欠片Ⅱ
「ホームシックでしょう、きっと」
「……ほーむひっふ?」
学食のテーブルに着いていたソプラが、きょとんとした顔で答えた。
ランチプレートに盛られたオムライスを運んだスプーンはまだ口に咥えたままだ。あまりお行儀のいい態度とはいえなかった。
シャワー室を出て、アプリと二人で学食へ向かい、所定のランチセットから各々好きなものを選んで、食事がてらのおしゃべりに興じていたところだった。ソプラの無垢な仕草を苦笑まじりに見つめながら、アプリは言った。
「もしかしたらソプラちゃん、生まれ育った場所を離れてきたばかりだから、おうちが恋しくなっているんじゃないですか」
ソプラはスプーンを口から放して「え」と小さく呟き、目を丸くする。
「そうかな。……そうなのかな。別に家に帰りたいだなんて思ってないんだけどな」
「頭ではそう思ってなくても、意識しないところで心が帰りたがっているのかもしれないですよ。ホームシックとは元来そういうものらしいですから」
「ふうん……」
ソプラは俯いた。食べかけのオムライスが視界に映る。
目の前のオムライスは確かに美味しかった。今まで食べてきたどんな食べ物よりも。
でも今は、境界層で酒場を切り盛りして暮らす母が作った料理の方を食べたいと、そう欲する自分も確かに存在している。
アプリが言っているのは、つまりそういう“感じ”なのかもしれない。
「それに」
アプリが視線を横に逸らした。
「……あんなことも、ありましたし」
皆まで言わずとも「あんなこと」が「事件」のことを指しているのだということはわかる。まさしく「事件」の当事者であった二人にとって、わざわざ明示する必要もないほどの暗黙の了解だった。
そう――「事件」に関わっていたのはソプラだけではないのだった。アプリも関わっていた。むしろ彼女のほうがより深く関係していたといえる。彼女の存在が「事件」の主要なキーの一つだったといっても過言ではないくらいに。
なにしろ、本来ならばあのライブステージに立っているのはアプリのはずだったのだ。ソプラはあくまで代役として出演したに過ぎなかった。
――「代役」?
いや、もっとふさわしい言葉がある。
「身代わり」だ。
ソプラはアプリの身代わりになることを自ら選んだ。あの恐ろしい紅い男から「アプリの命を狙う」と脅迫されていたにも関わらず、ソプラは自分があえて捨石になることを訴え出た。
そうして、大観衆の前で――人造島中にライブ中継されていたステージの真っ最中で、アプリの命を狙いに来た紅い男の襲撃を受けた。アプリの「身代わり」に、だ。
――あなたが無事でさえいれば、もう何もいらない。
だからこそ母は、ソプラにあのような言葉をかけたのだ。決して手の届かぬ幻像の向こう側で己の娘が危機に瀕する姿を、ただじっと見ているしかなかった母。その無力感、絶望感に思いを馳せれば、母が必死で訴えかけてきたのも無理はないと理解できる。
「あたし、ここにいて本当にいいのかな……」
母の泣き顔と言葉がソプラの心に焦げ付いて、その小さな胸の奥に言いようもない罪悪感が影を落とす。
暗い面持のソプラを見て、アプリはにわかに目を閉じた。
「なるほど。『帰りたい』んじゃなくて、『帰らなきゃいけない』って思いこんでしまっているわけですか」
声につられて顔を上げると、テーブルの向かい側で真剣に考え込むアプリの顔があった。
「ソプラちゃんのご両親に心配をおかけしてしまったのはわたしに原因があります。ガーンズバックさ……いえ、あの人に命を狙われていたのは、元々わたしだったのですから。そんなわたしがこんなことを偉そうに言える資格なんてありませんのですけど……でも、あえて言わせてください」
アプリはかしこまった表情を一瞬つくり、
「ソプラちゃんは一人前のアイドルになるべきです。それがご両親への何よりの恩返しになるとわたしは思います。きっとご両親もそうなることを願って、ソプラちゃんをシャレード理事長に託したのでしょうから」
と言って、もう一度ニコリと微笑んだ。黒髪のツインテールがぴょこりと揺れる。
「……うん。ありがと、アプリちゃん」
いつも幻像越しに見ていたのと寸分も違わぬ笑顔がそこにはあった。
ソプラとアプリ。二人はほんの一か月前まで、「ファン」と「アイドル」という関係に過ぎなかった。
アプリは、「次期《唱姫》は彼女しかいない」と呼び讃えられるほどの人気アイドル。だがソプラといえば、人造島に雲霞の如く存在するファンの一人に過ぎない存在だった。
それが今では同じ融社に所属する「同僚」となって、こうして親しく食事するまでの間柄になっているのだから不思議としか言いようがない。
改めてソプラは奇妙な感覚に襲われる。自分は本当に、一か月前までの自分と同じ存在なのだろうか。自分は本当に自分なのだろうか。自分のことなのに、自分が何なのかわからなくなる。
「う~~~~~ん」
いい加減パニックになってきた。考えなければならないことが多すぎて、ソプラの計算能力の限界をオーバーしていた。
「もう、全部わかんなくなっちゃった! わかんないけど、でもとにかく頑張るよ! だって、頑張るしかないんだもんね!」
叫ぶように言って、再びオムライスをもりもりと食べはじめるソプラ。
そんな様子を見ながら、アプリはソプラがいい意味で吹っ切れてくれることを願った。