ぎ、もう寝ているかもしれない、しかし瑠衣は恐怖でそれどころでは無かった。
『はい……瑠衣ちゃん? もしもし?』
叔母ちゃんの声を聞いた時、ホっとし半分泣きながら
「おばちゃん……い、今……変な人が……」
『変な人?! ちょ……大丈夫なの?! 待ってて、主人と今からそっちに……』
その時、ドアが開き放たれる。鍵は確かにかかっていた。
瑠衣は携帯を落とし
「いや……きゃあぁ!」
悲鳴をあげる。
来訪者に向かって。
『瑠衣ちゃん?! どうしたの?! 瑠衣ちゃん?!』
叔母ちゃんの電話越しの声が、空しく無人の部屋で響いていた。