1-2. 秘密を胸に
慌しくグラウス将軍がクォノスを発つ頃、ネリスは神殿でファウナを手伝って、部隊の面々の繕い物をしていた。上着をひとつ仕上げたところで、肩が凝ってしまい、うんと伸びをする。
「頑張ったわね」ファウナが笑った。「息抜きがてら、それを届けていらっしゃい。ついでにちょっと散歩してもいいけれど、あまり変な場所に入り込まないようにね」
「はぁい」
助かったとばかり、ネリスは笑顔で答えて立ち上がった。上着を畳んで腕にかけ、いそいそと小走りに部屋を出る。
仲間達あるいは神殿の方の用事で、ネリスがちょくちょく兵営に入るのも、いつの間にか見慣れた光景になっていた。すれ違う兵士達も、最初ほど妙な顔をしなくなった。たまに一人二人が、「よう、坊主」と親しみのこもったからかいの声をかける。
ネリスの方も兵営に慣れて、部隊の部屋へは迷わず、どころか何通りかの行き方で、辿り着けるようになっていた。
「……って、思わないか?」
廊下の向こうから声がして、ネリスはおやと目をしばたいた。聞き違いでなければ、この上着の持ち主のようだ。そこらで立ち話でもしているのだろうかと訝りながら、角を曲がる。声は、少し先の部屋から漏れていた。
(あれ? あそこ、皆の部屋じゃないはずだけど)
人違いかな、と思いながらも、一応確かめてみようとそちらへ向かう。ここで上着を渡してしまえたら、手間が省ける――そう思ったのだ。
「だよなぁ。ヴァルトさん、そんな人には思えないけど……なんでか、フィンには厳しいよな」
(あ、やっぱりそうだ)
プラストについて来た、元ウィネアの軍団兵だ。外見も声もそっくりな双子の青年で、いまだにどっちがどっちか、ネリスには判別できない。
「出世したいなら、させてやりゃいいじゃん。なぁ?」
「実際、あいつのおかげで俺達、何度も助かってるんだし」
身内が誰もいないところで交わされる兄の噂に、ネリスは知らず忍び足になっていた。そっと息を殺して、壁伝いに近付く。
(褒められてるのかな。お兄ってば、結構人気ある?)
どきどきしながら聞き耳を立てる。双子の会話はまだ続いていた。
「そりゃ確かにあいつは、ちょっと怖いぐらい剣の腕が立つけど」
「ああ、あの時だろ? 山で……あの言い方はないよなぁ」
(そうよそうよ、もっと言ってやって!)
兄に味方のいたことが嬉しくて、ネリスは一人密かにぐっと拳を握った。
と、そこで不意に双子の片割れが、室内にもう一人いることを教えてくれた。
「プラストさんは、ヴァルトさんとは付き合い長いんですよね? ああいう人なんですか?」
「ああいう、とは?」
静かな声が応じた。一気に場の空気が冷えたような気配がして、壁の外側に張り付いているネリスまでが、どきりと緊張する。
「ええと……つまり、あんまり気に入らない若造がどんどん偉くなってったら、ちくちくねちねち苛めるような人か、ってことです」
「いやあの、違うとは思うんですよ」語尾に重ねて、もう一人が慌てて言い訳する。「でもほら、これだけ長く一緒にいると、どうしても気になって」
「不公平だって気がするし」
「もしこのままヴァルトさんがフィンにあんまり突っかかるんなら、何とかしないと」
矢継ぎ早に二人が喋る。それを、プラストはため息ひとつで黙らせた。
気詰まりな沈黙が降りる。外にいるネリスも、次第にまずい所へ来合わせたと後悔し始めていた。だが、プラストの答えが気になって立ち去れない。
ややあってプラストが、つぶやくように言った。
「おまえ達には関係ない。ヴァルトだけの問題だ。だが、おまえ達がヴァルトを誤解し、器の小さい男だと蔑むのは、俺の望むところではない。聞いても決して後悔しない、誰にも言わないと誓えるのなら、わけを教えてやる。出来ないなら、何も聞くな。ヴァルトの態度は個人的な理由があってのことだと、ただ弁えておけ」
そしてまた、沈黙。目顔で相談しているのであろう、双子の身動きする音が聞こえた。次いで、ぴたりと重なった二人分の声が。
「誓います」
ほとんど聞き取れないほどの声だったにもかかわらず、その言葉はネリスの胸に重く落ちてきた。
(誓い……誓わなくちゃ、あたしも。それが出来ないなら、聞いちゃいけない)
だが誓えるのか。彼女が迷っている間に、プラストが再びため息をついた。ネリスはぎゅっと目を瞑り、耳をふさごうとしたが、手を上げると腕から上着が落ちそうになって、出来なかった。
――そして。
「あいつの親父が、ヴァルトの妻子を殺したからだ」
短い言葉が、ふさがれなかった耳に滑り込んだ。ネリスはその場に凍りつき、指一本動かせず、息まで止めてしまった。
(嘘だ。父さんがそんなこと、する筈ない)
