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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
77/209

5-8. 立ち向かう意志

 滴る緑、とはまさにこのことだ。

 セスタスはぼんやりと木々の威容を見上げながら、そんなことを思った。この森では天気もほとんど変わらず、常にしっとりと空気が濡れている。

 地面も、樹木の幹も、柔らかな苔に覆われてふんわりと優しい。

「外ではもう、冬至祭が終わっているだろうね」

 話しかけるでもなく、独り言というわけでもなく。言葉を、この濃密な緑の空気にふわりと載せるように、そっと口にする。

 セスタスの視線の先では、ファーネインが膝を抱えて座っていた。何かが見えているのか、それとも何も見ていないのか、宙を見上げたまま、わずかにゆっくりと体を揺らし続けている。

 その足元に、空になった皿と水の椀が置かれていた。セスタスの膝にも、同じものがある。二人の間は十歩ほどの距離があったが、そこまで近付けたのはここ数日のことだった。

 いまだにファーネインは、セスタスをまともに見ようとさえしない。だが存在を意識してはいるようで、彼がうっかり唐突な動作をすると、小さな肩がびくっと震えた。

 今日はまだ脅かしてはいない。セスタスは注意深く皿を地面に置いて、子守唄のように話し続けた。

「君は冬至祭を見たことがあるのかな。ナクテではね、広場に大きな樅が用意されて、皆で飾りつけをするんだ。そのまわりで、歌ったり踊ったり、……ピソルも食べたっけ。知ってる? 麦粉の生地をねじって揚げたお菓子。いい香りの粉がまぶしてあってね、蜂蜜の味がするんだ」

 懐かしい味が鮮やかに思い出され、口の中に唾がわいてくる。セスタスはごくんと喉を鳴らすと、気恥ずかしくなってファーネインの様子を窺った。少女はそんな彼の様子など、まるきり無視している。だが、宙を見つめる横顔が少し穏やかなように思われて、セスタスはほっと微笑した。

「……そうだ。冬はよく、母上が寝る前にお話を聞かせてくれたんだけど、ひとつ君にも教えてあげるよ。雪の夜に、凍えた野兎が小さな洞穴を見つけるんだ。そこは暖かくてとっても居心地がいいんだけど、意地悪な魔物が一匹、住んでいたんだ……」

 野兎が機知を使って魔物をやりこめ、無事にねぐらへ帰りつく頃には、ファーネインは苔むした倒木にもたれかかって、とろとろとまどろんでいた。眠気を誘う退屈な話ではないのだが、内容は恐らくどうでも良いのだろう。安全だと分かっている人間の声が、そばで穏やかに続いている、そのことで緊張がほぐれたに違いない。

 小さな寝息に気付き、セスタスはちょっと目をしばたいた。それから自分もつられて、ふあ、と欠伸をする。

 僕も一眠りしようかな、と目をこすったところで、茂みの陰からこっそりこちらを覗いている人影に気がついた。タズだ。

 自分で言った通り、彼はいつも遠くから見守っていた。あの少女は、大人の、特に男が怖いようだ――そう村人から聞いた彼は、大真面目に女装しようかと検討したりもしたのだが、セスタスとネラに止められて諦めた。

 その結果が今、セスタスの見ているものだ。頭に羊歯の葉を茂らせた、滑稽な擬装。

(どこまで本気なんだろう)

 セスタスは胡散臭げな半眼になって、はあ、とため息をついた。彼なりに真剣なのか、それともセスタスの――あわよくばあの少女の、笑いを取ろうとしているのか。

 タズの『ダチ』とやらも、さぞ苦労したに違いない。それとも類友なのだろうか。

 だったら嫌だな、などと失敬千万なことを考えながら、セスタスは人差し指を唇に当てて、しーっ、と合図した。タズは了解のしるしにうなずき、静かに、カサリとも音を立てず忍び寄って来た。そして初めて、眠っている少女の顔を見て――

「――ぁ」

 驚きのあまり、喘ぎを漏らした。それは本当に微かな、声にもならないかすれた吐息だったが、しかし、少女の目を覚まさせるに充分だった。

 ファーネインがわななき、弾かれたように起き上がる。タズは反射的に飛び出して、少女の腕を捕らえた。

 鼓膜を破りそうなほどのすさまじい悲鳴が響き渡る。セスタスは思わず耳をふさぎ、次いで猛然とタズに掴みかかった。

「何するんだ、放せよ! この馬鹿ッ!!」

 だが、彼の力ではタズの逞しい腕には到底かなわない。タズは泣き喚くファーネインをしっかりと抱きすくめ、セスタスを片手であしらった。

「聞いてくれ、なぁおい、フィンのとこにいた子だろ!? フィンだよ、フィニアス! 覚えてないのか?」

 悲鳴に負けまいと、タズが声を張り上げる。顔をひっかかれ、頭の羊歯を髪と一緒にむしられ、小さな足で腹をめちゃめちゃに蹴られながらも、腕は緩めない。

「名前……名前、ええと、フェ……ファ、そうだ、ファーネイン! だろ、なぁ! ネリスとかフィンとか、一緒にいただろ!? 友達だよ、俺はフィンの友達なんだ、だから何もしないって!」

