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灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
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1-6. アクテ攻防戦(1)


「エレシア様! デウルムの第二軍団から使者が参りました。如何しましょう」

 伝令が駆け寄り、息を弾ませて問う。エレシアはかすかに眉をひそめた。今さら何の使者だというのか。降伏するというなら会ってやらぬでもないが。

 しばし考え、彼女は短く「通しなさい」と命じて伝令を戻らせた。それから、ぐるりを見回して状況を確かめる。彼女が立っているのは、アクテの西郊外だ。

 アクテはいまや、街も兵営もすっかりロフルス竜侯軍のものになっていた。過日の戦闘で破損した箇所の修復が終わり、西の郊外、すなわち本国へ通じる方面にも、土塁を築いて防御を固めてある。

 元来はノルニコムに対する本国の防衛拠点として築かれた兵営であるから、河岸の東に対する守りは万全でも、西側は脆い。エレシアはまずそこを補強させた。でなければ、一度会戦して負けたら、川の向こう岸まで一気に押し返されてしまう。

 一時撤退して守りを固められる砦がないまま、がむしゃらに西へ進むのは、いかにエレシアでも無謀だと分かった。己一人ならばそれでも良かろうが、復讐に燃えた女当主が単身皇都へ乗り込んで、たとえ首尾よく皇帝を討ち果たしたとしても、それだけでは結局ノルニコムの地位は属州のままだ。

 知らず厳しい眼になっていたらしい。たまたま目が合った兵の一人が、ぎくりと竦んで敬礼した。エレシアは詫びるように苦笑し、軽くうなずきを返す。途端に、しゃちこばっていた兵が顔を緩めた。

 さもありなん。輝く赤銅の髪をかたく結い上げてまとめ、特製の胸当てを着けて伝家の槍を携えていようとも、エレシアの魅力はいささかも損なわれていない。それどころか、華やかさに威厳が加わって、まさに女王然とした風格があった。

 エレシアは仰向いて、片手を挙げた。その指先に炎がとまり、一気に膨らんで巨大な竜の姿をとる。エレシアは伸ばした手をそのままゲンシャスの鉤爪にかけ、ふわりと宙に舞い上がった。

〈皇軍の伝令が何のつもりかは知らないけれど、まだこちらを見くびっているのなら、身の程を教えてやらなくてはね〉

〈それなら、着地を失敗せぬように気をつけねばな〉

 くくっ、とゲンシャスが喉の奥で笑う。エレシアは顔をしかめた。

〈たまには普通に笑える冗談を聞きたいものだわ〉

〈何が冗談なものか、我は真面目に案じておるのだぞ。そら、着いた〉

 言うと同時に、ゲンシャスが兵営の前の開けた場所に降りる。エレシアは手を離し、ひらりと着地した。悲しいかな竜侯とは言え人間なので、竜のように音も立てずに舞い降りる事は出来ない。のみならず、変なことを言われたせいで、危うく足を挫くところだった。

 エレシアは何食わぬ顔で背筋を伸ばし、ノルニコム兵に挟まれている軍団兵に向き直った。狙い通り、使者は青ざめて顔をひきつらせ、ゲンシャスとエレシアとを忙しなく見比べている。

 エレシアは数歩近付くと、腕組みをして使者を睨んだ。

「さて、慈悲を乞うなら聞かぬでもない。戯言を並べに来たのなら時間の無駄、わたくしの怒りが軽く済むよう祈るのだな」

 尊大に切り出され、使者は言葉に詰まってたじろいだ。恐らく「皇帝陛下は情け深くもその方ら謀反人に慈悲を賜り」云々、といった口上を用意していたのだろう。それがゲンシャスの出現で粉砕され、頭の中まで焼き尽くされて、新しい言葉を紡ぎ出せなくなったらしい。冷や汗をかいて、逃げ出したがっている足をその場に留めるのが精一杯というありさまだ。

 エレシアは皮肉な笑みを浮かべ、身に纏う空気を少しばかり和らげてやった。

「そなたも不運にしてたまさか使いを命じられた身、首を刎ねて送り返すような仕打ちはせぬゆえ安心するが良い。だが、駆け引きには一切応じぬゆえ、伝えるべき事があるならば率直に申せ。戯言しか託されておらぬのであれば、このまま引き返すが良い」

