悔恨Ⅱ
クロムたちが根城にしているラボは、この人造島の最縁部――最岸層に位置している。
最岸層は人造島で「もっとも危険な場所」と呼ばれる区画だ。融社による権力支配から抜け出した「ならず者」たちが蔓延り、独自の無法地帯を築き上げている。
クロムはここで《ハルシオン》と呼ばれる電脳麻薬を製造し、最岸層のならず者たちに売ることで利益を得てきた。
顧客のなかには代金を踏み倒そうとする輩も当然のようにいた。だがクロムはそのような相手を決して許さなかった。どれほど巧妙に隠れ、逃げられようとも、必ず探しだして追い詰め、ときには暴力で畏怖させ、金を払わせた。それでも支払おうとしない者には、その命でもって全てを精算させた。
最後には力の強い者だけが生き残る。
最岸層とはそういう世界だ。
人造島での居場所を失くしたクロムは、そんな過酷な世界を生き抜くしかなかった。
全ては、愛する女性を――マリアをこの手に取り戻す。ただそれだけのために。
雑然とした倉庫のような薄暗い空間をクロムは歩いていく。
やがてラボの隅、雑多な機械類がうずたかく積み上げられた場所に、白い炎のような白髪を湛えた小柄な老人が見えた。アロハシャツに身を包み、デスクに向かい作業に没頭している。
ジェッコ・フェンディアーノ。
四肢を失ったクロムに機械の手足を与えた老練メカニックであり、若かりし頃は凄腕の《クラウドサーフ》でもあった老人。そのヴィヴィッドな活躍ぶりから、『グルーヴィ・ジェッコ』の通り名で知られる有名人でもある。
ジェッコのすぐ隣には作業台があり、その上には蒼い全身鎧のような物体が置かれていた。全身鎧からは幾多のコードが伸び、様々な計器類へと繋がっている。
「ブロードキャストの調子はどうだ」
声をかけるクロム。ジェッコはうなじに手を当て埋殖器の通信を切ると、こちらに振り返った。
「万全じゃよ。一か月前の戦闘による損傷は全て修復済み。それどころか今度は新しい機能を追加して、その最終調整をしているところじゃ」
「新しい機能?」
怪訝そうな顔でクロムが聞くと、ジェッコは派手な虹色眼鏡を輝かせながら答えた。
「おうとも。ずばり自動操縦機能じゃ。これがあれば、遠隔通信でいつでもブロードキャストを呼び出すことができる。いちいち運び出さんでもよくなるっちゅうわけじゃな」
蒼い全身鎧の正体は、鳴奏騎と呼ばれる演奏機能付きの強化外骨格だ。
その用途は大きく分けて二つある。
ひとつは、アイドルの歌うステージの上空を飛行板に乗って飛翔しつつ、内臓されたDTMソフトによって音楽を演奏するための道具として。
もうひとつは、純粋に戦闘用の武装としての用途だ。
ブロードキャストはクロム専用の鳴奏騎としてジェッコが開発した。なぜクロム専用なのかは、ブロードキャストに秘められた最大にして唯一の「奥の手」を発動させられる資質を持っているのが、他ならぬクロムだけだからだ。
クロムはその「奥の手」についてしばし思案を巡らせると、固い表情で言った。
「あんたがブロードキャストに仕込んだ「奥の手」。……確か、《歪極化》だったか」
《歪極化》。
ブロードキャストの「武装としての性能」を飛躍的に向上させるシステムであり、ジェッコ自身が「革命的」と明言してはばからないほどの傑作であるらしい。
その威力はすでにクロム自身が身を以て知っていた。自分の生命が危険に脅かされた瞬間、恐ろしいほどの「魂の振動」が生じ、ブロードキャストに信じられないような力を齎した。ジェッコが革命的と言いいたくなるのも頷ける。
あれがなければ、自分は一か月前の激闘で間違いなく命を落としていた。
だが――。
自分の命を救った以上に、「あれは危険なものだ」という思いが、今のクロムの心の底に沈殿していた。
