1.
「まあまあ……どうしたことだろうね」
カランカラン、とけだるげな下駄の音が鳴り響く。そこは背後に川が流れる町屋。往来は誰もが通り過ぎていた。ただ、猫だけはソノ子の横にいた。
物憂げな梅と、優しい柳の簾に少女が一人、膝をかかえて裸足でいる。その生白い足は泥で汚れ、頭にはすっぽりと縦縞の衣をかぶっているので、顔は見えなかった。辛子、京紫、藍に桜にと色彩の縦縞だから、ただ子供がかくれんぼに疲れて座ってるだけとも見えるのだが。
「ちょうとお嬢さん、お起きよ。家でかなんかかい」
江戸の町は宵は冷え込んで、即刻帰るだろうと思われたが、見たところどうも長い家出のようだ。町屋を離れれば農村でもなければ、こういう孤児のような子は見るものだが、ここはそことは違う。
江戸傘を肩に掛けていた女は膝を折り、肩に手をおいた。何やら、紫地に梅の染め物がされた着物だが、膝を抱えて丈が短いもんだから今に変な奴につけねらわれそうな格好だった。
「はしたないよ。女の子がこんな姿勢なんかしちゃいけない」
そこでようやく顔が上がり、だが、その顔にはお狐のお面がかぶされていた。
「………。ほら、お立ちよ。そこの茶やで茶と団子でもおごったげる」
手を引くと、細い足で立ち上がり、頭に衣を掛けたままついてくる。まるで真っ白いから猫の化け物かとまがうが、それはちょっとわからない。少女の横にいた猫もついてくる。
風に揺れる柳の横を歩いていき、川が陽にきらめいて水鳥が波紋を引かせ、朱鷺が空を飛んでいく。
誰もが美しい女、それも、元は花街の遊女で、とあるお屋敷に身上げされたことでこの辺りで名の通った若奥様を振り返る。その花街から禿でも引っ張ってきたのやら、派手な出で立ちの少女を連れていた。
茶屋に来ると、お茶と団子を出すのだが、少女は動かない。座ったままだ。
「あんた、もしかしておしなのかい」
喋らないし、それにもしかしたら手を引かなければ目も、聴いても耳もきかないのかもしれない。
女は店の娘に団子を包ませ、竹筒にあたたかいお茶をいれさせ、そして少女を連れて行った。
と言っても、屋敷じゃ無い。裏口から通すにしても、今日は冬前の庭師が入っていて、すぐに旦那様に知られるだろう。言うような彼等じゃないが、用心だ。
そんな時、女は一人になりたければ来る場所があった。
橋を渡って舟渡の舟が並ぶ先、屋形舟の操る船頭が休憩する小屋があるのだが、その内の一人の青年が橋下に小屋を構えていて、そこで住んでいる。それは実は女が娘時代の家であり、弟が今も住んでいるところだった。今の時間は誰もが客を乗せて舟を操っている。
旦那様が好めば屋形舟で女は川のきらめきを背に舞を舞う。
障子をあけて、橋桁の小屋に少女を連れ入っていった。
「さ。狭いとこだが座るといい」
下駄を揃えてから、女は見回して桶に川の水を汲みに行くと、手拭いでぬらししぼって、一言も喋らない少女の細い足を見た。
「ちょっと冷たいよ。悪いね。お茶でも飲んであったまって」
少女の足を丹念に吹き始め、桶で手拭いの泥を落としてまた拭く。
「まあ驚いた。本当に綺麗」
拭き上げた足は白い。
「Thank you madam」
「……?」
あどけない声に振り仰ぎ、何か言った白狐のお面を首を傾げ見た。
そこで初めて、衣から漏れて微かにお面を覆う、夏毛の狐色の長い髪に気づいた。頭からかぶる衣の裏地が黄色なので、溶け込んで気づかなかったのだ。まさか、本当に狐の子供が化けているんだろうか。
「まあ、さあ。お食べよ」
「………」
横に座って女は団子を見せる。少女は竹筒のお茶を両手に、じっと座っていたのだが、団子を見るとじっと固まっていた。
女はお面の下からぼろぼろ涙が膝や手に落ちるのを見て、少女を不憫に思った。
「I'm...afraid」
どこの田舎の出なのか、方言がきつくて言葉が通じない。花街には多くの国元から娘が連れてこられていたが、この手の方言は聴かなかった。
「姿を隠してるんだね。何。あたしはあんたを取って喰いやしないさ。あたしは外にでてるから、団子、食べな」
気をきかせて女は小屋から出て行き、障子を閉めた。桶の水を小屋の横に流し、川で桶と手拭いをすすいでから干し、桶は障子の横にたてかけた。
腕を組んで袂に手を入れ、川を眺める。左右に広がる町屋。橋影も斜めに陽が入ってきらきらと光り、絢爛な橋が映っている。
「ゴホゴホッ OH,delicious! Mhh!」
何やらむせて急ぎ食べているのだろうごもごも声が聞こえ、女は肩越しに自身の影が映る障子に振り返り、おかしげに微笑んでまた顔を戻した。
幾艘かの舟が優雅に流れていく。船頭の唄を乗せて。小鳥が水面を撫でて滑空する。柳の葉は何枚か流れ柳小舟となって、隅の方ではくるくると回っている。
そろそろ、丸く太った小鳥達も冬の準備で巣篭もりするだろう。
「madam」
障子を振り返り、視線を落とすと入っていった。障子のすぐそこに少女がいて、見上げてきている。猫も足元にいる。猫は縞猫で、利口な、だが奇っ怪な雰囲気の顔をしていた。
「食べたんだね。よかった」
彼女も入ると、下駄をそろえ置いて畳に上がった。
「あたしは七紫。しちじ」
女は自身の胸部に手を当てながら何度か言った。
「sichizi」
「ああ。あんたは?」
頷いて微笑む女の顔を見て、少女も答えた。
