悔恨Ⅳ
故買屋を後にし、最岸層のラボへ戻ってくる頃にはすでに空は朱色に染まっていた。
地上に降りた薄闇は刻一刻とその色を濃くさせ、すっかり伸びきった廃ビルの影を溶かし自らの体内に取り込もうとしている。
地下に広がるラボの真上には洋風の平屋が建てられていた。クロムが電脳麻薬を売るために構えた店であり、同時にラボの存在を覆い隠すためのダミーでもある。
ネオン管で形作られたその店の名前――『DREAM THEATER』の文字看板は、そこが電脳麻薬という名の夢想を売りさばく劇場なのだという皮肉を込めてつけられたものだ。もっとも店主は一か月前の事件をきっかけに麻薬の販売どころか製造すらもすっぱりやめてしまい、『夢想劇場』の名前はその由来や役割を道連れに死へ至りつつある。
経年劣化により苦しげに点滅するネオン管、その真下にある観音開きのドアを片手で押し開くと、クロムは店内へ足を踏み入れた。
店の中はさながら殺風景なオフィスルームといった風情であり、粗末なアルミテーブルやパイプ椅子が律儀に置かれている様はいかにも味気ない。
そんな店内の様子を灰青色の瞳で見回すクロムの胸中に、ある違和感が生じた。
「…………」
この店はラボの存在を隠すダミーとしての役割も持ち合わせている。むしろそちらのほうが大きなウェイトを占めているといっていい。だから店内から地下のラボへと続く階段は、詐欺視――偽の視覚情報を通信波に乗せることで本来あるべきモノを見えなくする技術――により隠蔽され、さらにその隠されている場所が目立たぬよう、テープルや椅子を含めた調度類が恣意的に配置されている。
「おかしいな。椅子やテーブルの配置が変わっている」
クロムはぼそりと呟いた。
『え? ……どこも変わっているようには見えないけれど』
「いいや。ほんの僅かだが、出たときと比べて配置が変わっている」
『そんなの、よく覚えているわね』
「見慣れた場所だからな」
それでも普通、調度類の配置なんかいちいち覚えてられるわけないとルシールは思ったが、クロムが冗談でそんなことを言っているとも思えなかった。
『……ジェッコがどこかに外出していったんじゃないかしら』
というルシールの問いかけを、クロムはゆるく首を振って否定した。
「そんなはずはない。俺やジジイが外出するときは必ず、事前に決めた配置のままにしておく手筈になっているんだ。それが変えられている……つまり、部外者がここに侵入した可能性がある」
『でも……荒らされた形跡なんてないし、それどころかとってもきれいに並べられているし……』
「そこだよ、怪しいのは。あまりにも整然としすぎているんだ」
侵入者の心理として、「物色した後はその場を整えておこうとする」というものがある。自分が侵入した形跡を消すため、乱された現場を直そうとする心理が半ば無意識的に働くのだ。これは自らが他所に「侵入した」という意識を持つ人間に共通する心理であり、なくそうと思って容易になくせるものではない。
クロムたちはこの心理を逆手にとり、あえて一部に乱雑さを残したまま配置しておくことにしていた。外出から帰ったとき、調度類の配置が「整いすぎている」ようであれば、部外者の手が入ったと確認することができるという寸法だ。
これは昔ながらのスパイが、もしもの場合に備えてしばしば用いてきた手段でもある。
例えば通信用の暗号文が敵に奪われたケースを想定し、あえてその暗号文に最初から「間違い」を仕込んでおく。そうすることで、もし暗号文が「間違いなく」打電された場合、その暗号がすでに敵の手に落ちているかどうかを見極めることができる。「間違いなく」打電されたということは、その暗号文を打電した人間が敵の手に捕まり、敵の監視の下で「間違いのない」暗号文を打電させられている状況に陥っていると考えられるからだ。反対に、「間違い」のある暗号文が打電されたなら、それは当初の予定どおり打電されたということだから、敵の手が介在していないことが同時に確認できるというわけだ。
「ラボに部外者が入っているかもしれない」
