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 太陽はすでに西に傾き、黄昏の光が輝いている。

 春も深まり麗らかな日差しを浴びて、伸びやかに広かった若葉の影と光が山から村へと続く細い野道に落ちている。


 その野道をしっかりと手を繋いだ父と娘がゆるゆると歩みを進めている。

 父の肩の大きな籠には、山に分け入り摘んできた山草がいっぱいに入っている。

 くるくると表情を変えながら語る娘を父はにこやかに見つめて耳を傾けている。


「お父さん、明日は手習いにマーナ来てくれるかしら?」


「マーナはお休みしているのかい?」


「前に話したじゃない、弟が産まれてから、ずっとお休みしてるのよ。マーナが来ないと楽しくないのよね。手習いが終わってから一緒に遊べないし、行き帰りも一人なんだもん」


「そうか、弟が産まれたんだね。だったら、お母さんはまだ動けないだろうし、マーナはお家のお手伝いで忙しいのかもしれないね」


「うん、いつも妹のお世話もしてたし。……ナーランはね、お昼寝が嫌いなのよ。でも眠くなると機嫌が悪くなってしまうの。ナーランを寝かし付けるの、私、とっても得意なのよ」

 キーレンは得意気に微笑み、隣を歩く父、ロキセイを見上げる。


「キーレン、じゃあ、またマーナのところへ行ってお手伝いしてあげよう。しばらくしたら、また一緒に手習いに行けるといいな」

 ロキセイは手習いに通い始めた娘の頭にそっと手をのせる。頭の高いところで結い上げた薄茶色の髪がほつれ、日差しを受けて金色に透けている。

 ゴツゴツと節の目立つ分厚い手のひらでそっと撫で付ける。


 キーレンは野道の先の草むらをじっと見つめ、ずっと動かしていた口を閉ざす。

 何かを見つけたらしく、あっと小さく声を出し、立ち止まる。隣のロキセイを見上げ、

「お父さん、誰かいるよ?」

 繋いだ手を振りほどき、走っていく。その背中をロキセイも慌てて追うと、細い足が目に飛び込んできた。


 野道の脇の草むらに倒れこんで、その身体はピクリとも動かない。


「お……、お父さん……」

 キーレンはロキセイの背中に隠れるように後退り、そっと様子を伺っている。

 ロキセイは駆け寄り声をかける。泥で汚れ破れた衣、泥と血にまみれた細い足、鳥の巣のように乱れた髪は黒く短い。この辺りでは、見かけることのない髪の色、不審に思いながらも捨て置くことはできなかった。


「おい、大丈夫か?」


 のぞき込んだ、その顔は赤黒いアザにおおわれていた、目を開けることもままならないくらいに腫れ上がり、唇は血がカリカリにこびりついていた。

 ロキセイはあまりの酷さに思わず瞳を閉じる。


「う……」


 血まみれの唇から、小さな声が漏れる。うっすらと開いた目から、闇夜のように黒い瞳がロキセイの瞳とぶつかる。


「あぁ」

 大きく深い、悲しみを含んだ息を漏らしてから、また、瞳は閉ざされた。


「お……、お父さん、お兄さん生きてる?大丈夫?」


「……とりあえず、このままにはしておけないな」

 ロキセイはかがんで抱えあげると、帰路を急ぐ。

 抱えたその身体は六歳の娘と対して変わらないのではないかと思うくらいに軽く、腕に感じる足も肩も骨ばっていて、硬い。

 髪は汚れ、もつれ絡まりぐしゃぐしゃになっている、洗って櫛を通しても髪は肩にかかるくらいしかない、身に付けている衣は泥や汗で汚れ、所々破れほつれているけれど、明らかに男物だった。


