2-1. 黒衣の魔術師
二章
「ネラが母上から聞いた話だと、怪しいのは魔術師なんだって」
廊下を歩きながらひそひそと話すセナトに、タズは胡散臭げに応じた。
「魔術師ぃ? ペテン師の間違いじゃないのか」
「お祖父様を騙せる偽魔術師なんて、いないと思う。本物だよ、きっと」
「だとしたら、まずくないか?」タズは不安げになる。「そいつが原因でこの館が陰気だからって、追い出すのも難しいだろ。相手は……つまりその、本物なわけだから」
「怖いの?」
ずばりとセナトが尋ねたので、タズはしかめっ面になって唸った。恐れるべきものさえ怖くないと見栄を張るほど幼稚ではないが、子供の前で恐怖心を見せたくないと思う程度に大人ではあるわけで。半端な立場そのままに、タズは曖昧な口調で答えた。
「まだそいつを見てもいないんだから、怖いかどうか分かるもんか。ただ、俺はこういうのは苦手なんだよ。なんていうか、手で触ったりすることの出来ない、もやもやした世界の事はさ」
「タズらしいね」
セナトは小さく笑った。一瞬タズは馬鹿にされたのかと思ったが、そういうわけではないらしい。セナトはむしろ頼もしそうに彼を見上げてから、また前を向いて歩き出した。
薄暗く埃っぽい物置部屋の列を抜け、魔術師の住処へと近付く。どんどん暗くなっていくように思えるのは、実際に日が差し込まないからか、それとも先入観のせいだろうか。
ややあって二人は、教えられた半地下の部屋を見つけた。タズが手を伸ばしかけてためらったのにはお構いなく、セナトはノックもせずにドアを開ける。
闖入者の来訪に、部屋の主は振り返って険しいまなざしをくれた。
「誰だ」
凍てついた声が、二人の足を敷居の外側に釘付けにする。だがセナトは勇気を振り絞って、大きく一歩踏み出した。
「そっちこそ、誰だ。ここは私の家だぞ」
尊大に言い放ち、腕組みして室内を見回す。胡散臭げな収集品の数々は、以前フェルネーナを怖がらせたものの、セナトに対してはそれほどの威力を持たなかった。
「面白そうなものが沢山あるな。もちろん、我が家のものなんだろうね」
「……ここは遊び場ではございません。家伝の貴重な品々を預かっておりますのでな」
オルジンが不機嫌に抗議する。セナトは金をちりばめた灰色の瞳で、ひたと魔術師を見据えた。
「その貴重な品々を用いて、館の主に害なすとは、随分と恩知らずだな」
「つまらぬ想像でものを言うのは、女子供の悪癖ですな」
うんざりした声音で応じ、オルジンはさっさと出て行けとばかりに手を振る。セナトの言葉に、いささかも怯んだ様子はない。セナトが唇を噛み、立ち尽くす。タズはぼんやりあれこれを眺めていたが、ふと思い出したように問うた。
「あんたは誰に雇われて、いつからここにいるんだ?」
「…………」
部外者に答える義理はないとばかり、オルジンは疎ましげな一瞥をくれる。だがセナトが答えを待っていることに気付くと、最低限の短い返事をした。
「先の大奥様の命により」
「嘘だ」
即座にセナトが決め付ける。だがオルジンは肩を竦めさえせず、二人を無視して机に向かった。
セナトは苛々と爪先を鳴らし、あれこれ戦略を練るのを諦めて単刀直入に言った。
「ここから出て行けと言ったら?」
「従う義務はございません」
あなたは何の権限も持たない、と切り捨てる口調だった。セナトの頬に血が上る。タズは慌てて彼の手をひっぱり、出直そう、とささやいた。
渋るセナトを部屋の外へ押し出しながら、タズは肩越しに「お邪魔さん」とおざなりな詫びの言葉を投げる。むろん返事はない。やれやれとタズは口をひん曲げ、そそくさと退散しかけて――ふと、首を傾げた。
「そんなに夢中で、何を調べてるんだ?」
半ば独り言だった。だが意外なことに、これには答えが返ってきた。
「失われた過去の力を」
乾いた紙のようなかすれ声だったが、確かにそこには、熱い切望の響きがあった。
タズが簡単に引き下がったのでセナトはおかんむりだったが、お互い、不機嫌の理由は別にあると了解していた。子供一人と部外者では、あの魔術師を部屋から半歩外へ連れ出すことすらかなわない。
「あいつは大嘘つきの、邪悪な魔術師だっていうのに、何も出来ないなんて!」
セナトは唸って壁を蹴った。タズは廊下の天井を見上げて嘆息する。
「まぁ確かにあいつは、ものすっごく怪しいし、あの部屋がこの屋敷を覆う影の源だろう、ってのには同意してもいい。けど、嘘つきかどうかは……」