一抹の不安をよそに、クロムは地下へと続く階段のある場所へ小走りで近づきつつ、自分の埋殖器に指令を出して《詐欺視》による視覚偽装を突破する。
床の一部に過ぎなかった場所に四角い輪郭線が現れたかと思った次の瞬間、輪郭線に囲まれた部分が蒼色の光を発して四散し、階段の入り口が現れた。ぽっかりと空いた1メートル四方の穴の隅には小型の媒体が取り付けられており、これが偽の視覚情報を通信波に乗せて周囲に発散、《詐欺視》を引き起こす源となっている。
タバコの空き箱ほどの大きさの媒体は、依然として通信波を発し続けている。たとえ侵入者が現れようがどこ吹く風、自分たちに与えられた役割はただ偽物の情報を発し続けるだけだと嘲るかのように。
『何か盗られていたら大変よ。いいえ、そんなことよりジェッコの身が心配だわ……』
急いで階段を駆け下りる。鉄製の踏み板からけたたましい音が立ち、地下空間に響きわたる。
薄暗い地下の空間は、荒れに荒らされていた。
もはや違和感などというレベルではない。そんなものを論じるまでもなく派手に散らかされていた。積み重ねられたコンテナは倒され、破壊された機器類は火花を散らしながら不快なバッテリー臭を立ち昇らせている。
不意にクロムの足が止まった。息を殺し、周囲の気配をじっと伺う。
――そのときだった。
倒れたコンテナの影から蒼い刃が閃いた。
クロムはとっさに身を翻す。コンクリートの床に片手を突いて身を伏せ、すんでのところで太刀筋を躱した。すぐさま突いた手に力を込め、床を突き放すようにして身体全体に勢いをつけると、片足を一気に伸ばして相手の顎を蹴りあげた。
ゴキリと鈍い音を立てて襲撃者の下顎が砕ける。その手から刃物がするりと抜け落ちていく先をクロムは視線で追う。即座に刃物を拾い上げ、逆手に握り直すと、元の持ち主に向かって刃を突き立てた。
寝返りの刃は、かつての主の胸に深々と突き刺さり、その命をあっけなく奪い去った。
『まだ敵が潜んでる! ひとりじゃない……複数よ!』
すでにルシールは周囲へ向けて通信波を放っていた。ラボに侵入するどころか、あまつさえその主に刃を向けた不届き者の人数を確認せんがためだ。
同じ人造島の住民である以上、敵のうなじにも埋殖器は当然埋まっている。ルシールにより放たれた通信波は、相手方の埋殖器に辿りつくと同時にレスポンスを要求、さながら反射するソナーのように通信波を一斉に返させる。そもそも放出された通信波は中枢神経に侵入しようとするほどの悪質なものではないから、相手方に備わる対侵入用プログラム――通称《防火壁》は、眠りこけた番犬のように反応すらできない。
クロムはコートをはためかせながら一気に駆け抜け、物陰に身を潜ませた。ラボに再び静寂が戻る。ただしそれは数十秒前とは比較にならぬほどの緊張感を含んだ、危険な静寂だった。
『1、2……総勢4人ってところね』
「死体は除いて、か?」
『ごめんなさい。差し引くのを忘れてたわ。生きているのは、3人ね』
ルシールは得られた情報を整理し、クロムの埋殖器へ送った。
埋殖器が用いる「通信波」は、電磁波とも音波とも異なる特殊な粒子を介して伝播する「波」だ。一般物理学的な妨害方法では「反射」や「遮断」が生じることはない。相手が物陰にいようと、通信波が届く以上は逃げることも隠れることもできないわけだ。だから、クロムには相手の位置が正確にわかっている――どうやら敵はバラバラに潜んでいるらしい。クロムを待ち伏せしていたことから考えると、戦力が一部に偏るのをあらかじめ避けておいたのだろう。それなりに統率の取れた一団だということが推察できる。
「4人か。コソ泥にしてはずいぶんと大袈裟な人数じゃないか。自信がなかったのか?」
嘯きながらも、クロムは倒れたコンテナを背に腰を下ろすと、敵から奪った刃を目の前にかざした。ほんのりと刃が蒼く輝いている。高周波振動ナイフだ。刃渡りは20センチほどで、かなり使い込まれた感がある。
クロムはグリップの付け根にあるダイアル式のツマミを回し、ナイフの出力を最大にした。蒼い光はさらに強くなり、ヴーンという振動音が重く低く響いてくる。