 髪も服も、男性を思わせるため、キーレンはお兄さんと呼んだけれど、 抱き抱えたロキセイはわかっていた。


「なんと、酷いことだ……」ため息と共に思わずこぼれてしまう。


「お兄さん、袋叩きにあったの?」


「キーレン、そんな言葉を誰が教えてくれたんだ?」


「うーん?」


 手習い所に通うようになってから、キーレンは読み、書き、計算だけてなく、いろいろな言葉も覚えてくる。


「さあ、急いで帰ろう。帰ったら、キーレンもいっぱいお手伝いしておくれよ」


「うんっ」



 村の外れにある板葺きの古い家屋、南から西にかけて、手入れの行き届いた薬草畑が広がっている。

 整えられた畝には小さな芽、こんもりと若葉を広げている常緑低木、脇に植えられた灌木の花が開いて畑に白い花びらを落とし、その隣には青い小さな実を付けた枝が揺れている。


 ロキセイは薬草畑の小道を進み、家に着くと、キーレンにいくつかの指示を出す。


「まずは、水をくんできて湯をたっぷり沸かして、それから、お母さんが使っていた寝間着をとってきてくれないか?」


 キーレンは、驚いたように目を大きくあけてから、小さくうなづき、小川に向かってかけていった。


 入ってすぐの土間には右手にかまどと水瓶が据えてあり、左手の棚には、たくさんの薬草がずらりとならんでいる。乾燥させて細かく砕いたものを入れた小箱には、細かい文字で何が入っているのかすぐにわかるように、きちんと整理されている。

 下段には、油や蒸留酒に漬け込んであるビンや瓶が並んでいる。


 土間の奥には中央に囲炉裏の切ってある板間、脇に厚手の織物を敷き、その上にそっと横たえる。


「……うっ」

 小さく呻き声をあげ、わずかに口元が歪む。


 泥がこびりつき、砂が入り込んだ傷を洗う。しみるのか、小さく呻き声がこぼれるけれど、抗うことはない。

 大きな手桶に湯をはり、何度も布をすすぎ、汚れた体を丁寧にしかし、素早く拭き浄める。絡まりもつれた髪をすすぎ、櫛ですく。汚れの取れた濡れ髪は思った以上に黒い、雨に打たれた樹皮よりも黒い髪色は、この辺りでは、見かけない。今までロキセイは見たことがなかった。

