1-7. アクテ攻防戦(2)
同じ風に吹かれて、こちらはただの人間であるグラウスは、ぶるっと震えた。もっとも、寒さだけが理由ではないかもしれない。追い返された使者の報告を聞き、グラウスは厳しい顔をした。
「血には血を、命には命を、か。ヴァリスに何の罪科があるのか……と言うても、向こうにしてみればそれこそ、幼い子供らに何の罪があって殺されたのか、というところだろうな。取り付く島もないとは聞いたが、まさかこれほど苛烈とは」
彼は唸り、使者を下がらせると東の空を睨んだ。
エレシアの言い分は理解できるし、同情を感じなくもない。ヴァリスと彼とて、ゲナス帝暗殺の報復という大義名分の下に、先帝フェドラスを討ったのだ。しかも彼らの場合はゲナスに対する愛情は大してなかったのだから、その分、エレシアの方が報復を求める権利は強いかも知れない。
「しかし、これ以上の進撃は許せん」
口に出して言い、彼は騎馬の一隊に出撃の準備を命じた。偵察が目的の、三十騎ほどの小隊だ。万一に備えて、すぐに援護に出られるよう、別の騎馬隊と歩兵の部隊も準備させておく。
馬でほんのそこまで駆けて行くだけの間に接触するほど、敵の進軍が速いとは考えられないが、しかし何しろあちらには竜がいる。その機動力は未知のものだ。
「気を緩めるな。行くぞ!」
グラウスは自ら先頭に立ち、馬を進めた。
長年の軍団勤務の間に本国各地を訪れた経験のゆえに、周辺の地勢は一通り頭に入っているが、しばらく見ぬ間に何がどう変化しているか分からない。
記憶にある通りの森や丘、浅い小川などがそのままであるのを確かめながら、会戦の場所と布陣を頭の中で次々に検討していく。
だが計画をまとめもしない内に、現実は予想もしない形で姿を現した。
「将軍! 前方に敵影!」
一番視力の良い兵が、行く手を指して叫ぶ。グラウスもそちらを振り返り、目蔭をさした。かすかに土煙が見える。
「どうやら向こうも、早々と騎兵を繰り出して偵察に来たらしいな」
全軍を率いて出て来たにしては、現れるのが早すぎる。歩兵の歩みではここまで来られまい。
「じきに向こうもこちらに気付くだろう。待機して、歩兵隊の援護が得られるまで距離を縮めるぞ」
グラウスは偵察隊を動かし、なだらかな、ごく低い丘の上に列を作った。ここからなら敵の布陣も見渡せるし、背後から来る味方の援軍は、敵の目に入らない。
やがて東から現れたのは、マリウス率いる騎馬隊、その数およそ二百であった。
「大勢連れてきたものだ」
グラウスは苦笑まじりに言った。どうやら向こうは、最初から偵察よりも戦闘を目的としていたらしい。グラウスは背後の援軍の位置を確かめ、その場の部下たちと伝令に指示を出した。
「敵は数の優位で、こちらを包囲にかかるだろう。我々は中央突破をはかる。敵が両翼を広げたところで、後ろの部隊がそれぞれを叩き、包囲が閉じるのを防ぐ。囲みを破ったら左右に別れ、援軍と合流する。無理に殲滅しようとするな。ただし、出来れば指揮官を捕らえたい」
伝令がうなずき、後方の援軍に伝えるべく走り去った。グラウスは残る全員を見渡し、焦るな、ひきつけろ、と命じた。向こうも長距離を進軍してきているが、こちらの援軍も大急ぎで駆けつけているところだ。疲労度でいえば、必ずしも有利ではない。
頃合を計り、じりじりしながら機が熟すのを待つ。そして、
「よし、突撃!」
グラウスが手を挙げ、三十の騎兵は雪崩を打って斜面を駆け下りた。彼我の蹄の響きが地を揺るがし、土煙が舞い上がる。
だが、いくらも行かずにグラウスは嫌な予感がして眉を寄せた。
(おかしい)
マリウスの騎兵は、包囲を目的としているにせよ、あまりに薄く漫然と広がっていた。まともな隊列を組んでいるとは見えない。このままグラウスの騎兵が突っ込めば、やすやすと中央を突破出来るだろう。なのに、マリウスもその兵達も、まるで慌てた様子がない。
(何を企んで――)
手綱を引こうかと迷った、その瞬間。
敵味方とも、いっせいに馬の足取りが乱れた。
「うわっ! くそ、どうした!?」
グラウスの馬もいきなり首を振りたて、前肢で空をかく。中央突破のため楔形に密集して走っていたので、混乱は致命的だった。馬と馬が、人と人がぶつかり合う。落馬した兵が馬に蹴られてうずくまり、それに足を取られた馬がさらに暴れる。
なぜ、という驚愕に対する答えは、すぐに与えられた。
仰ぎ見た空に現れた、真紅の炎竜――そして、その背に立つ女神。
圧倒的な輝きを前にして、グラウスは束の間、一切を忘れた。クォノスで見た天竜とはまるで違う。本能的に恐れおののきながらも、眩い炎に魅入られて目が離せない。あまりにも危険で、それゆえに美しい。
グラウスはぞくりと震え、はっと我に返る。しまった、と悔いたが、もう遅い。エレシアが槍を振り上げるのが見えた直後、彼は、
「ああああぁぁ!!」
轟音と共に、眩い火柱と化した。
「将軍! 将軍ッッ!!」
「水っ、水を……! うわあぁぁ!!」
叫びが入り乱れる。馬の悲鳴、泣き叫ぶ兵士。グラウスが馬もろとも倒れ、炎に包まれたまま転がりまわった。
混乱をよそに、エレシアを乗せたゲンシャスは空高く舞い上がって姿を消す。