「距離よーし、力加減よーし、風向きよーし、と」
クロムは小声で呟きながら、ナイフを持った手を振り子のようにゆっくり上下させはじめた。
こんな地下に風なんか吹いてるわけないでしょとルシールが茶々を入れようとしたその瞬間、クロムは手にしていたナイフを背中越しに勢いよく放り投げた。
投げ出されたナイフはくるくると回転しながらラボの天井スレスレまで届くほど高い放物線を描いて、そのまま重力に引かれ落ちていき――物陰に身を隠していた侵入者の額に見事着地した。
耳を澄ましてナイフからの便りをじっと待っていたクロムは、遠くの方で断末魔の呻き声が上がるのを確かに聴き取ると、ふうっと溜息を吐いた。額に深々とナイフが突き刺さった姿を想像するまでもなく、ひとりの侵入者が絶命したのは明らかだった。
「これで残りは2人だ」
『でも、どうするの? 銃もないし、ほとんど丸腰で残りの敵とどうやって戦うつもり?』
クロムは眼を瞑り、耳を澄ましたままでいた。あっという間に仲間のうち2人までもが葬られてしまって、敵方に動揺が広がっているのが手に取るようにわかった。
「ナンセンスだな。改造人間に『丸腰』なんて言葉を使うのは」
そんな戯言を呟くクロムは未だ眼を閉じたままだ。これから戦うどころか、全く動こうともしない。
その、根拠のない綽綽とした態度がルシールを苛立たせた。
『もう、一体何を考えてるのよ!』
「何かを考えてはいるさ」
『そうじゃなくて……ああもう、なんでそんなに余裕ぶっていられるの!? 早く何か対策を練らなきゃ、こっちがやられちゃうじゃ……』
「大丈夫だ。もう全部終わってる」
クロムはそこで目を開け、ゆっくりと立ち上がると、ある場所に向かって歩き出した。
せっかく隠れているのにみすみす身体をさらけ出すような真似をしてどうしたんだ、気が触れたのかとルシールが騒ぎ立てるのも構わず、クロムは目的の場所に向かって進んでいく。
数々の障害物を跨いで行きついた先には、ふたつの死体が転がっていた。
残りの敵だった。敵は、互いが互いの身体をナイフで刺しあうようにして死んでいた。
『どういう……ことなの……?』
「詐欺視だよ」
クロムはゆっくりと答えた。
「残りの2人に対して俺から詐欺視をかけたんだ。中枢神経から視覚野に侵入をかけて、他の仲間が俺に見えるように仕掛けた。お互いが敵に見えるように騙すことで、同士討ちを狙ったのさ。結果は……見てのとおりだ」
『でも、そんな簡単に詐欺視に引っ掛けられるなんて……』
「もちろん普通なら至難の業だよ。もっとじっくり考えてハッキング用のプログラムを組み立てなきゃならない。でも、相手の2人は明らかに動揺していた。それで防火壁の警戒も緩くなり、侵入が仕掛けやすくなっていたんだ。なにより、『2人だけ』という状況に相手を追いこめていたのが一番大きかった」
『どういう意味?』
「2人だけってことは、そいつらがそのまま敵同士になれば1対1になるってことだろ? 敵は1人、自分も1人になるわけだから、敵が俺であると信じ込みやすくなるじゃないか。逆にこれがもし3人とか4人の場合だったら、《詐欺視》によって自分以外の仲間全員が俺に見えるはずだから、『アレ? なぜ俺が2人も3人もいるんだ?』と疑われてしまうわけさ。矛盾に気づかれたら、詐欺視の効力もそこでおしまいだ」
『なるほどね……って、ジェッコは? ジェッコは無事なの!?』
クロムたちは荒らされたラボを探し回ったが、ジェッコの姿はどこにも見つからなかった。
侵入者たちに問いただそうとしても死人に口は無い。聞き出す手立てはなかった。
「あのジジイが簡単に殺されるとは思えない。恐らく……」
拉致されたのだろう。
クロムが始末した4人とは別の、何者かによって。
「…………」
クロムは、ジェッコと最後に言葉を交わした場所へ歩いていった。そこには作業台の上に置かれた一機の鳴奏騎――ブロードキャストが、まるで忘れ形見のように静かに横たわっていた。