欠片Ⅳ
アイドル養成施設、《ティルナノーグ》。それがこの「学園」の名称だ。
正式な名称ではあるが、平時の会話では単に「学園」と呼ばれることも多い。とくにアイドル候補生や教師のようなティルナノーグ関係者の間においては、「学園」といえばティルナノーグを指しているといってほぼ間違いない。
ティルナノーグは多数の融社からの出資により成り立っている。
一方、その運営は学園独自の裁量に委ねられていた。
これは一部の融社による有望株の囲い込みを防ぐためであり、どんな融社もその運営に干渉することは許されていない。融社間最優協定にもティルナノーグへの不干渉が明記されており、いわゆる「学園の自治」が保障されている。
人造島の各地に数十カ所ほど存在するティルナノーグには、開設された順に番号が割り振られている。そのほとんどは内周層以内にあり、ソプラたちの所属するこの《第七学区》も例外ではなかった。
《第七学区》でアイドル達の指導に当たっている教師のひとりが、これからソプラ達が会いに行こうとしているソフィア・ステフェンズ先生だ。
ソフィア先生は歌唱法やボイストレーニングを専門としており、豊富な経験に裏打ちされた的確な指導には定評がある。
人柄も穏やかで、候補生たちからの信頼も厚いが、現在のところ彼女はレッスンを受け持っていない。
二年前に子を出産し、育児休暇から復帰したばかりだったからだ。
彼女を早急にトレーナー職に戻すのは得策でないと考えた第七学区の運営陣は、当面の間ソフィア先生にスクールカウンセラーとしての役割をこなしてもらうことに決めた。そこで現場に慣れてもらい、しかるべき時に実際のレッスンに戻ってもらう算段らしい。
候補生からの人望厚いソフィア先生なら相談役にはうってつけだし、まだ幼い娘を抱えた身の上では、時間の融通が利くカウンセラー職は彼女にとっても都合が良い。
ソフィア先生自身も、喜んでカウンセラー職に従事しているように見えた。すでに何度か相談に乗ってもらっていたソプラ達も、同じように感じていた。
学食を出たソプラとアプリの二人は、逃げるような足取りでカウンセリングルームに向かっていた。
午後のカリキュラムが始まるまで時間はまだある。先客がいなければ、落ち着いて話を聞いてもらえるだけの時間は十分にあるだろう。
あちこちで候補生がたむろする長い廊下を歩いていると、自分たちに容赦なく向けられる奇異の視線を感じずにはいられなくなる。ソプラやアプリの姿を目にした途端、背けるように視線を翻し、こそこそと内緒話をし始める候補生たちもいた。
すでにソプラたちが第七学区に入学して2週間が経っているが、こんなことはもう日常茶飯事だった。
ソプラは、候補生たちの陰険な態度に憤るように、むすっと顔をしかめる。
――陰口なんて、卑怯者のすることだよ。
後ろでは、暗い面持をしたアプリがとぼとぼと歩いていた。リーゼロッテの言葉がよほど堪えたのだろうか、すっかり意気消沈している。
「…………」
確かにGI社は消滅した。アプリたちが所属していた融社は既にこの世にない。
だけど、失ったものもあれば、新しく生まれたものだってある。
GI社の理事長ボウキス・シャレード、その一人娘であるアルミニアスの手により、GI社に代わる新たな融社が設立されていた。
その名は――ニルヴァーナ社だ。
GI社が崩壊する寸前、アルミニアス・シャレードは保有していたGI社の株式全てを譲渡し、そこから得た資金と、辛うじて引き留められた少数のスタッフ及びアイドルを抱えて、新たな融社――ニルヴァーナ社を創設した。
弱冠二十歳のアルミニアスは若くしてニルヴァーナ社の初代理事長に就任し、ソプラとアプリは他の何人かのアイドルと共にその所属となっていた。
すでに所属先の融社が決まっていながらティルナノーグに通う候補生は「所属組」と呼ばれ、他の候補生たちから羨望の目で見られやすい傾向にある。だが同じ「所属組」であっても、アプリやソプラに向けられているのは羨望とは真逆の、悪意が込められた歪んだ視線だ。それは先ほどのリーゼロッテ達とのやり取りからもはっきりしている。
このままイジメが続けば、いくらアプリでも潰れてしまうかもしれない。
そんな事態は絶対に避けなきゃいけない。
――ソフィア先生なら、きっと良いアドバイスをくれるはずだ。
そうこう考えて歩くうちに、いつしかカウンセリングルームの前まで来ていることにソプラは気付いた。
「失礼しまーす……」
自動で開いたドアの間から、かしこまった挨拶とともに入室する。
