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灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
93/209

2-7. 評議員イスレヴ


 凍てつく風が耳を切り刻んで走り去る。人は皆、亀のように首を竦め、赤く凍えた指先に息を吐きかけながら、一刻も早く屋内に逃げ込もうと通りを急いでいた。

「こんな日にお使いとは気の毒なこったな、兄ちゃん」

 八百屋の主が芋や菜っ葉を手渡す。フィンはそれをロバの籠に入れながら、肩を竦めておどけた。

「権威には逆らえなくてね」

「ちょっと!」即座に横のネリスから抗議が上がった。「人を暴君みたいに言わないでくれる? しょうがないでしょ、皆して風邪ひいちゃったんだから!」

「ああ、そうだな」

 同意しながらも、フィンは店主に向かってほらなとばかりの目配せをする。店主が同情的に苦笑し、「そりゃあ、しょうがねえな」とうなずいた。

 ネリスがフィンの足を蹴飛ばし、ロバの手綱を引いて歩き出す。フィンは代金を払ってから、大袈裟に片足をひょこひょこさせて後を追った。

 二人とも、長らく着たきりだった普段着を新調し、皇都の暮らしに溶け込んでいた。最初はひっきりなしにやってきた訪問者も、竜侯様がほとんど留守か居留守のため、じきに諦めてくれた。有力者達は何かと忙しいのだ。そうなるとフィンの正体は、剣を持たない限りばれることもなく、平穏無事に街を歩けるようになった。

 街を隅々まで探索し、今の八百屋のように安い食料品店も見つけた。天竜隊は一軒の共同住宅を借り切って生活しているので、基本的に自炊なのだ。宿屋に泊まることも考えたが、滞在期間が長いと費用が相当かさむ。節約を心がけないと、借金取りに首輪をはめられて、北へ帰るどころでなくなりそうだった。

「本国の冬は暖かいと思ってたけど、やっぱり寒い日もあるんだね。風が強くてカラカラに乾いてるのが、たまんないよ。あかぎれ用のクリームがどんどんなくなってっちゃう」

 ひときわ荒々しい風に吹かれて、ネリスがぎゅっと顔をしかめる。フィンはぽんぽんと頭を撫でてやり、同時に少し光を注いで守ってやった。

〈人間は皆、寒いと縮こまるのね。いっぱい服を着ているけれど、やっぱりそういうところはほかの生き物と同じなのね〉

 レーナが興味深げに言った。人間の多さに慣れてきたこの頃では、フィンを通して街の暮らしを観察し、毎日新しい発見をして喜んだり驚いたりしている。流石にまだ人前に姿を現すことはなかったが、そのうち、自分で買い物をしたりしてみたい、などと言い出しそうな雰囲気だ。

 フィンはレーナの感想にちょっと微笑み、周囲を見回した。

 皇都の中でも下町の様子は、少しナナイスと似たところがあって親しみを感じさせた。鼻と頬を赤くした子供達が、この寒いのに戸外で遊び、喚声を上げている。公共水道の周りでは、主婦らしき数人が野菜を洗いながら、ぺちゃくちゃとご近所の情報を交換中。店先には、買い物ついでに仕事や家庭の愚痴をこぼす男の姿。

 一年ばかり前までは、ナナイスでも見られた光景だった。そこにあるのが当たり前の、気にもとめない景色。

 フィンは小さく息を吐いて、沈みかけた気分を立て直した。いずれまた、北でもこの風景が普通になる日が来る。きっと。

(頑張ろう)

 彼は自分に言い聞かせて顔を上げ、ふと、行く手にある人だかりに気付いた。おや、と歩みを止めたフィンの横で、ネリスも小首を傾げる。

「なんだろう? 揉め事じゃなさそうだけど、安売りでもしてるのかな」

「どっちでもなさそうだぞ」

 フィンは苦笑気味に答え、ゆっくり歩き出した。人だかりの中心に見える、強い色彩の光が彼の興味を引いた。ネリスやマックのようなきらめきとは違う。眩しいほどでもない。だが何かがくっきりと際立っていて、その他大勢とは違うと分かる。