「……こ、皇帝陛下は」

 使者はようやく口を開いたが、声は哀れなほど震えていた。自分でも流石に情けなくなったのだろう、彼は顔をしかめてぐっと唇を引き結び、気合を入れるように姿勢を正した。それから改めて、しっかりした口調で言い直す。

「皇帝陛下は、竜侯エレシア殿との和解をお望みです。戦は互いの民を疲弊させるだけ。ノルニコム州にはゲナス帝以前と同じく、対等の立場として高度な自治を認めるゆえ、兵をティオル川の東へ退かせて、協議の場に臨んで頂きたい」

「以前と同じく?」

 聞き返したエレシアの口調は、嘲笑に近かった。

「結構な申し出だこと! 以前と同じく、いつでも皇帝の気分ひとつで一族皆殺しの目に遭うことが出来る、というわけ。そのような戯言、よもや本気でわたくしが耳を貸すと思っているのではなかろうね」

 厳しい言葉に使者は怯んだが、しかしなんとか取り成そうと、彼なりに精一杯の低姿勢、最大の譲歩を見せた。

「先々代ゲナス帝の所業については、ヴァリス帝御自ら、公式に謝罪すると……」

「たわけ! 謝罪など求めておらぬ!」

 雷鳴の如き一喝が、口上を遮った。いまやエレシアは怒りに身を震わせ、目を爛々と輝かせていた。赤く吠え猛る烈火が、その身を取り巻くのが目に見えるかのよう。おののく使者に向かって、エレシアは抑えきれない憤激をぶつけた。

「ゲナスはわたくしの夫を、二人の子を、手足とも言うべき忠臣たちを、すべて無残に葬り去った。この所業に、どのような謝罪が意味を成すというのか! わたくしが求めているのは(あがな)いだ。謝罪などという無意味なもの、犬に食わせるが良い!」

「あ……贖いとは、どのような」

 震えながら、それでも使者は交渉の余地を作ろうと必死で問いかける。エレシアは凍てつくまなざしをくれ、打って変わって冷ややかに言い放った。

「血には血を、命には命を。ゲナスの息子ヴァリスの首をもってせねば、贖うことなど出来はせぬ」

「――!!」

 使者ばかりではない、そばで聞いていたマリウスも、兵達も、揃って愕然とした。しかしむろん、抗議したのは使者一人だった。

「なんという事を! そのような道理を外れた要求が容れられるものか!」

「何を申す。わたくしは、ヴァリス一人の命で許してやろうと言うたのだ。むしろ寛容ではないか。ゲナスに殺されたのは、たった一人ではなかったぞ」

 そこまで言い、エレシアは微笑を浮かべた。唇だけの、目には温かみの欠片もない、竜そのもののような笑みを。

「それとも、そなた、我が子らと夫の命は、あわせてもまだヴァリス一人に及ばぬほど軽いと申すのか」

 ひっ、と使者の喉が鳴いた。そのまま彼は膝からくずおれ、地に両手をつく。エレシアはそれを見下ろし、ふっと小さく息を吐いた。

「戻って伝えるが良い。わたくしの怒りはゲナスの息子の命をもってしか鎮められぬ、と。そして、ノルニコムはもはや属州でも同盟国でもない、ディアティウスとは完全に決別したのだ、とな」

 ()ね、と命じられても、使者はすぐには立ち上がれなかった。ノルニコム兵に両腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして陣営を出る。

 去り際、使者はなけなしの威厳をかき集めて振り返り、せめて一矢とばかりに言った。

「後悔するぞ! ナクテ領主と皇帝陛下は協定を結ばれた。第四軍団はその方らを援護せぬ、むしろ立ちはだかる壁となろう!」

 秘しておくべき事柄を明かすとは、よほどの屈辱を味わったのだろう。だがむろん、エレシアは毫も動じなかった。それどころか、ずぶ濡れの汚い野犬が牙を剥いて唸るのを憐れむが如く、厭わしげに微笑む。

「承知の上だ。そちらこそ、背後に気をつけるのだな。頼りの壁はなかなか動いてくれぬようだから」

「……く……っ」

 使者はもはや返す言葉もなく、歯軋りした。彼が失意の内によろめきながら西へ戻って行くと、マリウスがためらいがちに口を開いた。

「エレシア様……あれで、良かったのですか」

 率直な言葉に、まわりにいた兵達がぎょっとなった。火の粉を恐れて逃げ腰になる者もいれば、いつマリウスを引きずり倒して庇おうかと身構える者もいる。エレシアはそんな周囲の反応を、見渡すまでもなく感じ取って微苦笑した。

