2-1.南への旅
二章
「まあ、時季が今でまだ良かったな」
イグロスが言い、ちらりとフィンの家族を見やった。足を引っ張るお荷物が増えたと思っているのか、あるいはただの粉屋でもいないよりはマシだと己を慰めているのか、心情は顔に表れていない。ともあれ文句は言っていないのが幸いだ。一晩過ごした後で彼の態度がどう変わるか、フィンはいささか不安を抱きながらも話を合わせた。
「そうですね。今なら毛皮を着込んで震えながら歩く必要もないし、馬には青草が生えているから山ほど大麦を用意しなくていいし、身軽に動けますね」
実際、ナナイスを含む北部の冬は、じめじめと酷く冷えて、惨めなものだ。夏は過ごしやすいと言われてはいるが、実際に暮らしているフィンに言わせれば、やはり暑いものは暑い。今が青葉の季節なのはまったく幸運だった。
陽射しにはかすかに夏の気配が含まれているもののまだ心地良く、風は爽やか。これで街道の脇に緑の畑地が広がり、野良仕事に精を出す人々がいれば、言うことはないのだが。
フィンは放棄されて荒れ放題の農地や牧草地を眺め、顔を曇らせた。人が生活しているしるしが、どこかで見られるだろうか。それともまさか、ナナイスだけでなく帝国全土がこんな有様に……?
「ねえ、フィン兄ってば」
強い口調で呼ばれて物思いから覚めると、いつの間にかネリスが横に並んでいた。二頭いる馬の片方には荷物を積み、残る一頭には女二人が交代で乗ることに決めたのだが、今はファウナの番らしい。
なんだ、と目だけで問うたフィンに、ネリスはついと上を指差した。その動きにつられて見上げると、鳶らしき影がくるくると輪を描いている。
「不思議なんだけどさ、闇の獣はああいう鳥とかは襲わないのかな。もし奴らが見境なしに何でも喰い散らかすんなら、野兎とかキジとか狐とか、とっくに死に絶えてるはずじゃない? うちのロバとアヒルは、あいつらのご馳走になっちゃったのにさ」
どうやって見分けてるんだろ、とネリスは不満げに口を尖らせる。
「そう言えば、そうだな」
フィンも言われて初めて気付き、ふむと考え込んだ。
闇の眷属が人間に対する猛攻と同じように他の生物をも侵していたなら、人間ほどの自衛能力を持たない他の動物たちがまず姿を消していたはずだ。しかし、こんな状況になる前は、沼地や森で狩人たちが様々な獲物を手に入れていた。キジ、ウズラ、鴨。鹿や猪。ああいう鳥や動物は、闇の獣の攻撃対象ではなかったのだろうか。あの――身も凍る憎しみの。
刃越しに伝わる極寒の憎悪を思い出し、フィンは身震いした。
「もしかしたら、闇の獣たちは……人間だけを憎んでいるのかもしれない。人間と、人間の役に立つ動物……家畜を」
「なんだおまえら、昔話も知らないのか?」
横からイグロスが口を挟んだ。ネリスはたじろぎ、不信と警戒の目で睨みつけただけで、返事をしなかった。ネリスが心持ち兄の方に寄ったのを、イグロスは見逃さなかった。
「やれやれ、嫌われたもんだ。おい、そんなにビクつかなくても俺はガキを泣かせて喜ぶ趣味はねえよ。小娘がぴーぴー叫ぶのは特に耳障りでかなわん」
「…………」
馬鹿にされたネリスは真っ赤になって、目に怒りの炎を燃え上がらせたが、それでも黙っていた。ここで怒鳴れば相手の思う壺だと分かっているのだ。
フィンは軽くぽんと妹の肩を叩いてから、イグロスに問い返した。
「昔話って? 俺たちも一通りは知ってるつもりですが、何か特別な話があるんですか」
「特別ってわけでもないが、闇の眷属が人間を憎むのには理由があるんだ。本当に知らねえのか? 昔々、世界には空と海しかなかった。空を司るのが……」
