2-9. いくつもの気掛かり
「本当に狭いね」
マックが呆れるほど、従者用の個室はちんまりとしたものだった。とはいえ、造りつけのベッドは下が物入れになっているので、わずかばかりの衣類や身の回りのものはすべてそこに納まってしまうし、あとは小さな書き物机がひとつあるだけなので、空間は――散らかしさえしなければ――充分にある。
三人はベッドや腰掛に適当に座り、さて、と向き合った。
「先におまえの話を聞こうか、フィン。セナトの前じゃ話せないことか?」
「ああ。少なくとも今はまだ、な。セナト様が戻られたから、俺たちが皇帝や将軍と約束した“協力”も終わりだ。装備を整えて食糧を調達したら、船でコムリスへ向かって、そこから……北へ帰る計画なんだ」
「北って、まさかナナイスへか!?」
「まずウィネアに寄って様子を確かめてから、少しずつ、だけどな。いきなりナナイスまで到達したとしても、維持出来ない。今はアンシウス司令官が、第八軍団とウィネア市民をまとめている筈だが、ウィネアの外は無法地帯だろう。それで……俺たちと一緒に、イスレヴ評議員が来てくれると言っている」
「新総督として、ってことか。議会や皇帝は承認したのか?」
「いや、まだだ。だからセナト様には聞かせたくなかった。彼から皇帝に話が伝われば、議会を飛び越えて皇帝に総督の地位を頼んだ、と反感を買いかねないだろう? いくらそれが、荒れ果てて何の旨味もない辺境の土地であってもな。第一、皇都の議員達は北の実情を知らないんだ」
フィンが厳しい表情で言うと、タズは曖昧な顔で頭を掻いた。
「……なるほどね。で、つまり……俺にどうしろって?」
「いや、何か頼むつもりじゃない」フィンは微笑した。「ただ知らせておきたかったんだ。その気があるなら一緒に来て欲しいが、セナト様の信頼を得られたのなら、彼を支えるのも大切な役目だしな」
「信頼されてるってより、安く見られてるだけって気がするけどな。うーん……まあ、考えておくよ。けど、北は闇の獣とか以前に、かなり治安が悪そうだぞ」
「だからこそ、戻らないと」
強い意志を込めて言ったフィンに、タズは気持ち一歩引いたような目を向けた。まるで、幼馴染が自分とは全く違う道に迷いなく突き進んで行くのを、止めるべきか共に行くべきか、逡巡しているように。
「おまえはそうだろうな」
どうにかそう言ってから、彼は無意識に小さく咳払いして、場の雰囲気をごまかした。
「でもその前に、こっちの事情もちょっと聞いといてくれ。本国側だって思ったほど安定したわけじゃないんだ。セナトん家に、変な爺さんがいてな。これが魔術師だってんだよ。ああ、そんな顔するなよ。いんちき手品師の類じゃないんだ、これが」
「本物だという確証があるのか?」
「魔術を使う現場は見てない。けど、なんかこう……変な気配がするんだよ。明らかに胡散臭いしな。ナクテの館に行った時、ものすごく空気が重苦しかった。暗くて淀んでて、なんていうか……あれは、絶対に何かがいたんだ。館全体が、影にとりつかれてるみたいだった」
珍しく陰気な表情になったタズに、フィンは眉をひそめる。マックも警戒の面持ちになり、声を低めて言った。
「俺達、クォノスで領主の方のセナト爺さんに会ったけど、確かに変だったよ。それに、兄貴に渡そうとした剣……あれ、魔術で作られたものだったんだろ?」
「ああ。作られたのは多分、大昔だろうけどな。ただ、魔術の技が今も伝わっている可能性はある。セナト侯にもルフス殿にも暗い影が見えたし、何か関係があるのかもしれない」
「影? おまえも何か見たのか?」
タズが不審げに問うたので、フィンは竜の視界について簡単に説明し、
「見えるからって正体までは分からないのが不便なんだが」
と言い添えた。だがタズの方は途端に表情を明るくし、ほっと息をついた。
「そうなのか、良かった! いや実はな、その怪しい魔術師の爺さん、皇都まで連れて来てるんだ。館に置いといたんじゃ、セナトのお袋さんに良くないに決まってる、ってんでさ。で、本当に危ない奴だったら噂の竜侯様がなんとかしてくれるだろう、って勝手に決めてたんだけど……そんなら、いっぺん会わせたら分かるよな」
