6
抜けるように青い空には、白い雲がふわふわと浮かび、高い声をあげながら鳥は羽ばたき、北の山脈の尾根に消えていく。
小さいながらも、丁寧に作られた屋敷は美しく清められており、庭は、早くも秋の草花で彩られていた。
前を行くヤフィルタの背中を見つめながら、キーレンは廊下を進む。
砂ぼこりで汚れた足で踏むことを躊躇しながら、廊下をそっと踏み、歩む。
歩みの遅いキーレンをヤフィルタは苛立たしげに、時折振り返る。
キーレンはヤフィルタの冷たい瞳を見つめ、顔をしかめる。
「……」
「……そのような姿ではな」
キーレンは湯殿に連れていかれ、見知らぬ人に馴染んだ衣を剥ぎ取られ、頭の先から足の先までごしごしと洗われた。
着せられた衣は今までに触ったことのない柔らかな長衣。それには見たこともないような美しく細かな刺繍が施されている。
複雑にまとめあげられた髪が痛む、足首が隠れるほど長く柔らかい衣が肌をくすぐるため、キーレンはひどく落ち着かない。
待つように言われた部屋は、中庭が見渡せた。綿の詰まった敷物の上にちんまりと座り、膝を抱えた。
日が沈み夕闇が迫る。キーレンは赤から紺へと染まっていく空の色をぼんやりと見つめていた。
「ここからの夕焼けは美しいでしょう?」
いつの間にか目の前に微笑みを浮かべた少女が座っていた。
キーレンはその少女の蒼い瞳に吸い込まれるように目を離せないでいた。
その蒼は深い深い水の底のように、濃いけれども透き通るような澄んだ蒼だった。
彼女は首も袖から覗く腕も細く、繊細で強く触れれば砕けてしまうな、危うげで儚げであった。なめらかな白い肌、複雑にまとめあげられたつややかな髪、美しい刺繍の施された衣とあいまって、作り物のように美しかった。
「私はリマム、リマム-アルデイストよ」
にっこりと微笑み、小さな赤い唇からこぼれる声にキーレンは答えることが出来なかった。
「キーレン、聞いていますか?」
リマムの脇に控えていたヤフィルタが答えないキーレンにいらだたしげに冷たく声をかけた。
キーレンはこくりと頷き、リマムに向き合う。
「今日からよろしくね。私と一緒に暮らすのは慣れないことばかりかもしれないけれど、仲良くしましょ。困ったことがあったらいつでも言って」
「……」
キーレンはリマムの言っていることが理解出来なかった。
「キーレン?」
「わたし、ここに住むの?」
「そうよ?私と一緒にね。だってキーレンは私を助けてくれるのでしょう?」
その問いに、キーレンはうなずくことなく、じっとリマムを見つめている。
「ここにいたら、今着てるみたいに美しい衣を着られるのよ?あなたの好きなものを食べさせてあげるし、何もしなくてもいいわ」
どうかしらとにっこりと微笑むリマム。
何も言わないキーレンはただ、じっとリマムを見ていた。
「……リマム様、急なことにキーレンも戸惑っているこかと思います」
ヤフィルタの声にリマムは頷き、部屋を出ていった。
「キーレン、聞いていますか?……何か食べて、今日はもう休みさない」
黙ったままのキーレンなのヤフィルタは呆れたように息をはいた。
静かに目の前にところ狭しと並べられた食事、見たこともないようなものばかりで、キーレンは躊躇った。何をどのようにして食べればいいのかわからず、箸を手にすることもできなかった。ぼんやりと眺めているうちに食事の膳は片付けられてしまった。
そうしているうちに、次の間に連れられて延べられた寝具に横になるようにいわれたのだった。
敷布にも、掛け布にもたくさんの綿が詰められており、ふかふかとして体が沈み込んだ。寝返りを打つ度に違和感を覚える。
また、柔らかく滑るような肌触りにも馴染めないキーレンは、うつらうつらとするばかりで眠れなかった。
ぼんやりと朝を迎えて、されるがままに衣を着せられ、食事の膳が並ぶ。
広い部屋に一人で膳に向かう。キーレンはまた食べることが出来なかった。
いつだって食事は、父のロキセイがいた。いくつかの野菜を鍋に入れて煮込んだだけの簡単なものばかりだったけれど、いつも料理は温かく、目の前には笑顔があった。ユーリの料理は美味しいけれどもどこか少し変わっていた。いつもは焼いて食べるナラを細く切って茹でたものを、水と流して食べたりした。やはり、目の前には笑顔があった。
「お父さん……、ユーリ……」
キーレンは柔らかな袖で涙を拭い、一瞬、袖を汚して叱られるかなと心配になったが、どうでもよくなって、泣いた。
「帰りたい。お父さん、帰りたいよぅ」
父のいる、ユーリのいる、薬草畑に囲まれた家に帰りたかった。優しく抱きしめてほしかった。どんなに望んでも叶わないことなのだろう。キーレンにはわかっていたけれども、流れ落ちる涙を止めることはできず、キーレンは疲れてそのまま眠った。
