表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰と王国  作者: 風羽洸海
第一部 北辺の闇
8/209

1-8.命運をかけて


 きつい労働を終えて、ぎしぎし痛む体を引きずりながら兵営に戻ったフィンは、隊長じきじきのお出迎えを受けてどっと倍加した疲労に潰されかけた。

「そう嬉しそうな顔をするな」

 マスドは楽しげに言い、ついて来い、と顎で呼びつけてさっさと歩き出した。いつもと変わらぬように見えて、違和感のある態度。はて、とフィンは眉を寄せ、それから気付いて目をしばたたいた。

 いつもなら、マスドは誰かを寄越してフィンを呼びつけるはずだ。どうせ隊長室に行くのなら、何もわざわざ彼が迎えに来ることはない。

 怪訝に思いながら部屋に入ると、マスドは手振りで、ドアを閉めろ、と命じた。これも、いつもと同じようでいて滅多にないことだ。いやな予感がする。

 フィンが立ち尽くしていると、マスドはひらりと一枚の羊皮紙を差し出した。

「特命だ」静かな、しかし威圧的な声。「おまえにはこれを届けてもらう」

「届ける、って……どこへ?」

 フィンの問いに、マスドは中身を読めというように顎をしゃくった。いいのかな、と遠慮しながらフィンは羊皮紙に目を落とす。美しくはないが読みやすい文字と、軍人らしく無駄のない簡潔な文章。それは、ウィネアに駐屯している軍団に救援を求める、声なき叫びだった。

 給料が届かず大量の脱走兵が発生、今ではナナイスの市壁に頼って闇の獣を退けるのが精一杯であること。食糧の調達も日々困難の度合いを増し、市民にも不安と絶望の広まっていること。

 これまでにも再三援軍を要請してきたが、その文書は届いていないのか。せめてそちらの状況だけでも知らせて欲しい――

 フィンは最後まで読み終えると、愕然としてマスドを見つめた。目の前にいる男が、今までとはまったくの別人に思われた。何もしていなかったわけではない。彼はあがいていたのだ。フィンが無感覚に陥り、自分の周りの狭い世界しか認識しなくなっている間も。市民の多くが目先のことにとらわれ、どこからか食べ物を得ることだけに必死になっている間も。

 フィンの目に浮かぶ恐れと敬意を見て取り、マスドは口をへの字に曲げて顔を背けた。わざとらしくため息をつき、頭を掻く。

「あんまり何度も同じことを書いたんで、今じゃそらで言える。今回も無駄かも知れん。だが“生き返った”奴にしか行かせられんからな」

「どうしてです?」

「馬鹿。死んでる奴が野宿で一晩しのげるか?」

 さらりと言われ、フィンは冷水を浴びせられたように身震いした。目の前が暗くなり、何対もの青い光点が浮かび上がる。

(あれを乗り切れるのか。たった一人で、せいぜい焚き火だけで)

 それに挑むのが自分なのだと考えると、心底ぞっとした。

「希望もないのに必死で使命を果たせるか? ウィネアだって状況は同じかもしれん。何もかも投げ出して、火を消して野っ原にひっくり返っちまや、朝にはあの世だ。その方が面倒がなくていい。その誘惑に勝てるのは、まだ生きてる奴だけだよ、小僧」

 マスドは淡々と続けながら、羊皮紙を取り返し、木の棒にくるくると巻きつける。軍の特命のしるし、赤いリボンを巻いて、封蝋を垂らして印を捺す。習慣化された動作に、かつての軍団兵の名残が見えるようだった。

「そら」

 差し出された巻物を、フィンはすぐには受け取れなかった。ごくりと固唾を呑み、その端を凝視する。

 いずれナナイスは落ちる。ここを出て行かなければ――そう考えたのは事実だ。しかし、たった一人で、それも今すぐ?

 怖気づいたフィンに、マスドは皮肉っぽく笑った。

「なんだ、やっぱり墓穴に戻るか? そうしてもいいぞ。だが行くのなら、食糧と馬一頭、剣と弓矢程度は揃えてやれる。もし志願する奴がいれば一人二人連れてってもかまわんが、そいつらの分までは保証しない。それに」

 と、彼は壁に張られた古い地図を見上げた。

「一人で、全力で走れば、日没までにどこか無事な村に着けるかもしれん。着けないかもしれん。それは俺にもわからん」

 言われてフィンも地図を見やり、どきりとした。ナナイス近郊の地図だ。街道に沿って点在する小さな村々。そのいくつがまだ持ちこたえているだろう? 自分たちの風車小屋があれだけ頑張れたのだから、人手も物資も余裕のある村なら、あるいは……。だが、一人で日中を駆け通して疲労困憊し、挙句に辿り着いたのが廃墟でしかなかったら。

