悔恨Ⅰ
死にもの狂いで走っていた。
後ろ手に引くのは愛しい人の手。力を込めれば壊れてしまいそうなほど柔らかな手を、それでも力一杯握り締めずにはいられなかった。なぜなら自分たちのすぐ後ろには、マリアを連れ戻そうとするRE;GE社の傭兵達が迫ってきていたのだから。
ダダダダ、と銃声が聞こえた。マリアに当たるリスクがあるために威嚇射撃であることはわかっていたが、それでも自分たちの恐怖心を煽るには十分だった。
「クロム!」
銃声に紛れて、青年の必死の叫声が轟いた。
「クロム! 逃げろ! クロム……!」
突き刺すような青年の声は、しかしすぐ傭兵の群れの中に呑み込まれてしまう。
「クロム! マリアを守れ……! 必ず守り通せ! お前は……お前なら……!」
次第に声は聞こえなくなり、銃声と、傭兵達の騒々しい怒号と駆け足だけになった。後ろを振り向けば、息をあえがせながら走るマリアのさらにその後方で、傭兵達に手酷くリンチされている青年の姿が映る。銃把で殴られ頭から血を流し、口から赤い反吐を吐き散らしながら、その決然とした眼を真っ直ぐクロムへ向けていた。
「ガリル……! すまない……!」
後ろ髪引かれる思いで前へ向き直る。眼に浮かぶ涙を食い止めようと思い切り歯を食いしばるが、涙は残酷にも次々零れ落ちていった。漏れる嗚咽は全力疾走の吐息と混ざりあってぐちゃぐちゃになり、肺を、胸を、心を、ずたずたにかきむしった。
それでも、自分は、走るしかなかった。
ガリルの犠牲を無駄にはできない。愛する人をこの島から連れ出すために支払われた犠牲を、ふいにするわけにはいかない。
「クロムーーーーーーーー!」
己の命を絞り上げるようなガリルの、最後の絶叫が響く。
クロムはぎゅっと眼を閉じる。目の前が真っ暗になった。
――そこでいつも、この夢は途切れるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ガリル!」
自分の叫びで目覚めるという滑稽な起き方をしたクロムは、不快感に誘われて己の首筋に手を当てた。触れるだけで機械の指先が汗まみれになる。
身体をベッドから起こし、額に手を当ててじっとしていると、隣のデスクから機械的な合成音声が聞こえてきた。
『どうしたの? 随分とうなされていたけれど』
デスクに置かれた媒体から聞こえる合成音声の正体は、疑似人格のルシールだ。一か月前までは巨大な銃の内部システムの一部として宿っていたのだが、今は本体である媒体のみの姿となっている。
「……夢を見てた」
『夢? 改造人間が夢なんて見るの?』
「そりゃ夢ぐらい見るさ。身体はこんなナリでも、脳はれっきとした生身だぞ」
クロム・マーヴェリクスは改造人間だ。かつて送りこまれた戦地で爆弾にやられたため身体を機械化しているが、全身が機械というわけではない。あくまで四肢だけだ。
『どんな夢?』
「お前には関係ないよ」
素っ気なく返す。しかしそれで簡単に引き下がるルシールではない。
『なによ。教えてくれたっていいじゃない。もう私との間で隠し事はしないって約束したはずでしょ』
「う……」
クロムは狼狽えた。ルシールの言うとおり、確かにそんな約束を交わしていたからだ。クロムはルシールに対してある重大な事実を隠し続けおり、約束の締結には罪滅ぼしの意味も込められていた。
その重大な事実とは、ルシールが、クロムの最愛の女性であるマリア・セイバーハーゲンの疑似人格であることだった。
クロムは最愛の女性の身代わりとしてルシールを自分の傍に置いており、当のルシール本人にはそのことをずっと隠し続けていたのだ。
それは、自分がクロムの相棒として生み出されたと思っていたルシールにとって、このうえない裏切りだった。