 じきに、そこにいる男が見えた。身なりは質素だが、上着の裾に真紅の縫い取りがあった。評議員のしるしだ。取り囲む市民が口々に訴えかける言葉に、ふむふむと相槌を打ちながら耳を傾けている。

「……なるほど、よく分かった。その件については明日にも議題に取り上げよう。だが、皇帝陛下の財布も無尽蔵ではないのでな。窮状は良くわかるが、しばらくは皆が助け合って暮らしを支えて欲しい」

 言葉だけのごまかしではない、真摯な共感のこもった声だった。灰緑色の目は穏やかに一人一人を見つめ、視線をそらさない。

「自分だけが儲けよう、楽をしよう、抜け駆けしよう、と考えている限り、誰もが足を引っ張り合うだけだ。余裕のある者もない者も、自分に出来る範囲で皆のためになることをし、取引は公正に、品物に見合った価格でせねばならん。人を蹴落としていては、今の苦境を乗り切ることは出来んよ。いいかね、最後に頼れるのは家族や隣人だ。互いに手を取り合って、どちらかが転げそうになっても、しっかり握って引き戻してやりなさい。そうする限り、少しずつでも前へ進んで行ける」

 穏やかに諭されて、男も女も、老いも若きもしんみりと聞き入っている。

「本当にそう出来ましたらねぇ、イスレヴ様」

「でもイスレヴ様、そしたら儲けちゃなんねえってことですか」

「いやいや、そうは言っておらんよ」イスレヴは苦笑した。「必要な稼ぎは手に入れたまえ。だが欲をかいてはいかん。特に、誰かを食い物にするような商いは良くない」

「ねえねえ、あたしいつもお外では弟の手を引いてるわ。いいことよね?」

 幼い少女が真剣に問い、イスレヴが目を細めて偉いなと褒めてやる。まわりの大人たちが微笑んだ。

 フィンとネリスは珍しいものを目にした気分で、ほけっと立ち尽くしていた。やがてイスレヴが話を切り上げ、皆に仕事に戻るよう促して、自分も座っていた店先の樽から腰を上げた。上着の前をかきあわせて肩をすぼめ、おお寒、とつぶやいて、手を振る子供に笑顔を返す。

 そうなって初めて、彼が一人であることが分かった。評議員は大概、秘書のほかにも仲間の議員や取り巻きの市民を引き連れているものだが、イスレヴには誰もいない。

(もしかして、皇帝が俺に会わせたいと言っていたのは)

 彼のことではなかろうか。フィンはそう思い当たって、まじまじとイスレヴを見つめた。向こうもフィンの視線に気付き、おや、というように軽く目礼した。

「知り合い?」

 ひそっ、とネリスがささやく。フィンは首を振った。会ったことはないはずだ。だがイスレヴの方はフィンを見知っていた。ゆっくり歩み寄り、ごく自然に片手を差し出す。

「お初にお目にかかる、竜侯フィニアス殿。私はイスレヴ=フォルサナ=カエリウス、評議員を務めております」

「初めまして。堅苦しいのは勘弁して下さい。私は元々ただの粉屋なので、作法には疎いんです」

「ああ、ヴァリス様から聞いているよ。ナナイスの出身だそうだね。どうだろう、少し向こうの話を聞かせて貰えないだろうか」

「それは構いませんが……」

 買い物の途中だし、こんなところで立ち話をしていたら凍えてしまう。フィンが言葉を濁すと、イスレヴは察してうなずいた。

「帰るところかね。では私も一緒に散歩するとしよう。そちらは妹さんかな」

 穏やかな笑顔を向けられて、ネリスは慌ててぴょこんとお辞儀をする。

「はい。ネリスです、初めまして」

「ああ、宜しく。君のようなお嬢さんがここまで来るまでには、色々と苦労もあったろう。私で力になれることがあれば、何でも言ってくれたまえ」

「ありがとうございます」

 ネリスは恥ずかしそうに礼を言って、うつむいた。お嬢さん、などと丁寧に呼びかけられたことは、今までほとんどなかったのだ。フィンはちらっと面白そうな表情をしたが、あえて口は挟まなかった。