 水気を拭き取りながら、耳の横のあたりでまとめる。思った通り、肩にかかる程度しかない。

 この国では、女性は髪を背中の半ばほどまで長く伸ばし、頭の高いところで結い上げることが一般的だ。髪を結い上げないのは、髪の伸びきらない幼子や長患いの病人くらいだ。


「一体、どこの誰なんだろうな」ロキセイは誰に話すわけでもなく、小さく呟く。


 キーレンが奥の納戸から持ってきた古い衣を着せていく。

 いつまでたっても処分出来なかった亡き妻の衣。誰かに譲ることも捨ててしまうことも出来なかった。

 その衣を使う気になったのは、あまりに酷い有り様だったからか、ロキセイにもわからなかった。



 顔だけでなく、手足にも皮下出血や擦り傷や切り傷があり、腹部にも大きなアザができていた。


「キーレン、傷薬をもってきてくれるか?」

 薬を傷口に塗り、柔らかな清潔な布を当てて包帯を巻く。

 キーレンはその様子をじっと見つめ、ロキセイの指示をテキパキとこなしていく。


「……お姉さんだったんだね……」

 眉を寄せて、痛みを堪えるように顔をしかめながら、キーレンは呟く。

 ロキセイはそっとキーレンの頭を撫でてから、姿勢を正し、息を整える。


 傷だらけの体をゆっくりと見やり、ゆっくりと上下する、その胸にそっと手を乗せる。


 傷が早くよくなるように、痛みが早く和らぐように、ロキセイは瞳を閉じて、ごく小さく口の中で呪文を唱える。


 ふわりと、青く苦い草むらの匂いがほのかに広がり、一瞬で消える。


「お父さんの匂い、私好き……。ねえ、すぐによくなる?」

 ロキセイが呪術を使うときに伴う特有の香りを感じたキーレンは目を輝かせて、誇らしげに父の顔を見つめる。


「だと、いいな。傷は深くはないが数が多い、それにとても衰弱している。このまま、膿んでくることがなければいいがな、こればっかりは何とも言えないな」


 穏やかに上下する胸から、手を離し掛け物を首もとまで引き上げる。



 ロキセイは自分の術のいたらなさに大きくため息をこぼす。

「どうしたの、お父さん?」


「いや、何でもない。さぁ、山草がそのままになっていたな、分けて干してしまおう」

 微笑みを浮かべながらも、心は重かった。







「一体、どんな風に躾ているんですか?うちの子に何かあったらどうしてくれるんですか、あなたに何ができるというのですか?」

 ロキセイの前には、細い目に色濃く化粧をのせた丸顔の女が立っている。

 手習い所でキーレンは男の子を強く押し、転んだ拍子に地面で頭を打ったらしく、手習い所の教師の呼び出しを受け、その男の子の家までやってきた。

 瓦の美しい大きく構えた門扉を背にその母親はきつくロキセイを睨み付ける。


「申し訳ありません」

 大きな肩を小さく丸めて腰を折る。


「……わたし、悪くないっ!」

 キーレンは涙をいっぱいに溜めた目で父の腕にすがり付く。


「うちの子に怪我をさせておいて、なんて言いぐさかしら……」

 ふんと鼻を鳴らして、腕を組み換える。柔らかな衣がサラリと揺れて、帯飾りがシャラリと音をたてる。


 ロキセイは言葉を繋げようとする娘を抱え込むように腕を回し、畑作業で汚れているすりきれた衣で口を閉じさせる。

 言葉にならなかった思いは、嗚咽となってロキセイの衣に染み込んでいく。


「……私が怪我をみせていただいてもよろしいでしょうか」


「はぁ?とんでもないっ!息子はマトコラの街の呪術師に診ていただくのです、彼はとても優秀ですからね。……あなたと違って、清定館で学ばれた呪術師ですから」女は鼻で笑う。


「大変、申し訳ありませんでした」ロキセイはわずかな金銭を置いて立ち去る。




 もうそこには、少しの間もいたくはなかった。娘の手を強く握り、駆けるように家へと続く小道を歩む。

 傾き始めた太陽の光が顔を照らして眩しかった。その射光を避けるように、ロキセイはうつむいたまま、足だけを動かす。


「……お父さん、ごめんなさい」


 その声にはっとしたように、ロキセイは歩みを緩める。


「あぁ、キーレン、すまない……」


「お父さん……、ごめんなさい」


「何があったのか、ちゃんと話してくれるかい?お父さんはキーレンが怒ったわけがあると知っているよ」


「……」


「黙っていてはわからないよ」

 小道の脇の大きな広葉樹の下に、キーレンを座らせ、ロキセイも並んで腰を下ろす。小さな頭を抱き寄せると、亡き妻と同じ薄茶の瞳が潤み、柔らかな頬を涙が伝う。


「……お父さんのこと、全然、大したことないって、出来損ないの三流呪術師だって。……かすり傷ひとつ、治せないって。そんなことないよね?お父さん、出来損ないなんかじゃないもん。呪術使うときだって、ちゃんと匂いするもん。一生懸命、怪我みてるのに……」


 ロキセイは大きく息を吐いて、広葉樹の葉を見上げる。


「キーレン、大きな木だね」


「……?」

 驚いたように顔をあげた、その瞳は未だに涙が浮かぶ。


「木にもいろんな木がある。それと同じように、呪術師もいろんな呪術師がいる。この木のようにどこまでも大きくなる木もあれば、あの灌木のように、大きくはならない木もある。すべて木は木だ。……キーレン、お父さんはね、とても小さな木なんだよ。……呪術師になるには、手習い所の先生の推薦があって、練成館に入る。そこで学び、優秀な者だけが、清定館に進むことができる。お父さんは清定館には進めなかったよ。でもね、呪力は誰もがみんな持っているわけではない、限られた者だけに与えられた力なんだよ、だからお父さんはこの力で少しでもたくさんの人を癒したかったんだ。でも、呪力だけでは、確かにかすり傷ひとつ、治せないんだよ。早く治るように薬草の力を借りているんだよ」


