1-5. 不穏な忠告
同じ頃、クォノスではセナト侯が娘婿を部屋に呼びつけていた。
「小セナトがナクテに戻った」
前置きもなく告げられた一言に、ルフスは息を飲んで身を硬直させる。彼の反応に、セナト侯は薄笑いを浮かべた。
「どうした、息子が生きていたと分かって、喜ぶべきところではないのか」
「それは……、それは、無論。ですが……突然のことで」
ルフスはつっかえながらどうにかそう返事をし、無意識に視線を室内に走らせた。
「いつ、知らせが?」
「ほんの先ほどだ。これでそなたも、ひと安心だろう」
含み笑いと共に投げかけられた声が、ねばつく糸のように絡みつく。ルフスは不快感を顔に出さぬよう必死で自制しながら、かろうじて「はい」とうなずいた。
先日の西方暴動の件と同じく、今日もやはり急使が到着したとの報告はない。だが室内には確かに、何者かの存在感がうっすらと漂っていた。誰かがここにいた、あるいは今も壁の内側から、床の下から、息を潜めて覗いている――そんな感覚。
「ナクテへ戻るが良い」
さらりと命じられ、ルフスはしばし理解に手間取った。ややあって、西方での変事に対応するためにクォノスを離れるよう言われたのだと気付き、ルフスは当惑した。
「義父上、しかしそれは」
「援軍をまとめるぐらい、そなたがおらずとも支障はなかろう。あの皇帝は戦をやらせたら必ず負けるが、実際に戦場に立つ以外のことならば人並みに出来る。どのみち、まとめた兵を率いてゆくのは皇帝だ。そなたがおっても、司令官が二人になって混乱するだけのこと。ならば、そなたにはナクテに戻って不穏な西方に対処するが賢明というものだ」
セナトは滔々と諭し、まだ納得できない様子のルフスを見て、ふっと笑った。
「これだけ立派な建前があれば、ナクテで我が子と涙の再会を果たしたとて、そなたが義務を半ばで投げ出したとささやく者はおるまい」
「……ありがとうございます」
舅の思いやりを今ひとつ信じきれず、しかし彼にも孫を可愛く思う情はあるのだろうと慮り、ルフスは礼を述べて頭を下げた。セナトは満足げにうなずき、
「皇帝には私から話しておく。そなたはすぐに、出立の用意をするが良い」
そう告げることで退室を促した。
部屋を出たルフスは、しばし廊下に突っ立っていた。じんわりと時間をかけて、息子が帰って来たのだという事実が、心と頭に浸透する。
「――っ」
両手で顔をこすり、その場にしゃがみこんでしまいそうなのを堪えて、深い吐息をこぼした。
(生きていた)
安堵の滴が胸に沁みて広がる。目頭が熱くなるのを瞬きして堪え、体の横でぎゅっと拳を握った。
(もうじき会える)
だがその前に、すべき事がある。
ルフスは首を振って気を取り直し、いつもの落ち着いた足取りで歩き出した。
彼が向かったのは、自室ではなかった。
「フィニアス殿はおいでか」
天竜侯の部屋にいたのは、当人ともう一人、ルフスの知らない少女だった。
「失礼、来客中とは……」
半ば反射的に謝罪を口にしつつ、ルフスは目をしばたかせて少女を見つめる。あの白いひらひらした服は、いったい何なんだ? それに、心なしか少女のまわりだけ薄明るいような……。
困惑しているルフスに、フィンは苦笑を浮かべて「構いません」と答えた。
「彼女はディアエルファレナ。先日、ルフス殿もご覧になっていますよ。天竜です」
「――は」
口から出かかった疑問符を飲み込み、ルフスは目を丸くする。そんな表情をすると、厳しい軍団長の顔の下から、一人の男としての顔が覗くのが見えた。とりわけフィンの目には、はっきりと鮮やかに。
基本的に実直で素朴な人物なのだ、とフィンは理解し、ルフスに対する信頼を深める。レーナもまた、好意的な微笑をルフスに向けた。
「これは……驚いたな」
思わずルフスはつぶやき、それから我に返ってレーナに頭を下げた。
「お目にかかれて光栄に存じます、天竜殿」
「私も、きれいな人に会えて嬉しいわ」
「…………」
は、とまた聞き返すことも出来ず、ルフスは曰く言いがたい顔をする。率直に評してその顔は、到底美しくは見えない造作だ。本人もそれは自覚していよう。フィンは堪えきれずに失笑してしまった。
「レーナ、それは初対面の人に言うと混乱されるよ」
「あ、そうだったわ。ごめんなさい、あの、ルフスさん? ええっと、私が言ったのは、外側のことじゃないの。あの、つまり」
おたおたとレーナが詫びたが、ルフスは余計にわけがわからなくなるばかり。フィンが苦笑しつつレーナを止め、代わって説明した。
「すみません、驚かせて。レーナには、人の内面が見えているんです。だから、きれいだと言ったのも見た目のことではなくて……ルフス殿の、性格だか魂だか、そういうもののどこかが彼女の気に入った、という意味です」
「それは……光栄だと喜んで良いのかな」
「どうでしょうか」フィンは小首を傾げた。「立派な人物ならば『きれい』なのかというと、そうとも限らないようですから。彼女に言わせたら、皇帝陛下よりも私の方がきれいなんだそうです。単に好みの問題なのかもしれません」