元より馬と馬の間を広くとっていたマリウスの騎兵は、素早く秩序を取り戻し、今度こそまともな隊列を組んで包囲にかかった。
援軍が現れなければ、そのままグラウスの部隊は最後の一人まで切り刻まれていたかもしれない。
だが、事前の周到な采配があったおかげで、彼らはどうにか虎口を脱し、多数の負傷者と少数の死者を出しながらも、デウルムまで逃げ帰ることができたのだった。黒焦げになった司令官と共に。
「いやまったく、心臓が止まるかと思ったわ」
「それはこっちの台詞です!」
軍医が裏返った声で叫んだ。泣きたいのか笑いたいのか怒りたいのか、本人も混乱してよく分からなくなっているらしい。
当の患者はベッドに腰掛け、気の抜けた顔で呑気に無精髭を掻いている。運び込まれた時には意識がなく、全身黒焦げで、熔けた鎧が炭化した服と一体化している有様だったというのに、それらを剥がした下から現れたのは、ゆで卵のように傷ひとつない体だったのだ。
グラウスは不思議そうに己の体を眺め、ふーむ、と唸った。
「焼き殺されるというのは、かなり凄絶な死に方のようだな。今後火計は慎重に用いるとしよう。フィニアスにはたっぷり礼をせねばならんな」
死にそうな感覚を味わいながらも、天竜の加護があったお陰で、本当には死なずに済んだらしい。どうせなら、熱も痛みも感じなければ良かったのだが。
「何を悠長な。将軍が助かったのはまことに幸運でしたが、助からなんだ兵もおるのですぞ。どうやって炎の竜侯とノルニコム軍を川の向こうへ追い返すか、考えるならばそちらを考えて下され」
「言われるまでもない」
グラウスは真顔で答え、立ち上がって替えの服に袖を通した。マリウスの奇妙な隊列から学んだこともある。それに、相手はグラウスが死んだと思っているだろう。次の会戦ではこの借りを数倍にして返してやらねばなるまい。
既に今後の計画を練り始めている頭の大部分とは別のところで、ふと、束の間の邂逅の記憶がよみがえった。この世のものとは思われぬ、熱く激しく輝く炎の――
「……美しかったな」
知らず言葉が口をついて出た。「は?」と軍医が胡乱げに聞き返す。グラウスは首を振り、なんでもない、と軽い口調で応じた。
「ただ、思っただけだ――どうせなら、焼き殺されるのでなく、あの手で直接胸を刺し貫かれたかった、とな」
「…………」
軍医は盛大に顔を歪め、正気を疑うまなざしでもってグラウスを串刺しにした。もしそうだったら、いかな天竜の加護があろうとも死んでいるところだ、と、明白な事実を指摘する気力までは出なかったらしい。
はあ、と軍医は特大のため息をついて、ぞんざいに手を振った。
「そのおつむりの中身以外には、万事支障ないようですな。どうぞ仕事にお戻り下され」
しっしっ、と追い払われても、グラウスは首を竦めただけで気を悪くした風もなく、大人しく退散した。軍医と料理人には勝てない。それが兵営のならいである。
自分の部屋へ戻る道すがら、グラウスはぼんやり宙を見つめていた。時々、抜けていた魂が戻ってきたように、目をしばたいて首を振る。そんなことを数回繰り返し、彼はとうとう足を止めて、両手で自分の頬をぺちぺち叩いた。
「いかんな」
集中せねば、と己を叱咤するのだが、竜と竜侯の記憶はあまりに鮮烈で、わずかな隙を突いてすぐに意識の表層に浮かび上がってくる。
炎竜の上からこちらを見下ろすエレシアの顔は、ただ、純粋に強く美しかった。憎しみや怒り、恨みつらみといった人間的な感情は、輝く炎の背後に隠れているのか、まるで見えなかった。下界を睥睨し、仕留めるべき獲物に一撃をくれる瞬間を狙い澄ましている鷹のように、余計なものをすべて削ぎ落とした美しさ。
やられる、と悟った時には恐怖した筈なのに、今思い返すと、賛嘆の念しか浮かばない。
「あれを倒さねばならんのか……」
惜しそうにつぶやいて、彼は己に苦笑した。倒せるつもりでいるとは気の早い。
まずは策を練り、兵達の士気を上げねばならない。司令官は死んでいないと、敵には気取られぬよう味方にだけ知らせ、竜の力は強大だが必ず勝てると信じさせなくては。
それにもうひとつ、口止めしなければならないことがあったのを忘れていた。手遅れでなければ良いが。
(ヴァリスがエレシアの言い分を聞いたら、何と言うか)
帝国再建という大業を途中で諦めることはなかろうが、確実な道筋をつけられるまで待ってくれるなら首ひとつぐらい差し出そう、とでも言い出しかねない。グラウスは顔をしかめた。
(変なところで臆病なのだからなぁ)
否、臆病というのは正確でないかもしれない。ヴァリスは弱腰になって逃げ出したり挫けたりはしない。だが“死”に対して感受性が鋭いのだ。父親ゲナス帝が殺された後、彼はずっと死の影に囚われているかのようだった。グラウスがいなければ、殺される前に自裁していたかもしれない。
誰かが明白に、具体的に強く、己の死を願っている――そのことに、彼は揺らぎやすいのだ。戦下手なのもその辺りに原因があるのだろうと、グラウスは漠然と理解している。
(あいつが援軍を率いて到着する前に、エレシアを対岸へ追い返しておこう)
美しいだの惜しいだの、寝惚けている場合ではなかった。
グラウスは気を取り直し、最後にもう一回自分の頬をぺちんと叩いてから、歩みを再開したのだった。