 言葉が耳に届いている様子はなかった。ファーネインは必死になって暴れ、泣き喚き続ける。気がつくとセスタスまで、一緒になって泣いていた。

「やめろ、放せったら! やめろよ!!」

 二人がかりで殴られひっぱたかれ叫ばれて、それでもタズはファーネインを放さなかった。今、手を離せば、いっそう森の奥深くに逃げ込んでしまうのは目に見えている。可哀想だとは思ったが、それを許すことは絶対に出来なかった。

 あまりの騒ぎに、ネラが血相を変えて駆けつける。彼女は状況を見ると、はっきりとした事情は分からないまま、セスタスをタズから引き離した。

 タズに捕まったファーネインは、暴れすぎて息切れし、赤い顔でひくひくと痙攣している。

「いけない」

 ネラは顔をしかめ、タズの手からファーネインを奪い取った。直後、ファーネインは体を丸め、先刻食べたものを全部吐いてしまった。

「大丈夫、大丈夫よ」

 ネラは優しくなだめながら、背中をさすってやる。タズは慌てて辺りを見回し、セスタスの椀にまだ水が残っているのを見つけて差し出した。ネラがそれを使い、ファーネインの口を洗ってやる。咳き込む少女を介抱しながら、ネラはきっとタズを睨んだ。

「なぜこんな無茶を」

「…………」

 タズは答えず、深く息を吐いて、ファーネインの傍らに膝をついた。苦しげにむせている少女に、タズは気遣わしげに手を伸ばしたが、触れるのは諦めた。代わりに、出来るだけ姿勢を低くして、懇願するように話しかける。

「ファーネイン。だったよな? 名前、違ってたら言ってくれよ。フィンの奴はどうしたんだ? ネリスとか、オアンドゥスさんも、一緒に暮らしてたよな。コムリスで粉屋をやってただろ。なんでおまえだけこんな所にいるんだ? なぁ、頼むよ、教えてくれ。あいつはどうしたんだ」

 問う声は次第に震え、しまいには、情けないほど涙声になっていた。

 ファーネインは答えない。ネラにしがみつくこともせず、身を守るように手足を丸めて、出来る限り小さくなっているだけ。タズはそれを見つめ、黙ってしばらく返事を待ったが、少女はぴくりとも動かなかった。

 タズは歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑ると、苔の上で拳を握りしめた。口を開けば溢れ出しそうな様々の思いを堪え、静かに立ち上がって村の方へ戻って行く。セスタスは怒りと屈辱のないまぜになった目で、それを見送った。

 せっかく、ここまで歩み寄れたのに。また少女の心を、頑なな殻に引きこもらせてしまった。セスタスはネラの腕の中でうずくまるファーネインを見つめ、やりきれなくなって走り出した。タズの後を追って。

 息を切らせて村に戻ると、セスタスは左右を見渡してタズの姿を探した。そして、自分達の住まいに目を留める。蔦を編んだ帳が揺れていた。

 荒々しく踏み込むと、タズの背中が目の前にあった。セスタスは怒り任せに拳を振り下ろす。

「何てことしたんだよ、馬鹿野郎! ろくでなし! よくも……!」

 思いつく限りの言葉で罵倒したが、タズはまったく相手にしなかった。それが余計に悔しくて、セスタスはタズの足を思い切り蹴飛ばした。流石にタズがうっと息を飲み、振り返る。その形相を目にして、セスタスの怒りは水を浴びせられたように消えた。代わって恐怖が背筋を這い上がり、膝は勝手にかくかく震えだす。後退ろうとして失敗し、彼はすてんと尻餅をついた。

 怯えるセスタスを見下ろし、タズはしばし無言だった。それから、沈痛なため息をひとつ、深く長く吐き出して、無言のまま、また背を向ける。

「……何、してるのさ」

 セスタスは精一杯強がって、言葉を押し出した。タズは振り向かない。

「悪ィな。俺、出てくわ」

 何の説明も前置きもなく、端的に告げられた別れ。セスタスはそれが理解できず、しばし呆然とした。その間にも、タズは荷造りを終えてしまう。

 そうして彼が一瞥もくれないまま言葉通り出て行こうとしたので、セスタスは反射的にその荷物を掴んで引き止めた。

「何なんだよ! 無理やりついて来たくせに、今度はいきなり出て行くのか!? 人を何だと思ってるんだよ、勝手すぎるぞ!!」

「ああ。勝手で悪い。けど、のんびりしてられねえんだ」

 タズは顔だけ振り向いて答え、見知らぬ他人にするかのようによそよそしく、セスタスの手を引きはがした。そのままふいと外へ出て行ったタズを、セスタスは真っ赤になって追いかけた。