 ゆっくりとマリウスを振り向き、いつもの穏やかで温かいまなざしを注ぐ。

「妥協の余地を残しておくべきだった、と言うのかしら。それとも、もう戦に倦んだと?」

「いいえ」マリウスは即答した。「私もゲナス帝に、父とも仰ぐ方を殺されました。贖いを求めるのは、陛下お一人ではございません。ですが、望みがあると向こうに思わせておいた方が良かったのでは? それに、第四軍団のことも」

「――ああ、そうだったわね。あまりにあの者が惨めだったものだから、つい骨を投げてしまったわ」

 やれやれ、とエレシアは頭を振った。こちらが第四軍団の動向を知らなかったと思わせておけば、動揺を突こうとして第二軍団が勇み足になる可能性もあった。誘い込んで討つにはその方が良かったかもしれない。

「でも、わたくしは罠を張って獲物がかかるのを待つのは、好きではないの。攻め込み、追い立てて殲滅することこそが望み」

 言う端から戦意が高まり、身の内に燃える炎が輝きを増すのを感じる。エレシアは昂然と顔を上げ、笑みを広げた。

「さあ、出陣の用意を! 急がなければ、あの使者が戻れば向こうはすぐにも仕掛けてくるわ。先手を打ち、我々の力を思い知らせてやるのです!」

 高揚した気分が伝染したか、つい今しがたまで怯えていた兵達が途端に笑顔になって、喊声で応じる。マリウスも表情を引き締め、はっ、とうなずいて敬礼した。

 すぐに動き出した兵達と共に、マリウスも騎馬隊の準備にかかろうと歩き出す。それを、エレシアが呼び止めた。

「マリウス」

 柔らかな声をかけられて、マリウスは怪訝な顔で振り返った。何か指示を与えようとする様子ではない。案の定、エレシアはどこか寂しげな微笑を湛えて彼を見つめていた。

「エレシア様?」

 マリウスは首を傾げ、主の前に戻ってひざまずく。エレシアはその頭を両手でそっと挟んで、炎神ゲンスの加護を与えてから、ごく小さな声でささやいた。

「もし……この先もし、わたくしの復讐に付き合いきれないと感じたら、ノルニコムの為にならぬと判断したなら、迷わずわたくしを見限りなさい」

「――な」

 マリウスは目をみはり、声を詰まらせた。何を仰せられるのですか、と抗議するより早く、エレシアが彼の目を覗き込み、言葉を封じ込める。

「良いのです。わたくしは、夫と子供、殺された一族の仇を討つだけが望み。その先の未来を考えることは、少なくとも今は出来ない。ですから、そなたが決めるのです。未来を担うのはそなたや、そなたが想いを懸ける娘のような若者たち」

 エディオナのことを仄めかされて、マリウスはぱっと赤面する。エレシアは優しく微笑んだ。

「そう、将来に明るく幸せな夢を描ける者が、ノルニコムの未来を決めるべきなのです。わたくしは、たとえ一人になっても復讐を遂げるでしょう。たとえそれが滅びの道であっても。けれど、ノルニコムのすべてを道連れにする気はありません。ですから……」

 分かりましたね、と念を押す。マリウスは痛みを堪えるように顔を歪めてうつむくと、エレシアの手を取って甲に口付けした。

「お望みのままに。ですがそのような日が来たら、私の魂は奥方様と共に滅びの道を行くでしょう」

「馬鹿ね」

 エレシアは愛しげに苦笑し、かつて領主の奥方が新入り兵士にしたように、マリウスの頭をぽんとはたいた。

「そなたの魂は、とうにエディオナのものでしょうに。さあ、行きなさい」

 温かくからかわれて、マリウスはそれ以上の言葉を重ねず、黙って立ち上がると深く頭を下げた。そして、あとは目を合わせず、ぱっと身を翻して走り去る。

 エレシアもまた、彼の背を見送りはしなかった。笑みを消し、視線をついと西へ向ける。デウルムを越えて、皇都までも見通すかのように。

 青空から吹き降ろす冷たい風が、どこからか粉雪を運んできたが、彼女は身じろぎもしなかった。


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