2-5. 迫り来る敗北
天竜隊の面々が皇都で手持ちの武器を修理したり、新しい防具や防寒着を仕立てたりしている間に、ノルニコムでは戦線がじりじりと東へ移動していた。
エレシアはデウルムでの敗北後、矢の届く距離にまで近付けず、実質的に無力化されていた。受けた矢傷はゲンシャス同様すぐに癒えたが、精神には、死の危険を思い出すに充分以上の深刻な傷が残った。
安全な距離を保とうとすれば、馬や人に、行動を乱すほどの威圧感を与えられない。炎を操る力にしても、豆粒のような人間を標的にしては上手く使えなかったし、敵味方がぶつかり合ってしまうと、もはや手を出せなかった。
グラウスの側はクォノスからの援軍が合流し、物資も人員も充実している。行軍中にいきなり足元から炎が立ち上ることはあったが、砂や水ですぐに消せる程度でしかなかった。むろん火傷は負うが、グラウスを火柱にしたあの一撃を目にしている兵達にとって、その程度の炎は、用心すべきものではあれ恐怖の対象ではない。
ノルニコム軍も善戦はしたが、しかし後退に次ぐ後退を余儀なくされ、一月も経つ頃にはとうとう本拠地ロフリアまで押し戻されてしまった。その頃には死者と脱走者とで、兵の数も半減していた。
「ついにここまで来てしまいました。力及ばず、面目ございません」
マリウスが疲労をにじませて言う。エレシアは険しい目で西方を睨み、唇を噛んだ。ここまで押し戻されたのは、マリウスの采配が悪かったからではない。むしろ彼のおかげで、自軍の被害は抑えられているほどだ。原因は別にある。
竜の力に頼るあまり、それが役に立たなくなった途端、総崩れになった自軍の弱小さ。予想通りとはいえ、皇帝に与したまま裏切る気配のない第四軍団。それにもうひとつ――。
「そなただけの責任ではないわ。ドルファエのセニオンを当てにしたのが間違いだったわね」
ノルニコムの北、ドルファエ人が遊牧生活を営む草原で、ノルニコムに近いところに住む部族がある。長はセニオン。エレシアは彼に密書を送り、手を結んでいたのだ。セニオンは、エレシアの軍がティオル川を越えるのに同調して、北にある第一軍団の砦を攻撃してくれた。おかげでエレシアたちは、後顧の憂いなくデウルムまで進撃できたのだ。しかし。
「遊牧の民をひとつ所に長く留めるのは難しいと、よく分かりました」
マリウスも無念そうに同意した。
戦利品を奪うだけ奪ったら、セニオン達は早々に引き揚げてしまったのである。第一軍団がグラウスの元に加われない程度には痛めつけてくれたが、エレシアの窮状を知っていように、手を貸そうかと言っても来ない。
むしろ手を差し伸べたのは、諦めの悪いグラウスの方だった。考え直す気はないか、と再三使者を寄越すありさまは、竜侯セナトの変節を警戒して早く戦を終わらせたいからだと理解していなければ、求婚でもする気かと疑いたくなるほどだ。
かつて竜眼が置かれていた楼に立ち、エレシアはロフリアを見渡した。街を囲む城壁の外に、蟻の行列のように細く続く封鎖線。あのどこかに、グラウスがいる。
ロフリアは高台に築かれた都市であり、西側、すなわち帝国に面した部分は断崖になっている。東側を守れば防衛は容易だが、今はただ、なす術もなく閉じこもっているにすぎない。グラウスは積極的に城攻めを行わず、補給を断ってじっと降伏を待っているのだ。
エレシア単騎であればゲンシャスと共に封鎖を飛び越える事が出来るが、一人で運べる物資などたかがしれているし、どのみち、近場の村や町にはグラウスの兵が待機しているだろう。遠方へ救援を頼もうにも、既に大半の物資兵力が今回の進軍に供出されている。グラウスの封鎖を突破し、戦況をひっくり返せるほどの兵は、ノルニコムのどこにも残っていない。
(それを強いてかき集めようとすれば、本国の支配の方がましだ、ということになってしまう)
エレシアは唇を噛んだ。かつての粛清で殺されたのはロフルス竜侯一門に連なる名家の人間と、それに仕えるなかでもきわめて重要な者達だった。深刻な損失であったが、しかし、一般の市民らに直接の被害が及んだわけではないのだ。
(今は良い。わたくしの仇討ちにも、本国からの独立という旗印にも、皆、諸手を上げて賛同してくれる。ノルニコムの誇りを取り戻せ、と叫べば歓呼で答えてくれる。けれど)
それは、安全地帯からの応援にすぎない。自らが血を流すとなったら、果たして――
「最近は考え込んでばかりだな」
楼の屋根がぎしっと鳴って、上に竜が姿を現した。しばらく戦場での出番がなくて、退屈そうだ。くあ、とこれ見よがしに欠伸などして見せる。
