1-3. 小セナトの帰還
ディアティウスの新年は静かに明ける。冬至の日に太陽が生まれ変わるのを祝った後で、十日ほどかけて旧い年に属するものを捨て、新しい年の準備を整えるのだ。
かまどの火を落としてきれいに掃除し、新しい火種を神殿から貰い、衣服や仕事道具などを新調して。それは祭りや祝いというものではない。ほとんど事務的なまでに、しかし確かにひとつの節目として、年が明ける。
それにしてもナクテ領主館では、常に比べて侘しい新年だった。当主も若殿も不在、加えて厳しい倹約令。フェルネーナはすべきこともほとんどなく、ため息をついてばかりいた。
セナトが行方不明になってからというもの、館の空気は重くなる一方だった。とりわけ日が短く晴天の少ない今の季節は、館のそこかしこに暗がりがはびこり、気付かぬ内に服の裾や足元にまとわりついてくる。吸い込む息まで灰色に濁っているような気がして、余計にため息が増えるのだった。
館を覆う暗い空気は、中に囚われた者を苦しめるだけでなく、外から見ても分かるほどになっていた。
「うっひゃあ、でっかいお屋敷だなぁ」
田園風景の中に現れた巨大な館に、タズが声を上げた。彼自身は単純に驚いたつもりだったが、声には予期せず、かすかな不安の影が差した。庶民が気後れしていると思われたくなくて、タズはこっそりネラの様子を横目で窺う。と、彼女もまた、眉をひそめて行く手を見つめていた。
ナクテ領主館は、市街とは離れた位置にある。南からやってきた彼らから見て、街はずっと左手、オルヌ川に近い低地に広がっているが、館は右手の丘上だ。春になれば、鮮やかな新緑に囲まれて館がさぞ美しく映えることだろうが、今は陰気でうそ寒い。
「……ナクテ、だよね?」
セスタス――否、セナトが自信なさげに確かめる。はい、とネラがうなずいた。
「間違いなく、ここがそうです。でも、こんなに不穏な気配があるなんて」
「僕が皇都に行く前は、こんなのじゃなかったよね」
「はい。もっと空気が澄んでいました。ここまで近付いたら、奥方様の所在も分かるはずなのですが、灰色の靄に邪魔されてはっきりしません。どこかに出てらっしゃるという噂は、聞きませんでしたけれど……」
曖昧に言葉を切り、ネラは周囲を見回した。タズもつられて、首を巡らせる。
オルゲニアの森を後にして、オルヌ川沿いにナクテを目指した一行は、途中でいくつかの村を通過した。それらの村には、狩猟や祭の折に訪れた領主一家を覚えている者も多かったので、主にタズが村人達から噂を集めたのだが、
「そうッスね。若旦那さんの方は、北やら東やら南やら、あちこち飛び回らされてるらしい、って話だったけど。奥方さんは祭にも顔を出さない、って」
そのことを教えた女の憎々しげな口調を思い出し、タズは渋面になった。
税の取り立てを厳しくしておいて、自分が着飾っているのを見られたくないから出て来ないんだろうよ――と、吐き捨てるように言った女。横から別の女が、息子さんの行方が知れなくて気鬱の病にかかっておられるんだよ、と同情的に弁護すれば、元々あの女が皇都に行きたくて息子を皇帝に差し出したんじゃないか、と言い返す。見かねた男が、いやあれは大旦那が決めたんだ、と口を挟む。
ああだこうだと、不確かな噂が村人達の間を飛び交っているようだった。領主に対して遠慮しているものもあれば、悪罵の限りを尽くしたような酷い噂もあった。何にせよ、あまり気分の晴れるような話がないことだけは、確かだった。
「……ともかく、戻ろう」
意を決して促したのは、三人のなかで一番幼いセナトだった。我が家に戻るには不似合いな厳しい表情で、歩みを再開する。
近寄るほどに息苦しくなるのを強いて無視し、三人は丘を登って館の正面にまわった。広い庭の縁を形ばかり囲う塀が途切れ、アーチのかかった門が姿を現すと、門柱に刻まれた海獣がぎょろりとこちらを睨んだように見えた。