(その時点で終わりだ)

 何かの奇蹟でも起こらない限り、夜明けまでにはこの世とおさらばだ。ではやはり、人数をある程度揃えて、時間はかかっても交代で夜を乗り切れるように準備すべきか。

 考えているうちに恐怖は鎮まり、冷静な計算がはたらきだす。

「志願しそうな兵がいるんですか?」

「イグロスが行くだろう。まだ新しい特使のことは知らせてないが、あいつはテトナに親類がいて、安否を確かめたがってる。ウィネアへの通り道だからな。一人で行く気にはなれんらしいが」

 にやりとマスドは歯を剥いた。あからさまな侮蔑の表情。フィンはそれを無視して、さらに問うた。

「俺の計画はどうなりますか。フィアネラ様は、やってみるとおっしゃってましたが」

「だったら、心配するな。どっちみち食糧はなんとかせにゃならん。兵どもは当直をこなすので精一杯だが、神殿が動けば町の死人どもも、少しは生き返って働くだろう。こっちが用意できるのは種籾やら何やらと……あとは、おまえがぽろぽろ撒き散らした希望のタネとやらがせいぜいだな」

 またしても厭味。フィンは心中で五つ数えて苛立ちを抑え、ゆっくり息を吐いた。

「……家族に会って来ても構いませんか」

「ああ。次の当直が回ってくるまでなら、いつ出発しても構わんぞ。送別会もなしだ」

 そら、ともう一度、巻物が突き出される。フィンは覚悟を決めると、それを受け取り、しっかりと握り締めた。

 一度こうと決意を固めると、フィンはぐずぐずしていなかった。きびきびした足取りでまず倉庫に行って必要な旅装を受け取ると、自分の部屋に戻り、てきぱきと片付けを始める。

 身ひとつでこの兵営に来たフィンも、一月あまりの間に細々した品物を手に入れていた。小さな砥石や革砥、剃刀、石鹸の欠片といった身の回りの必需品。同じ当直の夜に死んだ兵から譲り受けた、効果のなさそうなお守り。同じく、それよりは役に立つ小刀。だんだん伸びてきた髪を括るための、細い紐。

 そうしたものをまとめ、手際よく鞄に入れて行く。

 窓の外を見やり、黄昏が降りてきているのに気付くと、フィンはふむと考えた。

(出発は明後日の夜明けがいいな)

 明日、ネリスやおじさんたちに挨拶をしてこよう。それから神殿に行って、フィアネラ様に祝福を授けて貰って。……夜明けと同時に出発すれば、日のある内に距離を稼げるだろう。連れがイグロスだけなら、相当進めるはずだ。途中に無事な村があれば、無理せずそこで一晩泊まることにすればいい。

 よし、と自分の計画に満足し、フィンは鞄の紐を縛った。

 大丈夫、きっと辿り着ける。ウィネアから援軍が派遣されたら、ナナイスの状況も良くなるに違いない。そうすれば、おじさんもおばさんも、ネリスも――あの少女も、まともな暮らしに戻れる。

 頭の中でさえ、かも知れない、だの、もしかしたら、だのといった言葉は使わなかった。そうなる、のだ。それ以外にはない。

 フィンは自分に言い聞かせ、計画の実現を信じた。

 ――ところが。

 あにはからんや、鉄壁の計画は実行に移した途端、つまずきよろめき頓挫してしまったのである。

 フィンはすっかり途方に暮れて、クナド家の庭に立ち尽くしていた。目の前には憤懣やるかたなしといった風情のネリス。その背後には岩山の如くオアンドゥスが腕組みして立ち、さらに大海の女神アウディアよろしくファウナが問答無用の笑顔で控えている。三重の壁を突破するには、フィンの声音はあまりに頼りなかった。

「馬鹿なことを言うんじゃない、ネリス」

「馬鹿はそっち」

 ぴしゃりと言い返され、フィンは実際にひっぱたかれたように顔をしかめた。

「いくらフィン兄が強くなったからって、相棒が兵隊だからって、二人だけでウィネアまで辿り着けるわけないじゃない。あたしにだってそのぐらい分かるよ。一晩だけなら、そりゃ二人でもなんとかなるかもね。でも、ウィネアまで何日かかると思う? もし途中でその相棒が闇の獣にやられたら、病気とか怪我とかしたら、お兄ひとりだよ? 馬鹿じゃないの。いーや、馬鹿だね! 本っ当、がっかりだよ!」