 言葉にすると足元から染み込んでくるように無力が上ってくる。

 呪力を持つ者は、決して多くはない。限られた者だけに与えられた力なのだ。親から受け継ぐものではない、貴賤を問わない、ただ、この力を持って生まれるのだ。


 ロキセイが生まれ育った村は険しい山の谷間にあり、耕す田畑が少なく貧しかった。父は流行り病であっけなくこの世を去り、母と幼い弟と妹の暮らしを長男として支えていた。そんなロキセイの呪力が目覚めたのは七歳のときだ。傷付いた小鳥の羽を癒したことが始まりだった。

 村に唯一、開かれていたけれど、それぞれ仕事を持つ子供たちは通うことほままならなかった手習い所。その手習い所の教師の薦めと、長とは名ばかりの貧しい村長の援助で、ロキセイは村を離れ遠い街の練成館に学んだ。

 小さな村の中では、わからなかったことが、そこでは見えた。自らの貧しさと、弱さ。




「少し、難しかったかな……。キーレンにもわかるときが来るのかもしれないな。……来なくてもいいかな、どちらにしても……」

 ロキセイの呟きも、キーレンは意味をつかみかねた。


「お父さんは……、一生懸命に怪我や病気の人を治そうとしてる。それは間違いないよね」


「そうだね」


「なら、いいの。お父さん、いつも言うでしょ?一生懸命、頑張りなさいって、頑張ったらそれでいいって。大きな木だからって偉いわけじゃないし、小さな木だからって悲しくなることなんてないでしょ?その木にはその木の、あの木にはあの木の、良さも役割もあるもの。薬草だって、いろんな役割があるもの」

 キーレンは素晴らしい答えを見つけた喜びに顔を輝かせている。誉めてほしいと目をぱっちりと開いて、父を見上げる。

 ロキセイは、娘のわずか六歳の子供の言葉に励まされ、勇気付けられたこと、それが真理であることに、驚きを隠せなかった。


「……キーレン、本当にその通りだ。ありがとう」

 ロキセイは腕の中の細い肩をしっかりと抱き寄せた。


「お父さん、早く帰ろう!あの人が目を覚ましてるかもしれないよ」


「そうだな」

 ロキセイは娘の手をしっかりと握り、帰路を急いだ。










「ロキセイ!ロキセイ!!」

 ドアを勢いよく叩き、大きな声をかけるのは、白髪頭の老婆、セナーリン、よく日に焼けて浅黒い顔は目元も口元もはっきりとシワが刻まれている。垂れ下がったまぶたの隙間から、深い湖のような青緑の瞳を光らせ、滑らかな杖を手に、少し曲がった背中をゆらゆらと揺らしながら、中に入ってきた。


「セナ婆、大きな声出さなくても、十分に聞こえるよ」


「あたしの声が大きいのは今に始まったことじゃないよ。この声は生まれつきなんだよ、文句があるなら、おっかさんに言っとくれ。まあ、とっくの昔に死んじまったけどね」

 カラカラと歯のない口を大きく開けて笑う。


「膝、いいみたいだな。よかった。ちょっと診てみるから、ここに座って」


「そうだよ、この前診てもらってから、すぐに腫れもひいて、痛みもないよ。ほら、この通り」セナーリンは右足をドンドンと踏み鳴らし、胸を反らせる。


「なら、よかった。あんまり無理しないでくれよ、またすぐに痛くなってしまう」


「ハハハっ、心配しなさんなっ!もうすっかりいいからね。それに、だてに年はとってないからね、サボるのもお手のものだよ」


「俺にできることなら、何だって言ってくれ」


「あんたには十分によくしてもらってるよ。……よかったらこれ、食べておくれ。山菜をたくさん炊いたんだよ。一人きりのくせに鍋にいっぱい作っちまった。あんたがもらってくれなきゃ、あさってにはあたしの体はほとんど、山菜で出来ちまうね」