タズはぎくりとし、一拍置いてそれがただの石像だと納得して、無理に微笑んだ。こんな天気の下でなければ、この怪物はもっと滑稽な顔に見えただろう。
「なんで海獣にしたのかね。こんな野原のど真ん中で」
タズが苦笑しながら、ウツボのような怪物を指差す。セナトが肩を竦めた。
「知らない。でも、悪戯すると噛み付かれるよ」
「えっ」
「少なくとも、僕はよくそう言われた。悪いことをしたら、夜中にこれが枕元に来て頭を丸呑みしちゃうぞ、って。子供を脅かすのには丁度いいよね。全然見知らぬ海の生き物だから、嘘か本当か確かめようがないし。小さい頃は怖かった」
「そうそう」ネラがようやく笑った。「セナト様、お化けが来る、ってよく泣いてらっしゃいましたね」
「昔の話だよ」
セナトは少し赤くなってむくれ、アーチをくぐった。タズもにやにやしながら後に続いたが、じきに笑みを消した。
門番小屋は無人で、庭にも人影はない。領主の館にしては寂しすぎる。
知らせをやったわけではないから、出迎えがなくても当然ではあるが、使用人に見付かることもないまま扉まで辿り着いてしまった。
三人は顔を見合わせ、束の間、ポーチに立ち尽くした。それから、誰が言い出したわけでもなく、揃って扉に手を当てる。
重い音を立てて扉が開くと、中で誰かがびっくりしたように物音を立てた。
「誰です、断りもなく!」
裏返った声で叫んだ女中に、セナトは申し訳なさそうに首を竦めた。
「ごめん。誰もいなかったから」
思いがけない返事に、女中は視線を落とす。どうやら、真っ先にタズが目に入ったため、狼藉者と早とちりしたらしい。一番前に立っている少年に気付くと、女中はあんぐり口を開け、悲鳴と歓声の相半ばするとんでもない声を上げた。
「まああぁぁ! 坊ちゃま!!」
あとはもう、何を言っているのやら分からない。お帰りなさいまし、の一言だけは聞き取れたものの、まあまあ、どうしましょう、なんてこと、等々、合間に悲鳴を挟みながら右往左往する。
あまりの騒がしさに、何事かとフェルネーナが飛び出してきた。そして、
「あっ――」
母子は目を合わせると、声もなく互いに駆け寄り、かたく抱き合う。
「よく、無事で」
涙声でどうにかそれだけ言ったフェルネーナに、セナトはほとんど聞き取れないほど小さく、ごめんなさい、と謝った。
部外者のタズは落ち着かなくなってもぞもぞし、屋敷の中を眺め回して気を紛らせた。見える範囲では、本国の一般的な設計で建てられた屋敷のようだ。ホールの奥には中庭のように天井のない空間があり、床に水盤が設えられていた。雨水を溜めて掃除や洗い物に使う実用目的の設備だが、流石に領主館のものは装飾も豪華だ。
奥の間や廊下に続く漆喰壁にも、ほとんどすべてに神々の姿や庭園が描かれている。いつの間にかタズは、すっかりそれらに見入っていた。
「そちらの方は」
呼びかけと質問を兼ねた声で我に返ると、フェルネーナが彼を見つめていた。慌ててタズは姿勢を正し、ぺこりとお辞儀をした。
「タズといいます、奥方様」
「道中、私達を助けて下さいました」
ネラが言い添え、にこりと笑いかける。タズは照れくさくなって頭を掻き、己の爪先に視線を落とす。セナトはそんな彼を見てちらと皮肉な笑みを浮かべ、それから真顔になって母親を見上げた。
「母上、積もる話もありますが、まず身づくろいと食事をさせてください。タズにも随分世話をかけたので、出来る限りのもてなしを」
「ええ、ええ、そうね。すぐに湯を用意させましょう」
フェルネーナは涙を拭い、女中や、集まってきた使用人たちに次々と指示を出した。タズはセナトの後ろ頭を困惑気味に睨み、おまえ絶対何か企んでるだろう、と言いたげな顔をする。もちろん、セナトは振り向きもしない。
そうこうする間に、タズは召使に案内され、湯殿に放り込まれた。
一介の見習い水夫では経験するべくもない、恥ずかしくなるほど親切丁寧な世話をされて、ようやく解放された時には、タズは心底ホッとした。が、苦難はそれだけでは終わらなかった。