「そのぐらいは知ってますよ。デイアとアウディアから大地ネーナが生まれて、そこに様々な神々と竜と精霊が生まれて地形や動植物を創り、小人や人間もその時に創られた。やがて夜が来て皆が眠りにつくと、今度は闇の神が夜の生き物を創った」
そうでしょう、と確かめるように、フィンは小首を傾げる。イグロスはうなずき、フィンが知っている素朴で単純な物語よりも、少し詳細な神話を語り始めた。子供向けの“おとぎ話”ではなく、巻物や書物に記された“記録”から学んだと窺わせる内容だった。
創世の業をひと段落させた神々は、それぞれの役割を担い、平和に世界を動かしていった。神や竜、それに精霊たちには、支配欲だの物欲だのといったものはなかったが、彼らが創り出したより小さな生命たちには、そうした欲が生じた。闇の眷属も然り。
「それで、昼と夜の大戦があったんですよね」フィンが合いの手を入れた。
「そうだ」
人間と小人たちが、夜を昼に変え、より多くの時間と土地を己が領分にしようとし始め、闇の眷属はそれに対抗して昼を夜に変えようとしたのだ。
ふたつの勢力は激しく戦ったが、先に知恵をつけた方が勝った。
「それが俺たち人間ってわけさ」
人間はひ弱だったが、それを補う方法を考え出した。精霊や竜を味方につける技、すなわち魔術を。だがそれは世界の基盤を揺るがす行為だった。
「力に目がくらんだ人間と小人は、当初の目的も、ここらでやめとけって良心の声も無視して、徹底的に闇の眷属を叩こうとしたんだ。それでとうとうしまいには、せっかく作り上げられた世界がひっくり返っちまいそうになった。そこで神々はどうしたか。それ以上飛び火しないように、戦の激しい地域を隔離したんだ。無に戻すことも出来たんだろうが、折角作ったもんを捨てるのも勿体ないと思ったんだろう」
「……なんだか適当な言い方」
ぼそっとネリスがつぶやいた。イグロスは眉を上げて大袈裟に驚き、それからにやにや笑った。
「本当のところ、神様の考えは分からんがね。ともかくそんなわけで、ディアティウスの東には天までそびえる山脈が北から南までびっしり生えて、そのふもとから大地が裂けて奈落になり、ようやく人間どもも目が覚めた。けどその頃にはほとんど決着はついていたから、闇の眷属が力を盛り返すことはなかったわけだ。
その後人間は、あまりに危険な魔術の技を自ら捨てた。竜や精霊の方が協力を断ったんだって説もある。ともかく闇の眷属もすっかり弱くなったし、それに慣れた人間は、いろんな王国を作っちゃ攻めたり攻められたりに忙しくなって、かつての大敵もそこらの獣と同じ程度にしか考えなくなっちまった」
「……でも、相手は忘れていなかった。そういうことですね」
フィンが暗い声で締めくくる。何百年、何千年と蓄積されてきた恨みつらみが、形をとって復讐を始めたのだ。生まれて二十年も経たないひよっこが、その一撃を受けて持ちこたえられる可能性など、端からありはしない。痺れるような痛みと悪寒を思い出し、フィンは無意識に右手をぎゅっと握り締めた。
「そう陰気な顔をするなよ、この世の終わりみたいだぞ」
イグロスに茶化されて、フィンは一瞬、笑い事ではないと反駁しかけ、はっと気付いて苦笑でごまかした。
「すみません。俺は物事を退屈にする天才なんです」
死んだ魚と同じぐらいだそうですよ、とおどけて言い添え、ネリスの拳を食らって大袈裟に呻く。なにも今から、同行者に不安と絶望を味わわせることもあるまい。夜を越せば否応なく、彼らにもわかるのだから。