第七学区の外れ、隔離されたようにポツンと立つ建物の中にカウンセリングルームはあった。地味目な内装や調度類など、見るからに懇談室といった風情で、他の教室とは違った落ち着いた趣がある。
部屋の片隅、オフィスチェアに腰かけながらデスクに向かって事務処理をしていた妙齢の女性が振り返った。この女性こそ、ソフィア・ステフェンズ先生だ。
「あら、いらっしゃい」
ソフィア先生はソプラたちに気が付くと、チェアから立って出迎えてくれた。
「何か相談かしら。……まあ、立ったままでも何ですから、まずはそこに座りましょう」
「は、はい……」
部屋の中心に据えられたソファに腰かけるようソプラ達に促す。柔らかく腰が沈み込むような質感のソファは、かなりの高級品のように思えた。ソファそのものが珍しい境界層で生まれ育ったソプラにはモノの良し悪しなどわかるはずもないのだが、とてもよい座り心地だったのは間違いない。
ソプラの隣にアプリが無言で腰をおろし、低いテーブルを挟んで向かい側にソフィア先生が座る格好となっている。
ソフィア先生はにこにこしながらソプラ達を見つめていた。亜麻色の髪を腰元まで長く伸ばし、落ち着いた印象を放っている。年齢はまだ二十代の半ばくらいのようだ。若々しい顔つきの中に、初々しくも母親らしい雰囲気を覗かせている。
「あの、ソフィア先生」
ソプラが切り出した。
「ソフィア先生は、島の外側で生まれたあたしたちでも、立派なアイドルになれると思いますか……?」
覗き込むような視線でそう訴えかけるソプラに対し、ソフィア先生は一瞬きょとんと眼を丸くした。しかしすぐに頬をほころばせ、包容力に溢れた笑顔で答える。
「まあ、そんなことで悩んでいたのね。……あらあら、あなたたちにとっては大変な悩みなのに、『そんなこと』なんて言っちゃいけないわよね。私ったら、うかつで御免なさいね」
心の底から申し訳なさそうに言うソフィア先生の顔を見ていると、こちらまで申し訳ないように思えてくるから不思議だ。ソプラも思わず苦笑を浮かべてしまう。
「あなたたちは、マリアがどこで生まれたか知ってる?」
「え……? マリアって、あのマリアのことですか?」
「そう。マリア・セイバーハーゲン。先代の《唱姫》と呼ばれていた、あのマリアのことよ」
ソプラは首を振った。隣にいるアプリの方を見やると、アプリも首を振って答えた。二人とも知らなかった。
「先生は、知ってるんですか?」
「ええ、知っていますとも。だってマリアは、私が現役のアイドルだった頃の、後輩だったんですもの」
「うぇえ!?」
ソプラは飛び上がるほど驚いた。隣でじっとしていたアプリも目を見開いて驚いていた。そんな二人のリアクションとは対照的に、ソフィア先生は平然としてにこにこ微笑んでいる。
――この人は一体何者なのだろう?
二人の間に興味と疑念とが一気に湧き上がる。
「私が十八歳になって、アイドルとしてようやく一人前になったといえる頃に、マリアが新人として入ってきたの。十四、五歳くらいだったかしら。ちょうど、今のあなたたちと同じくらいの年齢だったわ」
昔を懐かしむように語るソフィア先生の顔は、しかしどこか寂しげだった。
「その頃のマリアといったら、とってもお転婆でね。どうしてこんなにお転婆な女の子が、リジェネシス社の新人アイドルとして入ってこられたんだろうって、不思議に思ったくらいだったわ。あんまり興味をひかれたものだから、いつしかマリアとはよく話すような仲になっていたの。そのうち、彼女の出自を聞いて驚いたわ。マリアはね、境界層で生まれ育ったのよ」
「境界層!? あのマリアが……!?」
――あたしと同じだ。
ソプラの頭に真っ先に浮かんだのはその言葉だった。
「そう。公には秘密にされているけれど、マリアは境界層で生まれたの」
秘密にされていた理由まではソフィア先生は語らなかったが、言われずともわかる。マリアのイメージダウンを避けるため、当時の所属融社であるリジェネシス社が伏せたのだろう。
「境界層生まれの女の子が、アイドルとして最高の栄誉である《唱姫)にまでなったのよ? あなたたちもきっとそうなれる可能性は十分にあるわ。だから、気落ちする必要なんて全然ないの。もっと自分に自信を持っていいのよ。周りがなんと言ってきても、堂々としていなさい。あなたたちには、それだけの才能がある。才能があるからこそ、この学園にいるのだから。……ね?」
優しくも力強い口調でソフィア先生は言ってくれた。ソプラがふと隣のアプリを見ると、アプリも晴れやかな顔でうっすらと笑みを浮かべていた。やっぱり先生に相談して正解だった。そう思い、ソプラはほんのちょっぴり嬉しくなった。