 容赦なく決め付けられて、フィンはさすがに渋面になった。いつもの兄妹喧嘩なら適当なところでネリスをたしなめてくれる養父母も、今回ばかりは当てに出来なかった。

「俺もがっかりしたぞ、フィニアス」オアンドゥスが重々しく言う。「おまえは俺たちに何の相談もなく、家族を放って、一人で行くことを決めてしまったんだからな」

「おじさん……でもこれは、今までのような事とは違うんです」

「違わんね。おまえが兵営にひとりで行っちまった時、俺は情けなくも黙って見送るしかなかった。もう一度同じ事をさせるつもりか? いいや、俺はおまえと行くぞ」

「でも!」

 フィンは声を荒らげた。彼らは分かっていない、あの当直の夜の恐ろしさを。家の中で明かりを灯して身を寄せ合っていた、風車小屋での夜とは違うのだ。身を守ってくれる壁もなく、頼りの炎は風に吹きさらし。もし雨が降ったら……。

 家族を失うなんて、耐えられない。それぐらいなら、別れ別れになる方がましだ。

 言葉にしたわけではなかったが、フィンのひきつった顔から恐怖を汲み取ったらしく、オアンドゥスも心持ち怯んだ表情を見せた。だがそれでも彼は、無理に笑顔を作って見せた。

「分かっている、俺達では足手まといかもしれん。だが交代で火の番をするぐらいは出来るし、奴らに石を投げてやることも出来る。人数が多ければ、それだけ生き残れる可能性は高くなるさ」

「……なら、せめておじさんだけに」

「駄目だってば!」すかさずネリスが口を挟んだ。「ここにあたしと母さんだけ残して行くつもり? この町で身寄りのない女がどれだけ危険な立場か、お兄も知ってるでしょ」

 鋭くささやかれて、フィンはたじろいだ。そう、残していくのは自己満足に過ぎない。目の前で危険に晒すよりは、目を背け、きっと安全に過ごしているさと己を騙している方が気楽だという、それだけのこと。

「ウィネアまでの食べ物なら、フィアネラ様がなんとか融通してくださるわ」

 ファウナが優しく言った。一月あまりの間に、ふくよかだった頬はすっかり肉が落ちていたが、その笑みの柔らかさは変わっていない。

「実はこっそり隠しておいた分も、少しあるから」

「えっ!? 母さん、いつの間に! ずるいっ!」

「へそくりは賢い主婦なら必ずしているものよ、ネリス。覚えておきなさいね。そうして、いざという時に使うの。家族の一大事だとか」

 旦那に愛想を尽かした時とかね、と、これは小声でこそっと付け足す。オアンドゥスがなんとも複雑な顔になり、ネリスはけたけた笑った。久しぶりに家族の温かさに接したフィンも、自然と顔をほころばせる。

「……ありがとう」言葉が口をついた。「本当は、一緒に来て……欲しい、です」

 不覚にも、涙がこぼれそうになった。フィンは慌ててうつむき、唇を噛んでごまかす。そんな息子の肩に腕を回し、オアンドゥスは黙ってぐしゃりと頭を撫でてやった。

 一方ネリスは「素直にそう言えばいいのよ!」などとやはり減らず口を叩いたが、その顔には照れ臭そうな笑みが浮かんでいた。

「そうと決まったら急がなくちゃ! って、これ、前にも言った?」

 ふとおどけたネリスに、ファウナが笑う。

「そうね、せっかちさん。今回は前ほど準備しなきゃならないものはないけれど、また困った愚息がごねはじめない内に、用意してしまいましょう。さあ、あなたは他に用事があるんでしょう? もう行って。でも、くれぐれも、私達に黙って出て行かないで頂戴ね」

 ファウナはフィンの両頬を優しく挟み、そっと額に口付けした。フィンはうなずき、抱擁を返す。

「出発は明日の夜明けです。それまでに、もう一頭ロバか馬を貰えないか、隊長にかけあってきます」

 身を離し、彼は久しぶりに悪戯っぽい笑顔を見せた。

「どうせ明日限りだと思えば、無茶な頼みもしやすいですからね! 機嫌を損ねたって構やしません。それじゃ!」

 おどけて言うと、フィンは軽く手を上げて別れを告げ、軽やかに走って行った。


 結局、翌日の夜明けと共に城門を出たのは、フィンとその一家、それにイグロスを含めた人間五名と、馬が二頭だった。

 見送りはいない。当直明けの、半死半生の男たちが互いに肩を貸し合って、のろのろと入れ違いに壁の中へと戻って行くだけ。

 薄明の中に伸びる街道は、うっすらと仄白く、彼方で黄泉へと続くかに見えた。

 フィンは頭を振り、その連想を払い落とした。違う。あの道は地上を走っている。遥か南西、テトナを経由して、州都ウィネアまで――そして俺たちは、そこへ行くんだ。

「さあ、出発しよう」

 彼は静かな声で、しかし強い信念を込めて告げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