「あんたは俺に言ったな。《歪極化》を発動させられる人間は、マリアの歌声を深く聴き続けていた人間……つまり、次なるステップに覚醒しつつある人間だけだと」
かつて人造島におけるアイドルの頂点、すなわち唱姫の称号をほしいままにしていたマリア。彼女の歌声には、ある秘められた特殊な力があった。
それは、「その歌声を聴いた人間を、生物として次なるステップへと覚醒させる」というものだ。
マリアはその力を持つがゆえに融社から危険視されていた。
クロムと駆け落ちし、隠棲していたところを融社に見つかり連れ去られてしまったのも、それが理由のひとつだったのだ。彼女の歌声の秘密が明らかになった今なら、そう推察できる。
「マリアの歌声の恩恵を受けて「覚醒」した人間でなければ、《歪極化》は発動できない。そして、《歪極化》を発動させられるのは俺だけ。なぜなら、マリアのすぐ近くでその歌声を聴き続けてきたのが俺だけだったから。……そういう話だったよな」
クロムはそこで言葉を切ると、しばしジェッコの反応を伺った。
だがジェッコは何も答えない。視線を外し、ただ俯いている。
しびれを切らしたように、クロムは切り出した。
「なあ、本当に俺だけなのか? 《歪極化》を発動できる人間というのは」
「……なぜそう思う」
上目がちにクロムの眼を見据えつつ、ジェッコが低い声で聞き返した。
「マリアの歌声を聴いていた人間は俺だけに限らない。マリアは唱姫だった。その歌声は島中に配信されていたんだ。「覚醒」の可能性を秘めた人間は山ほどいるはずだ」
「それはないな。配信されているものを聞き流す程度では「覚醒」を引き起こすには全く足りん。それはワシの研究で判明しとる。まあ、それが何十年と長きに渡っていたのであれば話は別じゃがな」
「そんなことわかってるさ。だからこそマリアの歌声は発禁にされたんだろう、島中の人間が「覚醒」することを恐れた融社連中によって。……俺が言いたいのはそんなんじゃない。マリアの歌声を浴びるように――それこそ、その身に「覚醒」を引き起こすほどマリアの歌声に聞き入っていた人間は、俺の他にもいるって話だ」
「……心当たりがありそうな口ぶりじゃな」
「あるさ。あんたの頭の中にもそいつの名前が浮かび上がってるはずだ」
「…………」
ジェッコは答えず、黙り込んだ。おもむろに虹色眼鏡を外し、眠気を押し潰すようにゴシゴシと目を擦る。意外に小さな目だった。
ふう、と鼻から溜息をつくと、ジェッコは口を開いた。
「お前にもすでに話しているはずじゃが、《歪極化》はワシが全身全霊をかけて生み出した究極の理論じゃ。たとえ「覚醒」した者がお前の他にいようと、あれを組み込んだ鳴奏騎を造れるのはワシしかおらん。《歪極化》の理論は、ここにしか存在しないからな」
と言って、ジェッコは自分の頭を指でトントンと叩く。
「……フン」
クロムは納得のいかない様子で鼻を鳴らすと、そこで話を切り上げた。
「どこか出かけるのか?」
立ち去ろうとするクロムの背中にジェッコは声をかけた。
クロムはちらりと振り返り、かすかにうなずくと、そのまま歩き去っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ラボの階段を上がり、地上にある洋風の酒場めいた建物を出る。
『パーツを手に入れるにしても、どこで集めるつもりなの?』
ずっと黙っていたルシールが声を上げた。
「境界層にパーツ専門の故買屋がある。そこへ行く」
朝の日差しに眼をくらませつつも、クロムは目的の場所に向かって走り出した。
その姿を、廃ビルの影から静かに伺う者がいた。
「…………」
最初から何も存在していないかのように完全に気配を消し、クロムの背中が小さく消えていくのを見届けると、その男は今しがたクロムが出てきた建物へと視線を向けた。
その顔に被された白い仮面が、陽光を受けて、一瞬だけ輝いた。