3.
「有栖さんとおっしゃるの。生まれはどちら? ご両親といらっしゃったの?」
優しく蔵で旦那様が訪ねるが、やはり言葉が通じないお面少女は困っていた。
とても警戒していたが、大きなお屋敷は確かに大きく、日本庭園もある問屋の母屋は、どうやらハートの女王などはいないようだと分かったのだった。招かれた蔵はまた絢爛で、木馬、ビードロ、手鞠、カルタ、お手玉、貝合わせ、江戸硝子、人形、でんでん、かざぐるま、竹馬、琴、三味線、化粧道具、鏡台、簪など、いろいろな物が置かれている。ここはこの屋敷に子供が産まれた時に使う玩具が収められた蔵の二階部分だった。他にも商売用の蔵が店屋の裏に並んでいたり、母屋の横の蔵には美術工芸品などが収められ、離れた蔵には米などの食料の貯蔵蔵が。そして、奥にある広めの庭の離れの近くのこの蔵に子供の頃のものが鍵掛けのドア先の二階に、一階の鍵つき格子戸の先には旦那様の大事なものが収められていた。時々そこの机で仕事までしている気に入りようだ。邪魔されたくないので女中も妻も呼ばなかった。
「まずは言葉が困ったねえ。南蛮人という話は聞いたが、僕の友人に南蛮はいないんだよ」
「ええ。わたくしにも」
屋敷では敬語を使うよう言われているし、ましてや花魁言葉は御法度と言われている。長年のあちきも言わなくなった。
戸が叩かれたので、そっと七紫が行って。
アリスはその背を見てから、男の顔を見た。彼は気づいて男らしく微笑んだ。アリスはお面の内側でにこっと笑った。男は座布団に座り腕を組んでいて細身の顔立ちと体をしている。しっかりした身なりをしていて、やはり変わった髪型をしている。この国の誰もが男が言葉に表して説明しずらい髪型をしているのだ。それがぴっちりしていたり、浮かんでいたりして、しかも髪が前髪とてっぺんで反られているのだから。アリスの国にはそんな奇抜な髪型の人は一人もいないが、それでもすごく凝った髭の伸ばし方をする紳士はよくいた。もみあげも髭もすごくて、しかも三つ編みとかに何本かされてリボンで飾っているのだ。それでシルクハットをかぶっている。
「………」
どっちにしろ、自身の国の男たちも奇抜に変わりなかった。
だが、自分達の国の大人ほど背が高い人間があまりいない。背が高い人間も割にいるのだが、全体で見ると少ないし、だいたいが低い。男はそれでも高いほうではないだろうか。七紫はアリスの二つ頭が高い程度だ。
「お邪魔しております。弦二郎様」
七紫と昨日舟に乗せてもらって、泊めてもらったところの男の人が来た。
「ああ。いらっしゃい。有栖を預かったよ」
「ああ、ありがたいです。良かったな有栖、姉貴」
「ええ。本当に弦二郎様のお心の広さに感謝いたします」
「困ったときはお互い様だ」
一太は葛篭を運んで来ると、それを置いた。
「言われたとおり、有栖の着物を一通り持ってきた。髪結い道具もあるよ」
「どうもありがとう。早く借りた着物は返さないとね」
衝立を立てると、男衆には外に出てもらって七紫はアリスの着物を替え始めた。どれも素敵な染め物で、柄も可愛い。お面だけは付けておかなければならない。髪だけれど、鏡台の前に座って結い始めた。アリスはその髪型になっていくのを、ずっと興味深く見ていた。それを髪色が見えないように、頭に絹をかぶせなければならないので、簪などは付けられない。綿入りの羽織の柄は猫の大群が人間の装いをして夜の月を見上げている可愛らしいものだ。頭巾は淡い梅色に辛子色の模様が色抜きされたもので、首に巻く長い部分が萌葱と浅黄色に染められている。市松模様の帯と、小袖と、寒いので首に巻物をして、下履きも履かせた。染め物の厚手の旅を履かせた。
「可愛いじゃないか」
「cute!」
アリスは言い、見回した。気に入ったようで七紫は安心した。お面を渡す。