事実が明らかにされたことにより、クロム、は大切な相棒であるルシールの信用を失いかけた。
その後紆余曲折を経て、結果的にふたりの仲は元通り修復されたのだが、「もう二度とこんなことが起こらないようお互い隠し事はしないようにする」と、不倫がバレて破たん寸前まで陥った夫婦のように、クロムはルシールから固く誓わされたのだった。
「……昔の夢だよ」
観念してクロムは答える。
『昔?』
「ああ。俺がマリアを連れて人造島から逃げ出したときの夢だ」
『…………』
ルシールは押し黙る。マリアの名が出たことに困惑しているのだろう、とクロムにはわかった。
ルシールにとってマリアは「本物の自分」である。自分が彼女の偽物に過ぎないという事実を否応なく突き付ける存在だ。名前を出されて良い気持ちがしないのは当然だろう。
クロムは今しがた見ていた夢を思い返すように目をつむると、滔々と語った。
「俺たちは必死で逃げていた。マリアを連れ戻そうと追ってきた傭兵の群れから。……とても逃げ切れやしなかっただろう。あの人の助けがなければ」
『「あの人」って、ガリルって人のこと?』
「なぜお前がその名前を知っているんだ?」
『あなたがさっき大声で叫んでいたから』
「…………。そうか」
勘のいい人工知能はこれだから扱いにくい、と喉元まで出かかるのをグッとこらえる。勘が良いということは、皮肉にも人工知能として高性能であることの証拠でもある。推知能力は人工知能の根幹を成す能力だ。まあ、良すぎるのも考え物だけれど。
「ガリル・ガーニッシュ。俺がRE;GE社にいた頃の先輩だった人だよ」
RE;GE社とは、この人造島を経済面から牛耳る無数の複合企業――融社のうち、最大規模を誇る融社であり、俗に《三大融社》―ー人造島の融社のうちの三巨頭の一角を成す重鎮であった。
RE;GE社は当時最大級の人気を誇るアイドル、マリア・セイバーハーゲンを擁しており、名実ともに絶頂期にあった融社だった。クロムは2年前までそのRE;GE社に属しながら、マリアのプロデュースメントを行う専門職、すなわち《クラウドサーフ》を務めていた。
クロムとマリア。2人は恋に落ち、駆け落ちをはかった。
もちろん人気絶頂にあったトップアイドルの逃亡をRE;GE社が許すはずもなく、多数の追手が2人の行方を阻んだ。
クロムは身体をよじると、ベッドの側から足を下ろした。
「俺とガリルは赤の他人同士だったけど、ガリルは実の兄のように親しくしてくれた。優しくて、厳しくて、とても強い人だった」
『今、その人はどうしているの?』
「わからない」
クロムは俯いた。灰青色の瞳がわずかに陰る。
「俺がこの身体になってから、ガリルがどうなったか知らない。生きてるかどうかも定かじゃない。俺達を島から逃がそうと、身を挺してRE;GE社の傭兵に立ち向かっていったのを最後に……俺はガリルについて何も聞いたことはない」
融社のトップアイドルであるマリアを連れ出すという「大犯罪」を犯したクロム。そのクロムの手助けをした人間がタダで済まされるとは到底思えない。
答えは明白だ。
ガリル・ガーニッシュはすでにこの世の人間ではない。
長い沈黙が続いた。
不意に、クロムがベッドから足を下ろして立ち上がり、身支度を整え始めた。
『どこか出かけるの?』
「パーツを探しに行くんだ。お前の新しいボディを造らなきゃいけない」
ブラックジーンズに機械の脚をねじ込み、漆黒のロングコートを肩に羽織る。最後に、真っ白い手袋をはめれば、クロムを改造人間であると外界に示すものは消える。
『私も連れて行って。ジェッコに挨拶していきましょ』
クロムは無言でデスク上の媒体を取り上げると、懐にしまって、ラボに向かって歩いていった。