「まあ、多分な」
「よっしゃ! これで気掛かりがひとつ片付いた!」
ぱしんと手を打ち鳴らしたタズに、フィンは思わず微苦笑した。竜侯の不可思議な力についてあれこれ言うでもなく、あっさり受け容れて、しかもそれを良い方に捉えるとは。些事にこだわらないところは、昔から変わらない。
「俺に出来る事なら協力しよう。ほかにも気掛かりがあるのか?」
「あ……うん、ああ」
と、いきなりタズは視線を落とし、言葉を濁した。言いにくそうに頭を掻き、しばしためらってから、気遣わしげに口を開いた。
「その……な。俺達、少しの間だけど、オルゲニアの大森林にいたんだ。フィダエ族の村で、世話になった」
「あの伝説の?」
「まさに、その伝説の王様にも会ったよ。あの森はさ、何もかもから逃げて身を隠したいと願う人間を、迎え入れてくれるらしいんだ。で……」
そこまで言い、また曖昧に口をつぐむ。それから彼は、わざとらしく口調を変えて続けた。
「その前に訊くけど、おまえさ、コムリスにいた時の仲間、全員こっちにいるのか? オアンドゥスさんとか、テトナの軍団兵だったっておっさん達とか」
「え? ああ、まあ……ほぼ全員、かな。誰も死んだり怪我したりはしていないよ。コムリスで一人抜けたが」
「一人?」
「街で知り合った人が南に引っ越すっていうから、その護衛を兼ねて一緒に行ったんだ。テトナから連れてきた子も一緒に」
「……ファーネイン、だったよな」
ああ、とフィンが答えると、タズは深いため息をついた。その暗い表情に、フィンは理由を察して息を飲む。マックが「まさか」とつぶやいた。
「ファーネインに……会ったのかい?」
かすれ声の問いかけに、タズは無言でうなずく。マックはさっと青ざめ、タズに詰め寄った。
「そんな、どうして! ファーネインはニクスとオリアさんと一緒に、安全な村に行ったはずなのに!」
「俺も事情は知らない。聞き出せなかったんだ。まともに話の出来る状態じゃなかった」
「――っ!?」
フィンがわななき、身をこわばらせる。言葉を失った二人に、タズは痛ましい目を向けて、ぽつぽつと説明した。
「顔の半分が、酷いことになってた。何とかネラさんが引き出した答えでは、お兄さんもお姉さんもいつの間にかいなくなっていた、ってことで……だから俺、おまえに何かあったんじゃないかって心配したんだ」
「…………」
フィンはぎりっと奥歯を噛み、拳を握り締めて床を見つめていた。怒鳴り、喚き、絶叫したい衝動を全力で抑え込む。
(俺は何事もない、怪我ひとつなくここにいる! 守ると誓った子供を見捨てて――何が竜侯様だ!!)
出来ることなら自分を殴り飛ばしてやりたかった。ナナイスで家族を残して行くと勝手に決めた時と同じ、都合の良い想像で安心しようとした、過去の自分を。最後まで責任は持てないというネリスの言葉を免罪符にして、自らの身を守れない無力な幼子の手を離した。
「兄貴が悪いんじゃない」
強い声が、泥沼にはまりかけたフィンの思考を引き戻した。マックが彼の腕を掴み、まっすぐに目を覗き込む。
「あの時は、誰が考えたってオリアさんと一緒に行く方が安全だったろ? 実際、サルダ族の村にファーネインが来ていたら、軍団兵の襲撃があった時に殺されていたかもしれないじゃないか。兄貴、ウィネアに入る前も言ったよな。チビどもが連れ去られた時に。『俺は自分に出来る限りのことをした、だからって責任がないわけじゃない』って。確かに、あれがその時の自分の限界だったと言えば、何もかも許される、ってわけじゃないさ。だけど兄貴、現実を見てくれよ。何もかもを背負える人間なんていないんだ! たとえそれが竜侯で、人より力があるとしたって!」
叫ぶような訴えに、フィンは驚き、目をみはった。マックの切実な思いが渦を巻き、心に流れ込む。
そんなに一人で背負い込まないでくれ、いつか倒れてしまう、せめて自分にも少し手伝わせてくれたらいいのに……
いたわりと悔しさの入り混じる底に通じるものは、深い信頼と好意だ。フィンが絶句していると、代わりにレーナがそっとマックを抱きしめた。
「マックはフィンが大好きなのね」