「白粉を塗って紅引けばいいんだろうけど、目が青いからね。お面は付けといた方がいい。明日になったら、あんたの友達も来るからね。ちょっとは遊び相手になったりできるかもしれないよ。一緒に遊ばせるのかはまだ分からないんだけど」
アリスを連れて七紫は屏風から出る。
彼女はアリスの耳の上に、庭木の花を挿した。微笑んで、頭を撫でる。
「用意が整いました」
しっかりした身なりの男の人に対する七紫の声音が静かで顔付きもしっかりするので、あの男がやはりこの屋敷の王様らしいとアリスは分かった。それか公爵とか男爵かもしれない。
旦那様が入ってくると、アリスを見て微笑んだ。
「可愛らしいな」
「ちょっと柄ばかりで、派手ですけれどね」
「子供の場合は俺は色ある物が好きなんだ」
正座をする旦那様が後ろに置いた箱を前に置いた。
それは平らな箱に、砂がうっすらと敷き詰められているものだった。
「これは筆談ができるものだよ。ほら、和紙も貴重なものだし、それに異人さんの言葉が残るのが良いことかどうかがまだ分からないからね。こうやって、かたくなに面をしていることだ」
「まあ、旦那様、名案でございます」
「これなら何度も使えるし、すぐに刷毛で文字を消せてすぐに次の文字が描けるからね」
七紫が渡された棒で砂箱に、この屋敷を示す升型と、この屋敷、問屋の屋号を示した。
「藤丸。この屋敷は、藤丸」
アリスは丸の印の内側に、難しい絵が描いてあるのを見た。絵ではなく文字なのだが、七紫が一太に言って、彼は頷いて、夜なので下げてきた暖簾をばっと広げた。藤色の染め物に、白抜きで丸に藤の字。それがこの藤丸屋敷の屋号で、問屋の目印となるものだ。もしも、アリスが屋敷を出ることになっても、この暖簾の店に入ればいいし、暖簾以外でも、店の前の灯籠に藤丸の屋号が彫られ記されている。
「ふじまる。言ってごらん。ふじまる」
「Fujimaru」
暖簾はこの町屋でたくさん見てきたので、アリスはこれが何なのか何となく分かっていた。お店の看板で、店の名前なのだと。昨日泊めてもらった所の薄く白い格子の戸にもこれと似た絵が黒い字で描かれていた。もしもこの言葉を覚えておけば、迷子になっても「Fujimaru」と言えば、場所を教えてもらえるだろう。アリスは砂箱の空いた場所に、Fujimaruと書いた。旦那様も一太もそれをまじまじと見た。
「Fujimaru」
アリスが言った。旦那様は自分の名字が異人に描かせるとこうなると知って、興味深くしばらくは見ていた。
旦那様の肩に手を置きながら七紫が「藤丸様」と言うので、アリスは彼の名前も藤丸なのだと分かった。
アリスは頷いた。
「夕餉をお持ちいたします」
七紫が食べる動作をしてから、出て行った。アリスはそのことでお腹が鳴り、恥ずかしくてお腹を押さえた。そうしたら、一太がぐーぐー盛大にお腹が鳴ったので、三人は一瞬を置いて盛大に笑った。
夕餉の準備を終えてから、女中を鋏と包丁研ぎのために刃物屋まで用事に出して、アリスを厠に行かせた。
アリスは目を丸くしてしばらくずっと、いきなり閉じこめられた狭い空間を見回してから、穴を見ていて、それで出してくれと戸を叩いた。
「もういいのかい?」
アリスはこれがトイレだと分からない。しかも、しゃがんでする、という行為自体を知らない。ここが何の為の場所かも分からないし、相手は優しい顔のまま閉じこめてきたのだった。
アリスは首を傾げていて、何度か空間を振り返って見せてから言った。
「What here? confine me? madame sichiji?1」
「もしかして……、分からないのかい?」
七紫は異人の厠こそを知らないので、どうしたもんかと思った。ちょっと恥ずかしいが、戸を閉めると言った。
「まあ、ここは大切な所だからね。見ているんだよ」