「絆を結ぶほどの人間が現れず、父祖のように思うさま燃え上がることも出来ぬまま、長らくくすぶっておったのが、ようやく動き出せたかと思いきや」
「もどかしいのはわたくしの方よ、シャス。真の竜侯となったからには、と勇み立ったにもかかわらず、何ひとつ思うように行かないのだからね」
手厳しく言い返したエレシアに、ゲンシャスは肩を竦めるような気配を送って寄越した。
「我とて炎竜、燃え盛ることの出来ぬ歯痒さは同じよ。だが致し方あるまい、我はかつての大戦で人間と共に戦った父祖の技を身につけてはおらぬし、おったところで、同じ方法では戦えぬ。世界を揺るがすような方法ではな。それに人間達!」
感嘆と辟易の入り混じるため息をつき、ゲンシャスは頭を振った。
「あの変わり身の速さには敵わぬ。ついさっき怯えていたかと思えば、瞬きひとつの間に、矢の雨を射かけて我を追い立てる。あまりに目まぐるしい。我らふたり共、あの人間達より戦いに不慣れだという点は、認めねばなるまい」
「……ええ、確かにね」
「さりとて考え込むばかりでは、我が炎も燠となってしまうぞ。再び熾すのが大仕事になる前に、解き放たれたいものだな」
「生憎だけれど、熟考すべきことの区別もつかぬほど、頭に血が上っているわけではないわ」
エレシアはそっけなく応じ、顔にかかる赤銅色の髪を苛立たしげに払った。その厳しい横顔を、マリウスが暗いまなざしで窺う。今となっては、考えるべきことはあまり多くない。
いかにして降伏するか。あるいは、いかにして散るか――。
そろそろ己も心を固めるべき時かもしれない。マリウスがそう考えてうつむくと、見透かしたようにエレシアが振り向き、微笑んだ。
「そなたに華々しい英雄の死を贈るつもりはなくてよ、マリウス」
「しかし……」
「そなたは確かに有能な指揮官です。けれど、かつてこの地に居座っていた本国軍の司令官ほどには経験がないのも事実。兵として役に立つノルニコムの民が少ないのも事実。わたくしに……戦の知識が乏しいのもまた、事実です」
淡々と敗北の理由を並べられ、マリウスは何と言うことも出来ず唇を噛む。エレシアはゆっくりひとつ息を吸うと、静かに言った。
「マリウス。先だってそなたには言いましたね。わたくしが害になると判断したなら、迷わず見限りなさい、と」
「――っ! そのお言葉に対する答えは、あの時に申し上げた筈です」
「早まらないで頂戴。ここから身投げでもされてはかなわないわ」
エレシアは軽く笑い、気色ばんだマリウスをいなした。肩透かしをされて彼が困惑すると、エレシアは真顔になって続けた。
「此度の失敗は潔く認めましょう。わたくし達は、あまりに準備不足でした。今は時を稼がねばなりません。膝を屈したと装い、密かに牙を研ぐ時間を。すべてのノルニコム人に、この敗北を恥辱として心に刻ませるのです。愚行だったと諦めさせてはなりません」
「エレシア様……」
「そのために、わたくしは逃げます」
きっぱりと言い切った女主人に、マリウスは思わず目を丸くした。エレシアは眉を上げ、肩を竦める。
「身を隠す、と言い換えても構わないけれど、行動の内容は変わらないわ。良いこと、マリウス。わたくしはゲンシャスと共にここから飛び立ちます。わたくしが囮になって、敵の封鎖を崩しますから、そなたはその隙に、能う限り民を逃がしなさい。女子供を優先的にね。その後わたくしは、傷ついたように装って北へ逃げます。それを見届けたら、城門を開けてグラウスに降伏なさい。わたくしが倒れた以上、復讐にこだわる必要はなくなった、と言って」
「エレシア様がそのような危険を冒さずとも……夜陰に紛れて封鎖を越えられるのでは、いけませんか」
「駄目よ。それではわたくし一人が、民を見捨てて逃げたことになってしまう。むろん、そう装っただけでいずれ戻ってくると噂を流すことは出来るけれど、信じない者もいるでしょう。それに、民が皆殺しにされる危険は残しておけないわ」
「……はい」
マリウスはエレシアの意図を悟り、暗い声で同意した。グラウス本人が怒り任せに市民を虐殺することはなかろうが、皇帝が戦略上必要と判断して苛酷な命を下した場合、彼は従うだろう。ノルニコムの牙を抜くために男を殺し、女を奴隷にするということも考えられる。
そうなれば、城に残る者の辿る道はひとつ。
「マリウス」
エレシアは悲しげに、慈愛をこめて呼んだ。自然とひざまずいた彼の額に、エレシアはそっと優しく唇をつけ、加護を施す。
「生きて頂戴。わたくしが力を蓄えて戻り、ノルニコムの民が再び立ち上がるその日まで」