新しい服に着替え、全身からふわふわ花の香りをさせた彼が次に案内されたのは、食堂だった。広くて装飾も豪華で、彼にはとても寛げそうにない。のみならず、本国式に、中央に低いテーブル、周囲に身を横たえるためのクッションや脇息が用意されていたのである。
本国での正餐に招かれたことなどないタズは、すっかり上がってしまった。しばらく迷い迷って、結局、遠慮がちに胡坐をかく。それでも腰が落ち着かず、いつまでもごそごそ身じろぎを続けていると、既に寛いでいたセナトがタズに向かってにんまりした。腹の立つガキめ、とタズは心中で唸る。
すると、これ以上苛めたら金持ちの傲慢になると察してか、セナトがひょいと身を起こし、タズの真似をして胡坐をかいた。
「まあ、セナト、なんです」
フェルネーナが目をぱちくりさせる。咎める口調でなかったのは、タズを慮ってのことだろう。それが分かってタズは赤面したが、セナトは平気な顔だった。
「普通の家ではね、母上、横にならずに座ったまま食事をするんです。そんなに広い場所がないし、のんびり食事を楽しむだけの時間もないから。この一年余り、私もそうでした」
母親にそう説明してから、セナトはタズに向き直った。その表情にはもう、からかう気配はない。
「でもねタズ、今日はゆっくり時間をかけた食事になると思うから、クッションと脇息を使うといいよ。座ったままだと胃が圧迫されて、消化に良くないんだよ。だから横になった方が、楽に、たくさん食べられる。きっとタズの気に入るよ」
笑いながら説明して、こんな風に、とセナトは手本を見せる。タズがおずおずとそれにならうと、セナトは自ら、タズの心地が良いように、クッションの位置を直してやった。
屋敷を出る前はとてもありえなかった光景に、フェルネーナや召使はただただ呆気に取られている。最初に出迎えた女中が、これは本当にあの坊ちゃまかしら、と疑うように眉を上げたので、見ていたネラがとうとう笑いだした。
「セナト様、ご成長の証をあまり一度に披露しては、お母上が驚かれますよ」
「そうだね」
セナトは笑って、ぺろっと舌を出した。そんな仕草にもまた、フェルネーナが目をぱちくりさせた。
「男の子の成長は突然だというけれど、本当に見違えるばかりだわね」
感心したというよりは呆れた風情で言い、彼女は軽く首を振ってから、タズに目を向けて微笑んだ。
「お礼が遅くなりました。セナトを助けて下さったとのこと、感謝しますよ」
「いやそんな、改まって言われるほどの事は、何も」
タズは返事に困ってもにょもにょと言葉を濁す。途端にセナトが悪戯な笑みを顔いっぱいに広げた。
「僕の為じゃなくて、ネラの為だもんねぇ」
「セナト様!」
こらっ、とばかりにネラが叱り、タズも状況を忘れてセナトを睨みつける。セナトはおどけて首を竦め、くすくす笑った。
三人のやりとりに、フェルネーナは置いてきぼりを食った犬のような、困惑の表情を浮かべる。セナトはそんな母親を慰めるように、少しずつ、皇都から逃げ出した時の話を始めた。
都の下町に隠れたこと、逃亡を決意し、シロスまで姉弟として旅したこと。書店の手伝いに雇って貰ったこと、街での生活、そして再びの逃亡。
タズがまだ知らなかったこともあり、気がつくと彼は料理を口に運びながらセナトの話に聞き入っていた。フェルネーナも息子の話にすっかり夢中になっていたので、タズは女主人の前で無作法を恐れて緊張することもなく、贅沢な料理を腹いっぱい詰め込む事が出来た。
セナトは大森林での出来事を、あまり詳しくは語らなかった。外界との隔絶を望むフィダエ族の意志を尊重したかったし、ファーネインのことは、心優しい母親には刺激が強すぎると判断したのだ。ただ、タズの友人の元にいた筈の孤児が森に逃げ込んできたので、外界のことが心配になった、とだけ話した。




