深淵 ~越えられない壁~
くろちゃんに入った奏ちゃんが、お兄様がたくさん作っていたプログラムをひとつひとつ実行していく。
どれも最後の宙返りまでは同じで、その後に変化を加えているようだった。
回りすぎて尻餅をついたり、着地で体がゆがんだり、ジャンプが進行方向から斜めに逸れてしまったり、何度も倒れながら、奏ちゃんは賢明に頑張っている。
「優斗のおたんこなす」
「このヘタレ優斗」
「もう、馬鹿優斗、死んじゃえ」
奏ちゃんがその度に悪態をつき、私は苦笑いを浮かべるしかない。
「どれも駄目じゃん」
「ああ、でも最初のと、最後から2つ目とのはいい感じだったんじゃない?」
終わったプログラムを評価して、奏ちゃんがファイルのタイトルに○×△をつけていく。
昨日からこういうやり取りをしていたらしく、しばらくしたらまたお兄様が新しくプログラムを作っているのだという。
お兄様ったら素直に謝ったらよいのに、不器用ですね。
「お兄様を待つ間に、それを元にやってみましょうか?」
と、私は奏ちゃんに提案した。
ジャンプの方向が進行方向に沿っていて、着地の際に足から付いているプログラムなら、後は奏ちゃんの力で何とかなるかもしれない。
私は何度も体操教本の説明を読み、目を皿のようにして、くろちゃんの演技を見続けた。
だけど――。
昼が過ぎ、夕方になってもいい結果は得られなかった。
その間に二度、お兄様とのプログラムのやり取りをしている。
応募の締め切りは明日なのに、どうすればいいのかしら?
「やっぱりできないよぅ」
弱音を吐く奏ちゃんを力づけようと、私は声を絞り出した。
「がんばって、奏ちゃん。すごい技だし、簡単に出来る人なんていないよ」
「あの人は、やってみたら出来ちゃったって言ってたのに……。なのに、どうして私は……」
くろちゃんがひざまずき、顔をがっくりとうな垂れる。
「あの人って?」
「優斗の幼馴染。優斗のプログラムだってその人の映像から作ったの」
そっか、あなたもゆり姉様に合ったんだね。
「あの人はすごいよ。何でも出来るって優斗が言ってた」
「そうだね、すごい人」
私は顔をあげ、そのままベッドに倒れこんで、天井を見上げた。
私とお姉様だけじゃなく、奏ちゃんまで……。
「どうしたの?」
私のメティスに入ってきた奏ちゃんが、モニターの中から私の目を覗き込んだ。
目頭が熱くなり、今にも溢れそうになる涙を瞬きで誤魔化そうとした。
「ごめんなさい。ちょっと、昔のこと。思い出して……」
「昔のこと?」
奏ちゃんの姿が消え、代わりにベッドに上がってきたくろちゃんが私の頬に触れて、
「ね、話して」
と、優しく微笑んだ。
「ゆり姉様は、私とお姉様が束になってもかなわなかったから……」
私は初めてお兄様にあった時のことを思い返した。
その時、私は小学校一年生で、お兄様は小学校三年生だった。
「私とお姉様とお母様はね、お兄様と血が繋がっていないの。私がお兄様と知り合ったのは小学校に入学した年の夏。それは、お兄様が本当のお母様を亡くしてから、ほんの二週間くらいの時だった。まだ小さかったお兄様は、お母様の事故を目の当たりにしてしまって、心を病んでしまったの」
くろちゃんは静かに私の言葉に耳を傾けている。
「仕事を長く休めなかったお父様は、一人になるお兄様の為に家政婦を雇った。それが私たちのお母様だった。お母様も小さい私たちを一人で育ててくれていたから、私たちは学校からこの家に帰ってきて、お父様が帰ってきたら家に戻るという生活をしてた。
週末になると、お兄様を元気付けようとして私たちはこの家に来るようになった。どうにかしてあげたいって思ってたけど、私たちにはどうすることもできなかった」
こんなこと、誰にも話したことなかったのに。