 一緒に歩きだしながら、イスレヴが改めてフィンに問うた。

「それで、北方はどんな様子だね」

「我々が北方を離れたのは秋のことでしたから、それ以後はどうなっているか、はっきりとは分かりません。ですが、ウィネアより北の町や村は、闇の獣に襲撃されてほぼ壊滅状態でしょう。ウィネアも、軍団がカルスムへ移って留守にした間に、被害を受けていると考えられます」

「ふむ……明るい知らせは全くないようだな」

「かろうじてコムリスは無事でした。あそこまでなら本国側からの船も来ていましたし、近隣の農地も、少なくとも葡萄の収穫が終わるまでは守られていました」

「では、北方奪還の手始めはコムリスからウィネアへ進むのが良いかね」

 さらりと言われたので、フィンは思わず「そうですね」と同意し、その後で目をぱちくりさせてイスレヴを見た。

「……まさか、議員」

「名前を呼んでくれて構わんよ。うむ、私も君達と共に北へ戻ろうと考えておる。皇帝陛下にはまだ相談しておらんのだがね。皇都で少しでも辺境に目を向けろと叫び続けるのも大切な仕事だとは承知しているが、ここまで届く噂の断片から察するに、北方を立て直すには政治の分かった人間が一人は必要だろうと思えてな」

 イスレヴはそう言って、フィンの懸念顔に苦笑を見せた。

「皇帝陛下の目に成り代わって、君達の動向を見張るというわけではないよ。心配しなさんな。君がその力で闇の獣を退け、街を守ったとしても、同時にどうやって人々をまとめ、導いて行くつもりかね? 身の安全が確保されたら、統率者のいない集団がどんな騒ぎを起こすか想像がつくだろう。私なら、肩書きも経歴もある上に、北部出身者であるから抵抗も少なかろうよ」

 その口調はあくまで淡々としていた。言いくるめようとするでもなく、本心をごまかそうとするでもなく。フィンは歩みを止めないまま、イスレヴの横顔をじっと見つめた。相変わらず彼を取り巻く色彩は、深く、かつ澄んでいる。フィンは慎重に口を開いた。

「あなたが権力欲しさに言っているのでない事は、分かります」

 ほうそうかね、とばかりイスレヴが眉を上げる。フィンは無言の揶揄に動じず、続けた。

「でも、どうしてですか? 北は危険だし、あなたを誤解する者もいるでしょう」

「やらねばならんからさ」

 イスレヴはひょいと肩を竦めて、あっさりと応じた。

 必要とされている、誰かが負わねばならない役割。自分が果たせると考えられる務めが、そこにある。だから手にするのだ、と、何の気負いも遠慮もなく言ったのだ。

 フィンは驚きに絶句しつつ、以前ヴァルトと交わした会話を思い出していた。

(そんな奇特な人がいたら、一緒に北へ戻って篝火の番をするよ)

 あの時はただ、ヴァルトの懸念を杞憂だといなしただけのつもりだった。実際、危険で貧しくて、いまや支配するだけの価値もない北部に君臨しようなどとは、豊かな本国の誰が考えるものか、と呆れていたのだ。

 だがまさか、利得を抜きにしてその仕事を引き受ける酔狂な者がいようとは。

「……状況は厳しいですよ」

「承知の上だよ。でなければ、老骨に鞭打ってまで何とかせねばと考えたりはせんさ」

「あなたを守りきれないかもしれません」

「君は評議員の大部分が軍団経験者だという事実を忘れているな? 実戦を離れて久しいのは認めるが、乳母(おんば)日傘で育ったひょろひょろの青二才とは違うぞ」

 イスレヴの決意は固いようだ。フィンは半ば彼の申し出を認めながら、最後に念のため、不愉快なことを告げた。

「この話をしたら、あなたを偽善者と呼びそうな仲間が確実に一人はいますが」

「ははは、正直だな君は!」イスレヴは残念がるどころか、笑い飛ばした。「偽善者呼ばわりには慣れているとも。気にせんよ。彼らは往々にして偽善という言葉の意味もよく分からずに使っておるのさ」