太陽がゆっくりと頭上を通り過ぎてゆく。一行は昼に小休止しただけで、あとは止まらずに歩き続けた。それでも、街道脇にちらほらと家屋の残骸が見られるだけで、村には辿り着けなかった。
陽射しが蜂蜜色になって影が長く伸び、不安も同じように大きくなってきた頃、ようやく彼らは集落を見つけた。――正しくは、その残骸を。
「……これは……」
呆然と立ち尽くすオアンドゥスらを放って、イグロスは無感情に手早く村内を調べにかかった。フィンもそれを手伝う。使える物が残されていないか、壁や屋根が残っている一番ましな家屋はどれか。生存者については望みなど持てなかったし、実際、人はおろか鶏一羽、ネズミ一匹、生きて動くものはいなかった。せいぜい虫だけだ。
「ここだな」
イグロスが厩を調べ終わって言い、フィンも同意した。村の中では唯一、壁と屋根がきちんと揃っている建物だ。敷き藁もいくらか残っていて、きれいな部分を集めたら寝床が作れそうだった。
フィンとイグロスが、床に落ちていた馬と人間の骨を拾い集めて外に埋めた後で、オアンドゥス一家は中に入って二頭の馬をつなぎ、荷を降ろして世話を始めた。ファウナはいそいそと井戸へ走り、馬と人間、両方の為に水を汲んでくる。
外はもう薄暗い。ネリスは急いで角灯を取り出し、火を入れた。ぼう、と明るい黄金色の光が広がる。ただの炎ではない。フィンは驚いて目をぱちくりさせた。
「ネリス、その角灯はもしかして」
「そう、神殿のだよ。フィアネラ様がひとつだけ下さったの。どうせ焚き火はするにしても、雨風に負けない明かりも要るだろうって。それにこれなら、一晩中世話してなくても炎がもつし」
「ありがたいな」
フィンはほっとして、ナナイスの女祭司に感謝を捧げた。交代の見張り番が一人だけになったりすれば、焚き火の世話と獣相手の戦いを同時にすることは難しい。角灯ならその点、安心だ。
むき出しの土の上で小さな火を焚き、ファウナが小鍋で湯を沸かして夕食の用意をした。練った小麦粉を団子にして茹で、戻した豆と少しの野菜を加えて、どうにかそれらしいものが出来ると、一同は落ち着かない食事をとった。
イグロスは兵営の飯より美味いと言ってファウナを喜ばせたが、場の雰囲気はあまり和まなかった。
最初に当直につくのはフィンの役目だった。すっかり手に馴染んだ剣を、抜き身のまま傍らに置く。焚き火はくすぶっていたが、かわりに角灯が厩の中をしっかりと照らしていた。
眠れないと分かっていながら、ネリスやオアンドゥスらが体を横たえる。イグロスは流石に慣れたもので、頭が敷き藁の中に落ちるや否や、もうすやすや寝息を立てていた。
じりじりと時間が過ぎていく。
フィンは、ようやっとネリスたちも眠ったようだと察すると、そっと立ち上がって扉の隙間から外を覗いた。青い光点はない。それどころか、外は青白く明るかった。月夜だ。
フィンは驚き、背後を確かめてから、ほんのわずか扉を開けて外へ滑り出た。清浄な夜気がすうっと胸の奥まで満ちていく。
(そうか)
不意にフィンは思い出した。かつてはこういう夜もあったのだ。
空を仰ぐと、満月が煌々と輝いていた。特に明るい星だけが、深い紫紺の空にぱらぱらこぼれている。
呆けたようにフィンはしばらく立ち尽くし、気付くと自然に両膝をついて、神々に祈っていた。世界にこの美しさを与えてくれたことに感謝し、これが続くようにと願い、この光で行く道を照らして下さいと乞う。この先の夜も光でお守り下さい、と。
口の中で我流の祈りをつぶやき、組んだ手に額を当てて祈ると、気分が落ち着き、ここ数ヶ月なかったほど穏やかになった。もしこの後、また闇の獣が現れるとしても、怖じることなく戦える気がした。