3-4. 別れゆく道
シロスの港は、往時ほどではないにしても、船で賑わっていた。本国側の沿岸を行き来するだけでも様々な物資の売買が可能だし、沿岸で獲れた魚を市民の食卓に供する漁船は相変わらず景気が良さそうだ。魚醤を漬ける倉庫からは独特の匂いが漂う。
停泊する商船は品物を降ろし、次の港までの食糧や水を補給している。天竜隊の船も同様であった。出費を抑えるために、自分達で荷を積み込む。ネリスとファウナ、それに右手指の欠けたオアンドゥスも例外ではなく、忙しなく行き来して各自が持てる物を運んでいた。
本来ならそうした仕事に能力を発揮するはずのタズは、波止場でセナトにつかまっていた。
「そんな顔するなって。仕方ないだろ? 俺がそっちに行って何をするってんだよ」
「仕事なら何だってあるじゃないか。付き人って立場がそんなに嫌なの?」
「そうじゃなくって! ああもう……」
タズは天を仰ぎ、やれやれとお手上げの仕草をしてから、よいしょと腰を屈めて少年の目線に合わせた。
「あのな、俺は水夫で、海の上ならそこそこ役に立つけど、おまえの後にくっついてっても邪魔になるだけだ。大して物知りでもないし、特別な力があるわけでもない。おまえが俺を信用してくれるのは嬉しいけど、それはおまえの為にならないんだよ」
「タズに頼り切るほど落ちぶれてやいないよ」
セナトは憎まれ口を叩く。タズは苦笑して、わざと乱暴に彼の頭をくしゃくしゃにしてやった。優しくしたら、別れるのが辛くなる。
「生意気言いやがって。でもな、おまえ、俺やネラさんの口から聞いたことは、ほかの奴から聞かされるよりも、信じやすいだろ。俺が呼んでる、って言われたら、何かあったのかと思うだろ。それはまずいんだよ。俺は頭悪ぃから、議員とか偉いさんとかがあれこれ罠を張ったら、簡単にはめられちまう。気付かずにおまえの不利になることをやっちまうかもしれない。つまり」
説得する口調に、諦めが滲む。タズはほろ苦い微笑を浮かべて、セナトの頭から手を離した。
「住む世界が違う。――そういうこった」
「…………」
セナトはぎゅっと唇を噛み、悔しそうに自分の爪先を睨みつけていた。頼み込み、脅しすかして無理強いすることは出来るだろう。だがその結果、タズが危惧した通りのことが起きたら、本末転倒だ。身近に集めるなら、ただ誠実なだけではない、助けとなる有能な人材を求めなければ。
老獪な人物であれば、タズのような者でも敵に利することなく使いこなせるだろうが、生憎セナトはまだほんの子供だ。それに、仮にその能力があってもしたくはない、というのが偽らざる気持ちだった。人を操る、己が祖父と同じ真似は。
長い沈黙の末、ようやくセナトは言った。
「それじゃあ……タズは、どうするの。仕事はあるのかい」
「その点は心配するなよ。こう見えても、船乗りとしちゃ結構有能なんだぜ。引く手数多に決まってんだろ」
「船長に盾突いて、小船をぶん取って飛び出したりするのに?」
苦笑を浮かべて揶揄したセナトに、タズはおどけて首を竦めた。
「いやまあ、あれは特例だ、あん時だけ。それはともかく、今のところとりあえず、オアンドゥスさん達をコムリスまで送ってくのは決まってるんだ。でかいヘマをやらかさなきゃ、そのままこの船で雇って貰える。だから、またコムリスからこっちに戻ってくることもあるさ。そん時は、おまえんとこにも顔を出すからさ」
「目当てはネラなんだろ」
「当たり前だ」タズは悪びれず朗らかに笑った。「誰が小便臭いガキんちょなんか……あうッ!!」
向こう脛を思い切り蹴られ、奇声を上げて飛び跳ねる。
逃げるセナトと追うタズを遠目に見ながら、ネリスは呆れて首を振った。
「相手は次の皇帝陛下だっていうのに、タズってば本当、相変わらずなんだから」
「だからこそ、フィニアスとも友人でいてくれるんだ」