何もする気になれないキーレンは、毎日、ぼんやりと庭を眺めてすごす。
時折、キーレンのもとにやってくるリマムはキーレンと仲良くなろうといろいろなことに誘った。手鞠遊びや、庭園の散策、珍しい甘いお菓子、しかし、リマムが優しく声をかけて誘ってもキーレンがうなずくことはなかった。
キーレンの瞳はどこか虚ろで、言葉の数も少なくなっており、食事もあまり進まないようで、みるみるうちに痩せてきていた。
ヤフィルタはそのようなキーレンに苛立ちを隠せない。
「きちんと食べよ」
食事の膳を前にしているキーレンに声をかけるが、キーレンはぼんやりとしている。その腕を掴み、引き寄せる。
「あなたはここでこのまま、死を選ぶつもりか?それが望みか?」
「……」
ゆっくりとヤフィルタの顔を見上げたキーレンは、不快感を隠そうともしない声に言葉を出すことができなかった。
「誰もが求める強い呪力を持ちながら、生きることを拒むのか。私がその力をもらい受けることが出来ればいいのだが、死んだ者の呪力は神に還されて、また廻る。いっそのこと、今ここで死ぬか?新たな者にその力を渡すために」
「……どうして?どうして呪力なんてあるの?」
「あなたは知らないのか?この国の、この世界の成り立ちを?あなたの父や母は語ることはなかったのか?」
「……知ってる」
幼子に語るお伽噺。
キーレンも幼いころ、父や母が語ってくれた。
この世界を創造した神は五人の息子達にこの世界を五つに分け、統べることを命じた。しかし、息子達は力を使い、この世界の生き物、人間などの動物達を慈しみ育むことはなく、暴虐の限りを尽くす。それを知った神は、息子達からその力を奪いとりあげた。そして、ひとつの強力な力を細かく砕き、たくさんの民に与えたのだった。民と息子達が共に手をとり、この国のため、民のために力を尽くすように、命じた。
神の子は国の王となり、力を与えられた民は呪術師としてこの国に尽力する。この世界の、この国の始まりの物語だ。
「……出された食事は食べなさい」
ヤフィルタはキーレンを離し、部屋を出ていった。
ひとり残されたキーレンはぼんやりと膝を抱えた。
「……お父さん、ユーリ」
ーーどうして?呪力なんてあるの?呪力がなかったら、お父さんと一緒にいられたのかな、ここに来なくてもよかったのかな。
キーレンは父の優しい手を思う。そして、ユーリの穏やかな黒い瞳を思う。
ユーリは不思議な人だった。見たことのない、黒い髪はとても美しく、黒い瞳は吸い込まれそうに深く、穏やかに微笑む人。
ユーリのいたというところは、こことは全く違った。
月はひとつしか昇らず、呪術師はいないというところ。
『呪術師がいなくて困らなかった?病気になったらどうするの?』
『困らないかな。治らない病気もあったけど、どんどん治る病気が増えていったのよ。医学って言ってね、病気を治すためにいっぱい考えて、いろいろ工夫して、少しずつ治るようになったのよ。だから呪術師がいなくても大丈夫』
ユーリの語る不思議なところの話をもっと聞きたかった。
呪力のない、呪術師のいない世界……。
いつの間にか空には、白い月が昇っている。西に傾く三日月、天中に煌めく満月、二つの月。大きく開かれた蔀にまぶしいほどの月光が落ちている。
その光を見つめたまま、キーレンは眠りについた。
キーレンは朝から、出された食事を全て食べた。そして、リマムとヤフィルタに会いたいと食事を用意してくれていた人に声をかけた。
着せられていた衣を脱ぎ、もともと着ていた自分の衣を出してもらい着替えた。
部屋でじっと待つ。
ほどなくして、リマムが部屋へやってきた。さらさらと長い衣が滑る。
後ろには苦虫を噛み潰したようなヤフィルタの姿があった。
「キーレンが呼んでくれるなんて嬉しいわ。話は何かしら?何が見えたの?……ヤフィルタが見通しの術が使えたらよかったのだけど、人を傷付けるような術ばっかり得意で、治癒や見通しはさっぱり。おまけに結界も、術を封じることも苦手なのですもの。キーレンがヤフィルタの術を破って、見通しの術を使ってしまうなんて本当に驚いてしまったわ。王台に上がる者の呪力というのははやり、別格なのですね」
ニコニコと微笑みを浮かべるリマム。
キーレンはリマムを見つめて口を開いた。
「わたし、ここにはいられない」
「あら?何が気に入らなかったのかしら?」
「違うの。気に入らなかった訳じゃない。でも、わたしは行かなきゃいけない」
「そんなことで私が、はいわかりました、とでも言うと思う?……私が何故ここにいるか、キーレン、あなたにわかりますか?知っていますか?」