「嘘つきだよ。先の大奥様、ってことは僕のひいお祖母様だ。そんな大昔からあいつがいたのなら、僕や母上が知らなかったはずがない。なんとかして追い出さないと。お祖父様が帰ってきて、僕が皇都へ行かされる前に」
怒りと焦りで、セナトは小さな唇をきりっと噛んだ。タズは慰めるように、彼の頭をくしゃりと撫でる。
「せめて、おまえの親父さんが味方してくれりゃあな」
と、その発言が聞こえたかのように、行く手から召使が走ってきた。二人が目をぱちくりさせていると、召使は息を弾ませて告げた。
「ルフス様が戻られました! さあ、お出迎えを」
召使が言い終わるのを待たず、セナトは弾かれたように駆け出していた。タズが呆気に取られるほどの勢いだ。慌てて彼が追いかけた時には、もう小さな背中は見えなくなっていた。
タズが玄関ホールに着くと同時に、セナトは歓声を上げて父親に駆け寄っていた。
「父上!」
彼が飛びつくより早く、ルフスの逞しい両腕が息子をつかまえた。幼い子供のように抱き上げられ、セナトは一瞬恥ずかしそうな顔をしたものの、すぐにしっかりと父親の首にしがみつく。
ルフスは何も言わず、強くセナトを抱きしめて、柔らかな蜂蜜色の髪に顔を埋めた。しばらくそうしてから、彼はセナトの頬にひとつ口付けして下ろしてやり、いかめしい顔を取り繕った。もっとも、赤い顔で目を潤ませているとあっては、威厳などあったものではなかったが。
続いてフェルネーナとの、外野が目をそらすほど熱い抱擁を済ませ、それからやっとルフスは旅の埃にまみれたマントを脱いだ。召使がかいがいしく世話をし、居間で火鉢を囲んで皆が落ち着く頃には、ルフスはすっかり主らしくなっていた。
「見違えたぞ、セナト。この一年で、おまえは大人の十年分ほどの経験をしてきたようだな」
ルフスはそれだけ言い、詳しい経緯は尋ねなかった。今、目の前にある姿がすべてを物語っていると言わんばかりに、感慨深げに目を細める。セナトは流石に少し照れた様子で視線を落としたが、すぐに真顔になって切り出した。
「私もこの館を見違えるところでした。母上とネラの話では、怪しい魔術師が原因のようだとか。私もついさっき見てきましたが、あの者を館に置いておくのは良くないと思います」
「……ふむ」
ルフスは否とも応ともつかない、妙な声を漏らす。その反応に、セナトは不安になって言葉を重ねた。つまらぬ想像でものを言う、と、先刻のオルジンの台詞が脳裏をよぎったのだ。
「大袈裟に聞こえるか知れませんが、私は大森林で竜侯に会いました。この世にはまだ、神々の力も、魔術の力も、確かにあるのです。館がこんな状態では、母上を残して皇都に行くことは出来ません」
「案ずる気持ちが分からぬではないが、あの者は義父上が目をかけておられるのだ。あの者が我々に害なしているという証左もなく、放逐することは出来ない。むろん何らかの手は打たねばなるまいが……」
難しい顔になったルフスに、セナトは失望を隠せなかった。あからさまなセナトの態度に、両親が揃って気まずそうになる。
と、そこで、最初に紹介されたきり傍観者になっていたタズが口を開いた。
「とりあえず奥方様から引き離すって方法なら、なくもないです」
「何か思いついたの?」
途端にセナトが食いつく。ルフスの方はもう少し慎重だった。息子の恩人とは言え見知らぬ他人に、まだ信を置けないのかもしれない。複雑なまなざしで先を促す。
タズは三人に凝視されて落ち着かなげに身じろぎしたが、ともかくルフスを味方につけなければと、訴えるように話を続けた。
「俺もさっき魔術師を見ました。簡単に追い払える相手じゃないというのは同感です。ただ、魔術に対する熱意……というか、執着は、とても強いようでした。だから、ここにいるよりもいい条件を与えたら、無理に追い出さなくても、自分から出て行ってくれるかもしれません」
「その条件とは?」
ルフスが問う。タズは、身を乗り出したセナトの方に目をやり、ためらいがちに答えた。
「皇都に連れて行くんです」
「えっ……?」
セナトが目を見開き、困惑の表情になる。ルフスとフェルネーナが眉をひそめた。
芳しくない反応を受けて、タズはちょっと頭を掻いた。