「意味、ですか?」

「うわべを繕わんがための善行を偽善という。私は何も取り繕ってはおらんよ。ましてや、隠し立てもごまかしもしておらん。下心があると見るのは、その者が同じ事を成せば偽善になるからだろうさ。言いたい者には言わせておけば良い。私はただ、己の信念に従って動くだけだ。君も気にするな。偽善ではないと言い張れば言い張るほど、相手の疑いを深めるだけだぞ」

 善意や信念を疑われて悔しい思いをしたこともあろうに、イスレヴの声に遺恨はない。フィンがまだ経験していない険しい峠を、既に乗り越えた者の余裕なのだろうか。

「参りました」

 フィンは両手を挙げて降参し、うなずいた。

「仲間にあなたのことを話しておきます。お山の大将になれなくて悔しがる者もいると思いますが、本気ではありませんから背後の心配は要りませんよ」

 多分、とおどけて付け足したフィンに、イスレヴがからから笑う。それから彼は思い出したようにネリスを振り返った。

「お嬢さんは構わないかね。むさくるしい年寄りが一人増えるが」

「イスレヴ様はむさくるしくないですよ。うちの何人かに比べたら、もう、全然」

 ネリスは日頃の憤懣をこめて大真面目に答え、それから少し申し訳なさそうに続けた。

「それに……こんなこと言うのは恥ずかしいんですけど、イスレヴ様はお金持ちですよね? 少なくとも、あたし達よりは。だったら、北に向かう船を探すのも楽になるし、助かります」

「これはこれは。しっかりしたお嬢さんだ」

 屈託なく言われて、ネリスとフィンは揃って顔を赤らめた。何かとやりくりに苦労することが多いだけに、懐が温かい人間の鷹揚さに触れると少し居心地が悪い。

 フィンはごまかすように視線をそらして、ふと大通りの賑わいに気がついた。常に混雑している通りではあるが、今日は何やら雰囲気が違う。

「誰か帰ってくるか、出て行くんでしょうか」

 皇帝やグラウス将軍が都を出入りするという話は聞いていない。フィンの知らない有力者だろうか、と思ったのだが、意外な答えが返ってきた。

「お兄、少しは噂にも気をつけなきゃ駄目じゃない。今日は小さいほうのセナト様が、皇都に戻られるんだって。これで皇帝陛下との養子縁組が紙の上だけじゃない事実になる、後継者の心配がなくなって一安心だ、って皆喜んでるよ」

 ネリスが呆れ、イスレヴが苦笑する。フィンは小首を傾げて曖昧な顔になった。

「戻られる、か」

 無意識のつぶやきに、イスレヴも、うむ、と小さく唸ったきり黙りこむ。

 未婚の皇帝の養子に西の有力者の孫がなることで、情勢は多少なりとも安定するだろう。それ自体は喜ばしいことだ。しかし、小セナトの心中は如何ばかりだろうか。これで安全だと一息ついているか、それとも望まぬ場へ連れ戻されて義務の重さにうなだれているか。

 イスレヴがこほんとひとつ咳払いした。

「では私もそろそろ戻るとしよう。小セナトが王宮に入ったら、じきに皇帝からお召しがあるだろうからな。君も戻って用意しておきたまえ」

「あ、はい」

 イスレヴが軽く手を振って立ち去ると、ネリスが大通りを見やって、ぽつりとつぶやいた。

「あのセナト様の孫って、どんな子かな」

「じきに分かるさ」

 フィンは答え、ふと悪戯心を起こしてにやりとした。

「格好良かったら教えてやるよ」

「あたし、年下に興味ないから」

「…………」

 一蹴されてフィンが鼻白む。ネリスはぷっと吹き出すと、「馬鹿」と一言からかって、さっさと歩き出したのだった。


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