「なるほど。竜のお気に召した人間だけが、絆を結べるというわけか」
ルフスが納得し、感心したようにフィンを見る。フィンは絆を結んだ時のことを思い出して、急に恥ずかしくなってしまった。視線をそらし、ごほんと咳払いしてごまかしてから、話の軌道を修正する。
「それで……何か御用があって来られたのでは?」
「ああ、うむ、そうだ」
ルフスも我に返ったように、軍団長の顔を取り戻す。まだレーナを少し気にしながらも、彼は本来の用件を切り出した。
「実は、セナト侯の命により、援軍の編制は皇帝陛下に委ねて私はナクテに戻ることになった」
「西方の暴動に対処するためですか」
「それもあるが、私の息子が――行方不明だった小セナトが、戻って来たと知らされて」
ルフスが語尾を濁す。フィンは、一体いつの間に、と言いかけて声を飲み込んだ。またか。また、姿の見えない使者がセナト侯を訪ったのか。
眉をひそめたフィンに、ルフスも厳しい表情になってうなずいた。
「私をここから遠ざけるための虚報かも知れないが、恐らく真実だろう。フィニアス殿、私の不在中、どうか皇帝陛下の身辺に気を配って頂きたい」
「どういう意味です?」
「……あまり、私の口から言うべきことではないが、しかし……セナトが戻ったとなれば、協定に基づき、帝位継承者が決定する。そうなれば、現皇帝がいつまでも帝位に在るよりは……」
皆まで言う必要はなかった。フィンは小さく息を飲み、険しい顔でうなずいた。
既に書面上で小セナトの養子縁組が成立しているのだから、本人が生きて姿を現したとなったら、セナト侯から見てヴァリスは用済みだ。早い内に退場してくれたなら、まだ幼い次期皇帝を支配するのも容易になる。
「よもやまさか、すぐにもということはあるまいが」
つぶやくようにルフスが言い、フィンは「分かりました」と答えた。
「グラウス将軍からも、陛下の身の安全に目を光らせるように頼まれています。今も仲間の何人かが陛下のおそばに控えていますし、今後はさらに警戒を強めましょう」
「かたじけない」
「いえ、私も本国の情勢が乱れるのは望みませんから。……ルフス殿、不躾を承知でお尋ねしますが、なぜそうまで危険を察していながら、セナト侯の言うなりなのですか?」
声を潜め、フィンが問う。言外に、何か事情があるのなら力になります、と匂わせて。
ルフスはそれに気付き、やや顔をしかめた。痛いところを突かれた不快さと、若輩者から助けの手を差し伸べられた屈辱、その状況を招いた自分自身に対する嫌悪――それらが入り混じった表情だった。
沈黙が続いたが、フィンは無礼を詫びようとはしなかった。ルフスがフィンに対して腹を立てているのではないと、直感的に分かったからだ。代わりに彼はただ、答えを待った。
ややあってルフスは、うつむいて、絞り出すように告白した。
「セナト侯は、私の舅であり、経歴から言っても尊敬すべき方だ。おいそれと逆らえる方ではない。それにも増して……近頃は特に、何か……」
口ごもり、首を振る。彼は顔を上げると、恐れのこもった目で室内を素早く見回した。
「どうか内密に願いたい。だが正直に言って、私はあの方が恐ろしいのだ。昔のように、ただ畏敬の念と立場のゆえに従っているのではない。今は……あの方の前に出ると、なぜかは分からぬが背筋が寒くなる。臆病者、腑抜けとそしられようとも、逆らってはならぬと本能が命じるのだ」
「…………」
フィンが驚いて絶句していると、ルフスは怯えを見せたことを恥じるように、忙しなく一礼して背を向けた。部屋から出かけたところで足を止め、振り向く。
「フィニアス殿は竜侯ゆえ、恐れはないかも知れぬ。だがどうか、くれぐれも注意怠りないように」
不穏な忠告を残し、ルフスは急ぎ足に去って行った。
何かに追われるような足音が聞こえなくなってから、フィンはレーナを振り返った。
「どう思う? やっぱり、あの影と関係があるんだろうか」
「多分。よく分からないけれど……あの人は少し、暗い気配がして怖いもの」
「あの人? ああ、セナト侯か。うん、俺も少し苦手だな。姿の見えない使者といい、何か普通とは違う力を持っているような気がする。取り越し苦労だったらいいんだが」
ふう、と無意識にため息をつき、フィンは手入れの途中だった剣を取り上げた。竜の力に反応している間は輝いているが、そうでない時はあまりに古ぼけているので、少しきれいにしようと、柄や鞘を磨いていたのだ。
窓から差し込む光に当てて出来ばえを確かめていると、もう一本の剣のことを思い出した。セナト侯が与えようとした、魔術で鍛えられた剣。彼は平然と所持していたが、竜侯でなければ何も感じないのだろうか。しかしあの感覚は、あまりに強烈だったが。
知らずフィンは眉間に皺を寄せていた。
(あの剣で斬られたくはないな)
無意識にそう考え、それから、何を馬鹿な、と頭を振る。そんな状況になることは、まずあり得ない。少なくとも、自分が彼と対峙することはないはずだ。
フィンはじっと己の剣を見つめ、より丁寧に磨き始めた。頼りにしているから、守ってくれよと祈りながら。