リマムの瞳がきゅっと細められ、膝の上で手にしていた扇を握りしめた。
「…知らない」
「私の兄は、産まれてすぐに死んだの。…死んだんじゃないなよ、殺されたの、呪術師のナラティスにね。ただ、蒼い瞳をしていただけだったのよ、それだけで兄は殺されたの。生きることができなかったの、王を亡き者にしてこの国を簒奪しようなんて、それを思うかどうかなんて、生まれたばかりの幼子にわかると思う?蒼い瞳は王の証し、そんなことこの国に住む者なら誰だって知っているわ。でも、蒼い瞳を持って生まれた幼子が殺されていることを誰も知らない。この国を乱す可能性がある、それだけで生きることを許されない。おかしいと思わない?……私は認めないわ。そんなこと許されない」
リマムの蒼い瞳が深く強く煌めいた。
キーレンは、リマムの話を聞きながら、どこかで聞いたような不思議な感覚に戸惑っていた。
リマムの怒りを含んだ視線がキーレンを突き刺す。優しい笑みを浮かべていた先ほどまでの雰囲気はどこかに消え去り、別の誰かのように見える。彼女から発せられる覇気は強く、キーレンは圧倒された。
「だから、キーレン、私と共にこの国を変えてはくれないか?私を支える呪術師になってはくれまいか。運命に翻弄される蒼い瞳の子供達を私は救いたい」
まっすぐに向けらた瞳は真摯であった。それでもキーレンはリマムの言葉に頷くことはしなかった。
「…間違ってる。そうじゃないよ」
リマムの蒼い瞳をしっかりと見つめたまま、消えそうなくらい小さな声でキーレンは言う。
「何が?何が間違っているというのです。あなたは国のために子供たちが殺されてもいいと言うのか?蒼い瞳をしているというだけ、ただそれだけで殺されてしまう子供たちを救いたいと言う私が間違っているというのか!」
「違う、そうじゃない」
「では言うがよい、何が間違っているのだ」
キーレンは説明することができなかった。しかし、はっきりとわかったのだ。リマムと共にはいられないと。
言葉を探しキーレンはぎゅっと手を握り、奥歯を噛み締める。
ーーお父さん、ユーリ…。わからないよ。
温かな父の腕の中、優しく微笑むユーリ、三人で暮らした薬草畑に囲まれた家をキーレンは思う。帰りたいと思う…。
ーーユーリのいた世界、呪力のない、呪術師のいない世界…。
キーレンは顔を上げて、リマムに向き合う。
「呪力なんてなくていい、呪術師なんていなくていい。そうすれば、蒼い瞳の子供が生まれても殺されたりしないよ。……ユーリは、ユーリのいた世界は呪術師なんていないんだって。でも、病気も怪我も治せるっていってた。薬をいろいろ作って、みんなで一生懸命考えて、治るようになったんだって」
呪力がなければ、ロキセイとユーリと共に暮らしていける。キーレンは見つけた答えに満足して笑みがこぼれる。
「おかしなことを言う。そのようなことができると思うのか?あなたはこの国の理を知っているのだろう。それに、あなたは、自身が大きな力を得てもなお、そのような戯言を言えるか?右に並ぶ者のない呪力、地位や権力を捨てさり、自分を慕い、付き従う人たちからも、その力を奪う。そのようなことができるのか?そもそもこの国から、世界から呪力を消し去ることなど、できると本当に思うのか?キーレン」
リマムはキーレンを睨みつけ、手の中の扇をパチリと打ち鳴らした。
「…わからない。でも、ユーリは、ユーリの世界には呪力なんてない。私は諦めない。いつか、見つける、諦めない」
キーレンはぎゅっと手を握りしめ、唇を噛む。
リマムの鋭い瞳を反らすことなく、キーレンはもう一度、あきらめないと言った。
「……」
二人の視線が交差したまま、静かに空気が張り詰めている。傍に控えたヤフィルタも身じろぎすることなく成り行きを見ていた。
口を開いたのはリマムだった。
「キーレン、お前に託してみようか?瞳の色が蒼いが故に、生きることが叶わなかった子供たち。その悲しみを繰り返さぬように尽力すると約束するか?」
「リマム様っ!」
ヤフィルタが身を乗り出したが、リマムの鋭い視線と差し出された扇によって、言葉を切った。
「ヤフィルタ、口を出さぬよう、申しつけたはずだ」
「しかし、リマム様、そのようなことができるはずがありません。どう考えても子供の戯れ言でございませんか!」
「私はね、この子のことを信じてみたい。呪力のない世界…。そんなことを今までに考えた者がいるか?蒼龍の宮の長としての未来を担う子供が、呪力を無くすという。面白いではないか、そう思わないかヤフィルタ?」
リマムはふわりと微笑んだ。
空には小さな塊を成した雲が連なっており、高く鳥が飛び回る。
ひんやりとした風がリマムの長衣を揺らした。