オアンドゥスが横で鷹揚にうなずく。ネリスはちょっと顔を上げて彼方の空を見やり、そうだね、とつぶやいた。その横顔に、マックがそっとささやく。
「何か見えるかい」
ネリスは首を振り、ため息をこぼしかけて堪えた。不安なのは誰もが同じだ。ただせめて、何か絆のような力が働いて、安否だけでも分かれば良いのに。
「虫の知らせとか、そこにいない人の持ち物が急に割れるとか、そういう話はよく聞くけど……もっと確実な方法があればいいのにね。大昔は、そんな魔法もあったのかな」
半ば独り言のような彼女の言葉に、マックはちょっと考えてから応じた。
「あっただろうと思うよ。でも、どうかな。遠く離れている相手の身に何かあったと分かっても、そこへ飛んで行くことが出来ないのなら、辛くてこっちの気がおかしくなるかも。無事だと分かっても、まだ大丈夫か、今夜は、明日は、って何度も確かめずにはいられなくなるかも知れないし」
「何も知らないまま、大丈夫だろう、って希望だけ持っている方が良い、ってこと?」
「人によってはね。あのさネリス、気持ちは分かるけど、心配しすぎだよ」
「別に、心配なんかしてない」途端にネリスはぷくっと膨れた。「レーナと二人で好き勝手に空を飛んでると思うと、なんか無性に腹が立つだけ。それで雲の上から落っこちたりして迷惑かけられたんじゃ、堪らないじゃない」
「そうだね」
無理のある強がりにも、マックは笑ってうなずいておいた。それから周囲を見回して、しかつめらしく続ける。
「もし兄貴に何かあったら、俺たちも天竜隊とは名乗れなくなるし、そもそもヴァルトさん辺りは勝手にどっか行ってしまいそうだよなぁ。兄貴にはその辺もしっかり考えて貰わないと」
「そうそう。もうただの粉屋じゃないんだからさ。山脈ではサルダ族と一緒に生活したし、将軍様や皇帝陛下ともお話しして……今は、次の皇帝陛下と一緒に船旅をしてきたんだよね。なんか、自分のことじゃないみたい」
ネリスは思わずのように苦笑した。マックも一緒に笑い、ぽんとネリスの肩を叩く。
「そんな世界ともお別れだよ。さあ、積み込みを終わらせよう。そっちの箱は俺が運ぶから、ネリスは上着を」
「あ、うん。そうだね。よいしょっと」
新しく調えた上着が数着ずつ入った袋を抱え、ネリスは数歩進んでふと海を見やった。島影がいくつも、遠近に連なっている。この辺りは沖合いに小さな島が数多くあって、人が住めないようなものから、まるごとひとつの島が別荘地になっているものもある。そのひとつが、皇帝のものだ。
「セナト様、あそこに行くんだよね」
「うん。古い書物がたくさんあるから、竜侯のこととか魔術師のこととか、調べてみたいっておっしゃってた」
「……あたしも、いつか行きたいな」
ぽつりとつぶやかれた言葉には、深い懸念と不安が滲んでいた。マックも表情を改め、小さく「俺も」と同意する。
「コムリスの神殿で兄貴と一緒に色々読んだけど、ああいうのじゃない……なんていうか、本当のところを知りたい」
伝承や物語がすべて嘘だと言うのではない。現にレーナという竜が存在し、絆の誓いが力を発揮するのを、二人はその目で見た。だが、後の竜侯家や皇帝の子孫らによって都合よく省略されたり、解釈を曲げられたりした伝承ではなく、当時のありのままを知りたい。
胸に去来する漠然とした不安が、二人にそんな思いを抱かせるのだ。
(いつまであたし、お兄のこと、普通に見ていられるだろう)
ネリスは海の照り返しが眩しいというように顔をしかめ、頼りない表情になりかけたのをごまかした。
風車小屋を出てから今日この時まで、あまりに多くの変化がありすぎた。ほんの一年ばかりの間だというのに。
(いつまであたしたち、お兄の家族でいられるんだろう)
ネリスはぎゅっと奥歯を噛みしめると、小さく、しかし強く頭を振って、不安から逃げるように桟橋を駆けていった。