彼女は綺麗に着物と襦袢をたくしあげると、それを見てアリスは驚いた。下着を付けていずに、しかも前合わせのガウンを綺麗にまくしあげると、穴にしゃがんだからだ。それで、一体ここが何なのかが分かった。トイレだ。それで、真似をしてから七紫が斜め前にある紙を示すと、拭く動作をしてから、穴に捨てる動作をした。それで、着物を綺麗に戻して、先程までの姿が何事も忘れ去られるが如く整ったのだった。
アリスは、マジか、と思った。穴は結構怖いし、落ちたくないし、それに斜めの置かれた蝋燭があるからいいが、消えたら真っ暗になって恐ろしいはずだ。しかも、てっきり下着はあるものだとばかり思っていたのだが、替えが存在しないのだと今知った。アリスは母や姉が裁縫をする姿を見ていたので、絶対に下着を自分ででも良いから作らなければと思った。女の子なのでそんなことがどうしても恥ずかしくて言えなかった。布と裁縫道具が欲しいことだけは言わなければならない。
アリスは七紫が始めてだと失敗しても困るので、着物をまくしあげたら縛れる紐を腰に巻き、それにはさむように示してから出て行ったので、さっそく試した。
トイレから出てきたアリスは恥ずかしそうに出てくると、照れて微笑んでから、七紫に連れて行かれて手を洗うところで手を洗うように言われた。アリスはそうすると、ようやく一息ついたのだった。
七紫はお店にアリスを連れて行ってあげた。そこには、なんとたくさんの鏡が置かれていたのだ。しかも、裏が綺麗な装飾が絵がついている。手鏡もあるし、箱がついた置く形の鏡、蓋がついた小さい携帯鏡、布地が張られた細長い鏡、それに大きな鏡や、鏡台も。
「藤丸はね、鏡問屋なの。これらの工芸もやっているんだよ。綺麗だろう」
アリスは興味深げに鏡を見ていった。自分の、今のお面の姿が映っている。なんの動物なのか、イギリス人のアリスには分かっていない。白犬か、白い狼だと思っていた。狐かもしれないとも思っていた。
いろいろな鏡を見ていく……。
「!」
アリスは後退り、七紫にぶつかった。
「どうしたんだい」
アリスは七紫に掴まり、横目で鏡を見た。さっき、あの不思議な国にいた者の姿が、森と共に鏡に映り込んだのだ。アリスを探す目を巡らせて、一瞬目が合った。だが、今は、それが白い動物だったと思って相手はまた森をどんどんと歩いていった……。
鏡は森に霧がかかって、そして隠れて普通の鏡に戻った。
「鏡が怖いのかい? ふふ。それともお狐様のお面に驚いたのかい。大丈夫。お狐様はあんたを守ってくれるさ」
七紫が優しく肩をもってくれたので、アリスは安心して見上げてお面の内側で微笑んだ。
雅な店内を、アリスは気に入っていた。たくさんの鏡にはアリスと、美しい七紫が映っている。
しかし、もしかしたら鏡は注意した方がいいかもしれない。発見されてしまうかもしれないのだから。
蔵の二階に戻ると、例の鏡台があるので、アリスは怖いと感じていた。だが、戻ってみると、それには美しいきらきら光沢のある鮮やかな織物がかぶせられていた。それは鏡にかぶせる布だ。日本では鏡は普段、布で隠されている。やはり鏡には魔力があると古来から思われているからだ。アリスは安心した。
「アリス。あんた、ここに今は匿われているつもり?」
アリスはチェシャ猫が不思議の国の猫なので、この屋敷が鏡屋のお店の屋敷なのだと言うことはためらわれた。まだ、チェシャ猫が自分の味方だとは分かっていないからだ。もしも鏡にこの猫が映ったら、そっこく向こうに知られてしまうし、交信を取り始めるかもしれない。鏡から出てくるなんて無いとは思うけれど、どこから自分が来て、彼等が来るのかなんて分からないのだから。
「しばらくはね。優しくしてくれる親切な人たちだし。昨日追いかけてきた子たちもいないし」
「追いかけられるのが好きだねえ」
「好きなんじゃないわ! 追いかけてくる者達がわたしのことが好きなのね」
アリスは「Fum」と言って、腕を組んだ。