 大きな器に山盛りになった山菜をセナーリンは板間にコトリとおいた。


 村に一人で住むセナーリンはかくしゃくとしてはいるが、力仕事や高所作業などはやはり難しくなっていた。呪術師の仕事でも、薬師の仕事でもなかったが、ロキセイは細々とセナーリンの手伝いを請われる前に、申し出ていた。そして、そんな村人はセナーリンだけではなかった。

 また、ロキセイは現金収入の少ない村人から、代金を請求することもしなかった。払えるときに払ってくれればいいと思っていたし、何より代金を請求できるような呪術であるとは思えなかった。

 そんなロキセイに村人たちは、野菜や果物を分けてくれる。ロキセイはそれで十分だった。


「あれ?誰かいるのかい?」

 ロキセイの肩越しに、膨らんだ寝具に目をとめたセナーリンは声を潜めて小さく問う。


「あぁ、山道の脇で倒れていたのを見つけてね。だいぶ、よくはなってきているんだけど、どうやら言葉が通じない……。耳は聞こえてるみたいなんだが」


「大陸は広いからね。知らない言葉があってもおかしくはないね。まぁ、あたしはこの村から出たことさえ、ないけどね」セナーリンは大きな声をあげて笑う。ハッとして、また大きな声を出しちまったと顔をしかめ、ふと笑みを消す。そして、ぽつりと言葉をつなげる。


「また、あんたは金にならないことしてるね……。あんたくらいだよ、金を取らないで呪術師なんぞしてるのは、ほんとに馬鹿が付くくらい真面目で正直なんだから。となり街の呪術師は腕は立つらしいけど、やたらと金がいるらしいじゃないかっ、足元見やがって」


「セナ婆、呪術師にもいろいろいるからな」


「……ロキセイ、あんたは自分のことを卑下しすぎなんだよ。あたしらがあんたにどれほど助けられているか、わかってるのかい?……こんなチンケな村でただ同然で呪術師なんぞしてるのはあんたくらいだよ。……昔はちょっと風邪をひいちまうだけで、足に小さい怪我しちまうだけで、ころっと死んじまった。お産だって命懸けだよ……。薬師もいない、呪術師もいない、そんな村ははいて捨てるほどあるんだ。この村だって、あんたが来る前はそうだったんだからね。……あんたのお蔭でどれくらいのもんが命拾いしてるか」


「セナ婆……。俺は何にもしてないさ」


「……あたしはさ、あんた以外の呪術師は知らないんだよ、見たこともない、フローセイのおとぎ話に聞いたことがあるくらいさ、もっとすごい呪術を使う者がいるんだろうね。でもね、あんたがいてくれる、それだけで有難いんだよ、あんたに診てもらった、それだけでいいんだ。例え、死んじまっても、あたしらは納得できるのさ。……そうだろ?」