「これはこれで、問題があるってのは分かってます。ただ、セス……セナトが、奥方様のことを第一に考えてあの魔術師をどうにかしたいって言うんなら、こういう手もあるな、と思ったんです。皇都にはきっと、大昔の遺物とか、ここよりも沢山あるだろうから……次期皇帝のお抱え魔術師にしてやれば、ともかくここからは引き離せるんじゃないですかね」
「しかし、それではかえって危険が増すのではないか」
ルフスが顔をしかめた。あの魔術師が邪悪であるなら、みすみす帝国の心臓部に解き放つような真似は出来ない。
タズは、だから問題あるのは分かってますって、と言いたげに首を竦めた。
「かもしれません。でも、とりあえず奥方様は安全になるし、セナトは安心して皇都に行けます。向こうには偉いさんが大勢いるんだから、あの魔術師が本当に危険だったら、牢にぶち込むとか、なんとか出来るんじゃないッスか。それに……今なら、あっちには竜侯もいるって話ですし」
本当かどうかも怪しいし、何が出来るのかも知らないが。
タズは内心そうつぶやいたが、ルフスの反応は予想外だった。眉間にしわを寄せてばかりいたのが、突然、ほっと緊張を解いたのだ。タズがぽかんと瞬きした時には、ルフスはほとんど微笑しかけていた。
「ああ、そうだったな。彼がいるなら、魔術師とて良からぬ画策は出来まい。皇都も安全だろう」
ついさっきまで気乗りしない様子だったのに、いまや全面賛成とばかりうなずいている。タズは呆気に取られ、セナトと目配せを交わした。
「父上は、竜侯と直にお会いになられたのですか。どのような人物でした?」
セナトが問い、タズも、そうだった、と思い出して返事を待ち受ける。ルフスは二人の真剣なまなざしにやや面食らったが、
「誠実な若者だった」
ひとまずそう答えた。それから、二人が到底満足していないのを見て取り、ふむと考えながら説明する。
「黒髪と青い目の、北部人らしい容貌だったな。天竜は……あれはまったく、何とも言い表せぬ存在だ。白く輝く巨大な翼の……ただ、最後に見た時は少女の姿をしていたが。しかし強大な力を感じた。あの竜と竜侯なら、不正や邪悪の存在など許すまい」
「あのっ」我慢できずにタズは身を乗り出した。「その竜侯って、二十歳ぐらいでしたか。体つきは細い方で、顔つきがなんかこう、鋭い感じで。――そうだ、前に会った時、左頬に傷痕が」
「知り合いなのか?」
ルフスが驚きに目を丸くする。タズの方は、もっと大きく目を見開いた。
「そうなんですね!? 本当にあいつなんだ!」
歓喜の声を上げたタズに、セナトも笑顔を向ける。
「すごい、本当にタズの友達だったなんて! すごいや!」
「ああ、良かった、あいつ無事だったんだ!」
手を叩きあって興奮する二人を前にして、ルフスはぽかんと絶句していた。
しばらくして気分が落ち着くと、タズは恥ずかしそうに頭を下げた。
「すみません、はしゃいでしまって。フィニアスは俺の幼馴染なんです。心配してたんですけど……あいつ、無事でいるんですね。それなら良かった」
「幼馴染? 君が?……確かに、貴族の生まれではないと言っていたが」
ルフスはまだ当惑気味に、いまひとつ信じきれない様子で確かめる。タズは気にせずうなずいた。
「あいつとは同じ孤児院で育ったんです。それで、あいつの方は粉屋のオアンドゥスさんに引き取られて」
「そう言えば、そんな名前だったか……」
部隊の庶務を受け持つ、右手の指が欠けた男の姿を思い出す。あれが養父なのか、とルフスは複雑な気分になった。
あの竜侯が粉屋の倅だという事実を、すぐには飲み込めずに苦労する。貴族らしい上品さはなかったが、といって決して下品ではなく、堂々として礼儀正しい青年だった。それが、この、目の前の……いささか粗野な青年の、幼馴染だとは。
複雑な顔をしているルフスにはお構いなく、タズとセナトは勢い込んで今後の相談を進めていた。
「タズも一緒に来なよ。竜侯が皇帝と一緒に皇都へ向かったとしても、僕と一緒なら会いに行けるからさ」
「へえ、気前がいいな。で、代わりに俺にあの爺さんの見張りをしてろって言うんだろ」
「心配しなくても交代制にするよ。それとも、王宮の門番に追い返されてから泣きつく方がいいかい?」
すっかり打ち解け、砕けた言葉を交わすセナトを見やり、ルフスは困惑に目をしばたいたのだった。――もしかして、魔術師より先にこの青年と引き離した方が、息子の為になるのではないか、などと考えて。