「やがて学校には行けるようになったお兄様だったけど、周りと距離をおく様になり、学校でも孤立するようになってた。それを救ったのが、ゆり姉様なんだよ」
「――運動会の話?」
「そう。お兄様から聞いたんですか?」
くろちゃんが頷く。
「優斗は今でも、その時の写真を大事に持ってるんだよ。お守りだって」
私が撮った写真だ。
リレーのアンカーになった兄様が一位でゴールした時の写真。
ゆり姉様が、お兄様に走る特訓をさせて、クラスの皆と勝ち取った勝利。
お父様にカメラを借りて、お兄様の勇士をおさめようと息巻いて、偶然取れてしまった写真には、ゆりかお姉様がお兄様のほっぺにキスする姿が映っている。
一筋の涙が私の頬を伝って流れた。
「やっぱりお兄様にとって、ゆり姉様は特別、なんだね」
お兄様はそれから少しずつ明るくなって、私たちとも色々話すようになった。
くろちゃんが掌で私の涙を拭った。
「お姉ちゃん、優斗の事……好き? とか?」
胸がズキンと痛む。
私は首を振った。
「どうかな。よく分からない。まだ小さかったし、私たち二人にとってお兄様が特別な存在だったことは確かだけど、それはどうにかしてあげたいって思いから始ったもの。好きって、一緒に居てあげたい、その人のために何かしてあげたい、その人の事ばかり考えてしまう、なんてよく言うけど、私の気持ちは何なのかな?」
あの頃の私はお兄様のことばかり考えてた。だけど、私たちにはどうしようも出来なくて、それが悲しくて、寂して、辛かった。
あれからもう七年になるけど、こんな気持ちを他には知らない。
「何か変なこと言っちゃってるね。ゆり姉様の事は大好きだし、いいんだ。それより……」
私の気持ちがどうであれ、お兄様は妹だとしか見ていないんだから、これ以上は考えないほうがいい。
私は、気持ちを心の奥底に追いやり、明るい声で、
「きっと、ゆり姉様だって簡単に出来たわけじゃないと思いますよ。電話してみましょ」
と、くろちゃんに向かって微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「ああ、久しぶり、真姫ちゃん」
メティス越しに弾んだ声が聞こえてくる。
「はい、ゆり姉様、ご無沙汰でした」
ゆり姉様からは見えていないのに、ついぺこりと頭を下げる。
「どうしたの?」
と、ゆり姉様に訊かれ、私は奏ちゃんに見せて貰ったゆり姉様のムーンサルトを、お兄様に見せて貰ったことにして、とても感動したと伝える。
「あー、あれか。うん、ありがとう」
「凄いですね。あんなことが簡単に出来ちゃうなんて、さすがゆり姉様です」
「簡単じゃなかったよ。ほんとに大変だったし、あの後、2、3日は体中が痛くてまともに動けなかったんだから」
ねっ、と奏ちゃんに向かって笑いかける。
ゆり姉様はいつもお兄様の事を支えてくれる。
それはやっぱり……。
「どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「まあ、好きでやってることだから」
「お兄様がですか?」
「へ? ち、違うよ。世話を焼くのがってことよ。もう真姫ちゃんったら」
可愛い。と、私は笑みをこぼす。
何でもできるお姉様だけど、こういうところは不器用だ。
「着地のコツってあるんですか? くろちゃんが倒れるのですけど」
「そうだね。膝は軽く曲げてあまり動かさないで固定すること、バランスは腕を前に伸ばしてとるといいかな」
「そうなんですか」
パソコンでさっき録画したくろちゃんの宙返りを確認する。
「調子はどう? 上手く出来そう?」
「はい、やってみます」
「がんばってね」
「はい、ありがとうございました。お兄様にも伝えておきます」
通話を終了し、私たちはアドバイスを元に、練習を再開した。