「……レーナも何とか言ってやってよ。何でもかんでも自分なら何とか出来たはずだと思うなんて、神様にでもなったつもりか馬鹿、とかさ」
恥ずかしいのか、マックはぶっきらぼうに言ってじろりとフィンを睨む。タズが大袈裟におどけた声を上げた。
「あーあ、俺が言おうと思ってたのに、全部言われちまった。しょうがないな、尻馬に乗っとくか。やーい、バーカ、バーカ」
「おまえな……」
フィンは呆れ、それから参ったと苦笑してしまった。やれやれと頭を振り、マックの腕をぽんと叩く。
「ありがとう。そうだな、ちょっと思い上がっていたかもな」
「べ、別に、兄貴が傲慢だって言いたいんじゃないよ」
「ああ、分かってる」
フィンはにこりとして、うなずいた。マックがほっとした様子で肩の力を抜き、タズもこっそり、ふうっと息を吐いた。二人の緊張が解けたのを確かめてから、フィンは真顔に戻って言った。
「だが、放置しておくわけにはいかない。少なくとも、今から出来ることをしなければ」
「ええっ!? まさか大森林へ迎えに行くつもりかい!?」
「おい止せよ、いくらおまえでもあの子を連れ出すのは無茶だぞ!」
即座に二人が猛反対する。フィンは軽く手を上げてそれをなだめ、タズに向き直った。
「そのことを訊きたかったんだ。タズ、ファーネインは大森林で安全だったのか? 誰かが世話をしてくれていたのか」
「安全も安全、今の帝国じゅう、どこを探してもあそこより安全な場所はないだろうな。世話もフィダエ族がちゃんとしてくれてたし、怪我はもう治ってた。ただ、傷痕は酷かったし、他人にものすごく怯えて、フィダエ族にさえ近寄ろうとしなかったけど……それは、時間をかければ良くなると思う」
「そうか。それなら、当面はそっとしておく方がいいだろうな。物事にゆっくり時間をかけられるような場所が、ほかにあるとは思えない。ただ……そうなると、気掛かりなのはオリアとニクスだ」
「兄貴……」
勘弁してくれよ、とばかりにマックが呻く。フィンは彼の前髪をくしゃりとかきまわして、詫びるように小さくうなずいた。
「幸い、俺だけならレーナと一緒に西へまっすぐ飛んで行ける。消息を尋ねながらあちこち行ったり来たりしても、さして時間を食わない。皇都での用事を片付けたら、先に発つよ。おまえはヴァルトや皆と一緒に、当初の予定通り船でコムリスに向かってくれ」
「それ、もう決めちまったのかい? 俺も連れて行く気は?」
「悪いな。出来るだけ身軽に動きたいんだ。それに」とフィンは言い足し、共犯者の笑みを浮かべた。「ヴァルトやネリスには、ちゃんと手綱をつけられる人間が必要だろう」
「……まあね」
渋々ながらマックが同意すると、タズが口を挟んだ。
「今日明日ってんじゃないだろうな。俺の方の用事も忘れないでくれよ。それにセナトの相手もしてくれねーと、あのガキんちょにぎゃいぎゃい文句言われるのは俺なんだからさ。頼むぜ」
「分かってる。皇帝にも挨拶しておくべきだろうし、片付けと準備はきちんとしてから発つよ。おまえとも、一度ぐらいゆっくり話したいしな」
「おっ、昔の仲間も見捨てずにいてくれて嬉しいね」
タズがにやりとすると、フィンも珍しく皮肉な笑みを浮かべた。
「見捨てようにも、おまえはいつだって俺を引きずり込むじゃないか。言っておくが、俺は連座させられてばかりで、首謀者だったことは一度もないんだからな」
「ええ!? そうかぁ? 嘘だろう、全部俺のせいかよ?」
「ああ、そうとも」
しれっとフィンが応じ、そんな筈ないだろう、とタズが食い下がる。マックは少し羨ましそうにそれを見ていたが、二人の応酬がやむと、おもむろに口を開いた。
「今回も、タズが首謀者ってことになるのかな」
「ん?」
二人が揃って怪訝な顔をする。マックはいたって大真面目に続けた。
「兄貴が一人で別行動することにした、ってこと、ネリスにどう説明するのかと思って」
「…………」
フィンとタズは同時にウッと石を飲み込んだように呻き、無言のまま、お互い途方に暮れた顔を見合わせる。もちろんマックは、困り果てている二人に助け舟を出そうとはしなかった。