そう考えてから、はっと気付いて息をつく。違う、オアンドゥスではない。フィンの、実の父親のことだ。
(実のお父さん――ああそうか、知ってるんだ。皆、知ってたんだ)
不意に理解できた。
ずっと昔、孤児院の院長と何回目かの面談に行ったオアンドゥスが、ひどく怖い顔で帰って来た理由が。オアンドゥスがフィンを、あれほど強く弁護する理由が。
(全部、そういうことだったんだ)
衝撃のあまり、涙がこぼれていることにも気付かなかった。
その間にも、プラストの声は語り続けていた。
「ヴァルトは昔、テトナやナナイス近くを荒らし回っていた盗賊に、妻子を殺された。帰るのが一足遅かったんだ。だからあいつは、引きあげる直前の盗賊と出くわして、その顔をまともに見た。……フィニアスは、奴にそっくりだそうだ」
「どうして、盗賊の息子が粉屋に?」
「そんなことまで知る必要があるか?……やれやれ。ナナイスで一味が捕まった時、女の一人が産み月だったそうだ。当時の市長がはからって、女は赤ん坊を産んでから処刑された。で、産まれた子はすぐ孤児院に預けられて、やがて粉屋に引き取られたわけだ」
「でも……でも、それはフィンのせいじゃないですよ! あいつは何も知らないんでしょう? 親が人殺しだからって」
青年が勢い込んで言いかけ、その先を飲み込む。ネリスは壁に頭をもたせかけて、震える息を吸い込んだ。
(親が人殺しだからって、子供には関係ない。でも)
かつての仇とそっくりな顔をして、冷徹に敵を倒す若者を目の当たりにして、そう言い切れるわけがない。何も知らない者でさえ、彼の冴えた戦いぶりには背筋が寒くなるのだから。
ましてや、そんな若者が竜の力を手に入れ、皇帝や将軍と肩を並べる存在になるかもしれない、となれば……。
部屋の中が静かになった。ネリスはつまずきそうになる足を必死でなだめ、一歩一歩、そこから遠ざかった。
(お兄には関係ない。だって、レーナがきれいだって言うぐらいなんだから。お兄は違う、人殺しなんかじゃない、だって)
自分のぶんの蜂蜜ケーキを分けてくれた。階段でこけかけたら、手を引いてくれた。悪態をついても、殴っても蹴っても、決して反撃しなかった。叱られて泣いていたら、黙って頭を撫でてくれた。
次々に思い出がよみがえって、ネリスは堪えきれずにしゃがみこんだ。抱えた上着に顔を埋めて嗚咽を押し殺す。
しばらくそうしてから、ネリスは不意にがばっと顔を上げた。
(いけない、こんなところ誰かに見られたら)
何でもないと言ってごまかせる顔ではないだろう。フィンの耳にも、妹が廊下で号泣していた、などという報せが入るに違いない。
(それに、このまま神殿に戻ったら、母さんにばれる。母さんは……お兄のこと、知ってるんだろうけど、でも)
きゅっと唇を噛み、上着についた涙の跡を睨む。
両親は、ネリスが何も知らずにいることを望んでいるのだろう。わだかまりなく、疑いもなく、妹が兄を心から受け入れられるように、と。
(だったら……だったら、知らんふりしてやろうじゃないの。見せてやるわよ、知ってたって知らなくたって、あたしは何も変わらない、って)
涙を拭い、すっくと立ち上がる。それから彼女はゆっくりと限界まで息を吸い込み、勢い良く吐き出した。胸の奥に生まれた黒いもやもやを、すべて一緒に出してしまいたかったのだ。
どうやら成功したらしい。少しすっきりした気分で、ネリスは一人、気合を入れるようにうなずいた。
「大体ねぇ」
小さくぼやいてみる。声は震えなかった。よし、いいぞ、と、今度はしかめっ面に苦笑を浮かべた。
「なんであたしが、あんな墓石兄貴のせいで、ぐるぐる考えなくちゃならないわけ? どうだっていいじゃない。そうよ、お兄が何だってのよ」
ひとしきり文句を言ってから、ネリスはふと横を見て、中庭に出る戸口の段差に目を留めた。しばし胡散臭げにそこを睨み、ため息をひとつ。
「……ツケとくからね、お兄」
不吉に唸ってから、彼女は思い切ってそちらへ踏み出した。
しばらく後、神殿に戻ってきたネリスは、派手に砂まみれになっていた。驚いたファウナに、彼女はよれよれになった上着を持ち上げて見せ、いわく。
「せっかく繕ったのに、転んで破いちゃった。悔しいったらないわ」
いささか無理のある強がりに、ファウナは不審げな目をしたが、結局は娘の言い分をそのまま受け入れた。
「あと半年で十六になる娘だとは思えないわねぇ。もう少し落ち着いて欲しいんだけど。ほら、上着は私が洗って繕いますから、あなたは着替えて、すりむいた膝に薬を塗ってらっしゃい」
はぁい、と答えてネリスが部屋を出て行く。その後姿を見送り、ファウナはこっそりため息をついたのだった。