「……ありがとう」

 呪術師としての才は、決して高くはないけれども、それでも必要としてくれるという彼女の言葉に、ロキセイは胸が締め付けが、少し緩むようだ。


 小さな木には小さな木の役割がある。

 幼子の言葉が耳に甦る。



 セナーリンが口を開けて笑うのを、見てロキセイも頬を緩める。





 板間の脇に横たわった背中に声をかけると、ゆっくりと振り向き目を開ける。月明かりのない闇のような黒の瞳がロキセイに向けられる。

 痛々しい赤みは黄色く変色し、少しずつ腫れもひいた。長いまつげが影を落とす涼しげな目元、すんなりと通っている小ぶりの鼻、その下の唇もまた小さかった。

 体を起こし、背中に丸めた敷物を詰めて、壁にもたれさせる。

 薬草を煎じた湯を口元に運ぶと、少しずつ口に含み、飲み下していく。


「苦いけど、大丈夫みたいだな」

 耳は聞こえてるようで、ちらりとロキセイを見やり、小首を傾げる。その表情は困ったように揺れている。

「……」


「わからないのか……」

 女の髪色も瞳の色もひどく珍しく、言葉も通じない。一体、女は誰なのだろうか、どこから来たのだろうか、ロキセイには全くわからなかった。


「お父さんっ、元気になってきたね」

 外で遊んでいたキーレンがいつの間にかロキセイの後ろでニコニコと白い歯を見せて、赤く頬を染めている。


「あぁ、このまま少しずつ食べられるようになればいいんだがな」

 女の腹部には赤黒いアザがまだ残っている。時折、痛むのか顔をしかめて腹を押さえていたり、撫でるようにさすっていたり、膝を抱えるように丸く小さくなっていることが、ロキセイは気にかかっていた。


「お姉さん、喋らないね。声が出ないのかな?」


「さぁ、どうしてなんだろうな」

 薬湯を飲み干した女は、目を閉じて壁に寄りかかっている。ロキセイはその腹部にそっと手をのせて、小さく呪文を呟く。

 青い苦い草の匂いがふわりとただよう。


「ねえ、お父さん、この匂いってみんな違うの?」


「そうだよ、呪術師によって違う。匂いで誰の術かわかるくらいな。呪力が強いと匂いも強くなるけれど、もっと高等な呪術師になると、術を使うときに、匂いを消す術を同時に施すんだぞ?……そんな術、見たこともないし、もちろん、できないけどな。まぁ、お父さんには必要もない」


 強い呪力を持つ呪術師はごく僅かだ。そのような呪術師は王直属の呪術師として青龍の宮に属し、王都に住まう。

 比較的大きな街には治癒や見通しの術を使う呪術師がいるけれど、高額な金銭を対価として求められることが多く、小さな村で暮らしている、貧しい人たちは呪術を目にすることもない。呪術師自体の存在も薄く、その実態については知られてはいない。

 呪術師といえば、お伽噺のなかで語られるフローセイ-ナロナビくらいであり、フローセイには不可能なことはないと語られているため真実味が薄い。


「ふーん、怪我とか病気を治すだけじゃないの?いろいろな呪術があるの?」


「治癒と、見通しがほとんどだな、治癒は病気や怪我を癒す。見通しは未来や過去が見えることだ。他にもたくさんの術があるよ、物を触れずに動かしたり、風を起こしたり、幻を見せたりできる者もいる。練成館でそんな術が使えるくらい、呪力の強い者は、一人か二人だったよ。本当に凄かったな。……お父さんは見たことはないけれど、遠い国には、火や水を自在に操ることが出来る呪術師がいるらしいぞ?」


 キーレンは薄茶の瞳をぱっちりと開いてロキセイを見つめる。

「ねえ、お父さん、私も呪術師になれるかな?どうしたらなれるの?」


「キーレンは呪術師になりたいのか?」


「うん、なりたい。みんなの病気を治したいの」

 掛けものからのぞく、細い肩の女をじっと見つめ、キーレンは唇をきゅっと噛む。


「呪力は持って生まれるものなんだ、キーレンが呪力を持っているかどうかは、九歳までにわかる。十歳になって呪力がなければ、呪力はない。呪力があれば手習い所の先生にお願いして、練成館で学ぶことになる。お前と一緒に呪術師をするのは楽しいだろうな」

 幼い娘の可能性は大きく広がっている。ロキセイはその可能性に思いを巡らせ、口元が緩む。

 どんな大人になるのだろうか、呪術師になるのだろうか……。

 健康で優しい人になってくれればいいと、ロキセイは思い、柔らかな後れ毛を撫でた。





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