「I'm Alice.Alice is my name.Alice」
「あんた、ありんす、っていうの。花街から来たのかい? ありんす」
懐かしい言葉だねえ、と言いながら、女は微笑んで少女、ありんすの頭を撫でた。
だが、困った。もしかして、花街を抜け出して逃げてこれたのだなんて、追ってくる人間がいるかもしれない。女は渋い顔で考えてから、言った。
「もしかして、あたしの事を聞いて頼りに町屋まで訪ねて来たのかい?」
とは言え、言葉がわからない田舎娘なので、どうしたものか迷った。
「屋敷に連れて行くのはきっと旦那様以外には危ないし、ちょいと意地のわるい女中がいてね。何でも筒抜けにさせようとするのさ。だから、ここはあたしの弟の住んでるとこなんだが、ここにいさせたほうがいいかしらねえ。それとも、旦那様だけ入ることを許されてる蔵が一つあるんだけれど、追っ手が落ち着くまでそこにいさせてはもらえないだろうか。しばらくは、ここにいるといい」
それを女は土間のうっすらたまった砂を使って、小枝で絵を描いて説明した。猫が興味深げに踏んでしまって、何度か女は「こら!」と猫を叱ってまた描いた。巨大な猫の足跡が小屋や川、屋敷の簡単な絵についていて、初めて少女ありんすが笑った。
「まあ、笑った。よかったよ」
女は優しく微笑み、その絵を示す。
今二人がいる小屋は橋のある川の下。二人を示す丸も描いたが、女は袂から巾着を出していつも小さい頃からお守りでもっていたおはじきを、それに見立てて上に置いた。猫が目を開かせるのを、こらっと叱った。
離れたところに描かれた大きめの升型の内側に、蔵となる四角を描く。そこを示した。恐い、安全、というのはどう示すべきか、女は今いる場所を示しながら彼女の頭を撫でた。しかし、大きな升のところで恐い顔をしてみせると、お面をかぶったままの少女がひゃっと声を上げた。どうやらわかったようだ。だが、小さな四角のところを示すと、また優しく頭を撫でる。おはじきを二つとも、その小さな四角に置いた。
少女アリスはじっとそれを見ていたが、自分も何かを書き始めた。それを女が見る。
「?」
ありんすは大きな升のところに、何か見慣れない印を描いた。そして、何かの文字も。その印はまるで葉っぱを上と下逆にした形をしている。文字などは、初めて見た。博識だと思っていた元花魁の女だが、世にはもっと知らないことがあるようだ。
そこには"Castle Queen of Heart?"と描かれていた。そして、印というのはハートマークのことだった。
「madame sichiji」
名を呼ばれてしげしげ見ていた絵から女は顔を上げた。
女は面食らって、その美しい少女を見て、目が離せなかった。まるで、それは花を人間にしたかのような、江戸硝子かビードロのような子だったのだ。
頭からかぶっていた衣を肩に落とし、そして片手にはさきほどまでの白狐のお面を下げていた。
子狐色の若い髪色、まるで春の空のような目の色。椿のような頬と唇をした、餅のように白い肌をした子供だったのだ。
「あんた、ありんす、なんて美しいんだろう……」
ほうけたまま女はしばらく動けずに、たが、それが渡来してきた異人なのだとすぐに分かって、早めに肩の衣をまた頭から隠させた。影から光る水色の瞳が覗く。
「あんた、南蛮人だったの。けれど、ここまで淡い色の、しかも子供は初めて見たよ」
きっと、どこかでひどい目にあったのかもしれない。都ではそれでも南蛮人は見かけるが、村などでは妖怪や鬼扱いされる。
「No alince. Alice is har name」
「………」
女ははたと目を丸く、綺麗な紅の唇を閉ざし、猫を見た。喋った化け猫を見た。
「ひっ、」
その猫はにたあ、と笑い、ぼんっと細かった身体が丸くなってぎょろついた目で女を見た。
女はまじまじと猫を見て、目を瞬かせた。
「あんた、猫又なの。喋れるの」
猫は婚を結んでお歯黒の歯の、だが美しい女を見てからすぐにその歯が隠れたので、にたあと笑いながら少女アリスを見た。
実は、少女は不思議の国に迷い込んで、ハートの女王の城から元のイギリスに戻れると思ったのだが、いつの間にか、時代も遡った日の本の国、その江戸時代に迷い込んでしまったアリスという名の少女だっだ。その時、不思議の国のチェシャ猫も巻き込まれた。
それは不思議の国の陰謀で、アリスをハートの国の女王にするべく返さないつもりだったが、時空のひずめで迷い込んで、江戸に来てしまったのだった。今は不思議の国のものたちはその新女王を求めて探し追って来ている。まだ、江戸時代には行き着いていないようだ。
アリスはアリスで、目覚めたらまた知らない国だし、子供達に追いかけ回されるし、チェシャ猫が持ってきた衣を着たりしてとぼとぼ歩いていた。みんなが黒髪、黒い目、それに衣装も見慣れないもので、アリスは言葉さえ通じずに困っていた。
優しい七紫に救われた。
だが、まさかこの国にハートの女王がいるのだろうか。四角い場所が恐いとアリスは感じる。
「いいかい。ありんす。ああ、あーりーす」
「Alice!」
先程猫が「あーりーす、」とわかりやすく言ったのを名前と思って女が言うので、猫がすかさず訂正して目をひんむいた。
「あんた、よく喋る猫だねえ」
女はふてくされて言い直してから言った。
「弟が午後に帰ってくるよ。今日は晩の客はあの子の代わりに入る船頭がいるからね」