欠片Ⅰ
午前中最後のカリキュラムであるダンスレッスンを終えると、ソプラはレッスン室に併設されたシャワールームへ向かった。
取り付きの脱衣所で、身体から剥ぎ取るようにトレーニングシャツを、短パンを、下着を一気に脱ぎ捨てると、ドラム式の全自動クリーナーにぜんぶ放り込んだ。
シュンシュンと軽快な音を立てて回りだすクリーナーを尻目に、支給用のバスタオルを大小ひとつずつ手に取る。大きいほうを身体に巻き、小さいほうを腕に掛けて、シャワー室のドアを開けた。溢れだす湯気を潜り抜け、濡れそぼったタイルを踏みしめながら室内を進んでいく。
ずらりと並ぶシャワーブースは半分ほどが「同級生たち」により使用中だった。ソプラはタイル張りの床を鼻歌混じりに歩きながら、空いているブースを見つけて中に入る。
バスタオルをほどき、大小のタオルをハンガーに掛けてから、埋殖器に指令を出す。ブースに取り付けられたセンサーが反応して、スライド式のドアがシャッと音を立てて閉じ、にわかに熱い湯が天井のシャワーノズルから放散される。
ソプラは顔を仰向けて、湯口から雨粒のように落ちてくる熱い湯の一滴一滴を全身に浴びた。まだ幼さの残る身体が若葉のように水滴を弾き返し、不快な汗を流してくれるのをじんと感じる。
「ふう……」
思わず溜息が漏れた。息だけでない。音吐も漏れた。
それが隣のブースにも伝わったらしい。
「ソプラちゃん……ですか?」
隣室でシャワーを浴びていた「同級生」の少女が誰何の声を上げた。
ソプラは、降りしきる熱い雨音ごしに聞こえた声の持ち主は誰かと、思案を巡らせる。
「その声……もしかして、アプリちゃん?」
「はい、そうです~」
ゆるい歓喜の声とともに隣室のシャワーがはたと止んだ。
「よくわかったね……隣に入ってきたのがあたしだって」
関心気味にソプラが言った。
「さっきの溜息がソプラちゃんぽかったですし、入ってくるときに聞こえてきた鼻歌もソプラちゃんが最近よく歌ってたなあって思いましたので。でも、まあ、ほとんどはあてずっぽうです」
アプリ・ハイエイトの口調は恥ずかしげだった。ソプラもちょっと恥ずかしくなった。鼻歌で自分と認められてしまったとは。個室の湯気とは異なる場所から熱がこみあげてくるのが自分でもわかった。
「ねえソプラちゃん、シャワーから出たら、学食で一緒にお昼でも食べませんか?」
「えっ……お昼ごはん……?」
思えばそろそろ昼食の時間である。さっきのダンスレッスンでお腹もいい感じに減ってきている。
なによりアプリと食事できるのは楽しみだった。彼女はソプラにとって、この「学園」で友達と呼べる数少ない存在だったから。
断る理由はなかった。
「うん。一緒に食べよ」
「じゃ、決まりですね~。わたしは一足お先に失礼して、シャワールームの外で待ってますから。ソプラちゃんは、ゆっくりしてってくださいね」
ドアが開く音が鳴り、水気を含んだ足音が遠ざかっていくのを耳で追いながら、ソプラはブロンドの髪を洗いにかかった。
ソプラ・ラヴレスは境界層で生まれた。他の大勢の境界層の人々と同じように、自分も境界層でのみ生き続け、境界層でその生を終えるものと思っていた。
――一か月前の「事件」が起きるまでは。
その「事件」を切っ掛けに、ソプラの生活は激変した。スラム暮らしの貧しい少女に過ぎなかったソプラが、今やアイドルの卵として歌やダンスの稽古に明け暮れる日々を過ごすようになったのだ。
今でも信じられない。
こうして整備された施設でシャワーを浴び、美容成分が含まれたボディソープとシャンプーで髪や身体を洗い、食事ともなれば専門の栄養士によって徹底的に管理されたメニューがずらりと並ぶ――もちろん味も見栄えも折り紙つきだ。
だが、今まで味わったことのない飽満な生活ぶりに遭遇するたび、ソプラは喜ぶどころか後ろめたさに苛まれる。
境界層に残してきた両親の顔が、どうしても頭に浮かんできてしまうのだ。
そのとき両親は、人造島全域に生放送されていた「事件」の様子をリアルタイムで見ていた。
「事件」は、数万人規模の大観衆が押し寄せるアイドルのライブステージで起こった。
その中心でスポットライトを浴びながら歌い踊っていたのは、他ならぬソプラだった。
何も知らぬまま、ただ漠然とライブ映像を見ていた父と母は、それこそ眼が飛び出すほど驚いた。なにしろ、境界層に暮らす貧民に過ぎない自分たちの一人娘が、まるで本物のアイドルのように、光り輝く舞台で歌い踊るのをその眼にしたのだから。
一介のスラムの少女に過ぎなかったソプラが、なぜあのような「事件」に登場することになったのか、その経緯を一言で説明することは到底できない。だから「事件」の後、とある女性に引き連れられて実家へ帰ってきたとき、半狂乱になりながらソプラの身体を抱きしめる両親に対し、ソプラは何も言うことができなかった。
いや、そもそも言葉など無用だったのだ。ソプラの細い身体を掻き抱き、あれだけ「アイドルになりたい」というソプラの夢に取り合わなかった母が、涙と嗚咽交じりにこう呟いたのだ。
――あなたが無事でさえいれば、もう何もいらない。
その瞬間、ソプラは「アイドルになりたい」という夢を諦めようとした。諦めなければならないと、そう思った。
全ては、身の程知らずな自分が無謀な夢を叶えようとして招いた結果だったのだ。両親を悲しませるような「夢」なんて、自分のために泣かせてしまうような「夢」なんて、いっそ放棄してしまえばいい。
――あたしはバカだ。
なんで両親に黙ってオーディションなど受けてしまったのだろう。
なんという親不孝者だったのだろう。
そんな思いがソプラの胸を満たした。夢を諦めることを、他の境界層に生きる人々と同じように自分も境界層で人生を終えることを――何より、大好きな両親とずっと一緒にいることを、その場で約束しようとした。
だけどソプラは、今、この場所にいる。
親元を離れ、内周層に建つこの全寮制の「学園」へと引っ越してきて、すでに一週間が過ぎようとしている。
すべては、ソプラを両親のもとに連れてきた女性の、後押しのおかげだった。
――私がこの子を、トップアイドルにしてみせます。
そう語る彼女が見せたあの横顔は、決意に満ちた、凛として美しい顔だった。