「待てったら! 説明ぐらいしろよ!」

 と、いきなりタズはくるりと向き直り、叩きつけるように叫んだ。

「ダチが死ぬかもしれねえんだよ!」

 気迫に押されてセスタスが怯むと、タズは怒鳴った自分に対して舌打ちし、視線を落とした。何度目になるか、荒っぽいため息をついて気を落ち着かせる。

「……あの子は、コムリスで俺のダチが……フィニアスってんだけどな、あいつが世話してた孤児なんだよ。会ったのは一度きりだけど、滅多に見ないぐらい可愛かったから、よく覚えてるんだ。それがあんなザマで、こんな場所にいるってことは」

 吸い込んだ息が震え、言葉を継げずにタズは奥歯を噛みしめる。セスタスは愕然として彼を見上げていた。

 考えてもみなかった。酷い目に遭って逃げ込んできた少女にも、外の世界では親兄弟やそれに代わる人々がいた筈だ、ということを。あんな幼い少女が一人だけここまで逃げ延びてくるというのが、いったいどういう状況を意味するのかを。

「そ、んな……」

 かすれ声を漏らしたセスタスに、タズは幾分、口調を和らげて言った。

「ともかく、ここは安全なんだし、おまえにはネラさんがいて、ネラさんにはおまえがいるってわけだしな。おまえは身を隠すのが目的だったんだから、ここにいたらいいさ。けど、俺は……おまえを助けてやりたくて、くっついて来ただけだから。おまえがここに留まるんなら、俺はもう必要ないだろ?」

 無理に笑みを作り、セスタスの頭をくしゃくしゃにする。抗議の声は上がらなかった。

「フィンの奴が死にかけてっかも知れないんじゃ、のんびりしてられねえからさ。あいつの家族も、本当にいい人達なんだ。だから……本当に、悪いな。ファーネインにも謝っといてくれよ」

 分かってくれるかどうか怪しいけど、と自虐的に付け足し、タズはくるりと踵を返して歩きだした。未練も迷いもなく、きっぱりと。

 セスタスにはもう、引き止めるどころか罵倒さえ出来なかった。衝撃で何も考えられないまま、その場に立ち尽くす。

 ――と。

「待って下さい、タズさん」

 ネラの声がして、二人は揃って振り向いた。森の奥から一人で戻ってきたネラは、タズとセスタスを順に見て、静かに告げた。

「あなたのお友達は、あの子とは別れたようです」

「えっ……あの子、話してくれたんスか!?」

「話すというか、一言二言ですけれど。知らない、と言っていました。『フィン兄さん』も、『お姉ちゃん』も、いなくなった、って。具体的にどんな事があったのかは、とても聞きだせる状態ではありませんでしたが……あの子は、ここに来るしばらく前から、一人だったようです」

「そ……う、か……」

 タズは放心したようにつぶやいた。肩から荷物がずり落ち、ドサリと音を立てる。それが合図だったかのように、タズ自身もその場にへたっと座り込んだ。安堵したのではなく、ただ気が抜けた顔だった。それが、じきにまた緊張し、険しくなる。

「いや、でも、あいつがあんなちっこい子をほっぽり出すわけがない」

 タズは頭を振り、やっぱり行かないと、とばかり再度立ち上がる。

 その時にはセスタスの方も、まともにものを考えられるようになっていた。

「待ってよ」

 命令でも抗議でもなく、落ち着いた口調で頼む。タズが不審げな目を向けると、セスタスはまっすぐにその目を見返して言った。

「僕も行く」

「はぁ!?」

 いつぞやと立場が完全に逆になっていた。呆れ返ったタズに、セスタスは譲らぬ決意を込めて繰り返した。

「僕も行く。あの子を助けたくて、毎日食事を運んだりしたけど……それじゃ、駄目なんだ。やっと分かった。逃げて、隠れてたら、いつかは傷が癒えるかもしれない。でもその頃には、あの子がもう一度会いたいと思う人達は……手遅れかもしれないんだ。それじゃ、何の意味もない」

 セスタスは無意識に両親の顔を思い浮かべていた。

 そう、このまま隠れていれば、戦は起こらないかもしれない、起こっても知らずに済むかもしれない。だがそれでは、自分ひとりが傷つかないというだけだ。

 戦は嫌だと逃げた理由は、自分が怖いからだけではない。両親や、皇都で自分を匿ってくれたような人々を、苦しめたくないから――だったではないか。

「僕も行くよ。それで、その、フィニアスって人? 一緒に、捜す。ナクテに戻って母上とお祖父様に頼めば、人手を借りられる筈だから」

「おいおい、お坊ちゃん、おまえ」

 タズはぽかんとそう言ったきり、口を開けっぱなしにしてしまう。セスタスはその顔をからかいもせず、ネラに向かって続けた。

「あの子……ファーネインだっけ。少しは落ち着いた? そうか。じゃあ、夕食を持って行く時に、お別れを言うよ。ネラは荷造りにかかってくれるかい? 僕はウティア様を捜して、後のことを頼んでくる。それに、ナクテに近い森の北側へ出る道を教えて貰わなくちゃ。あの子が以前コムリスにいたのなら、北側から森に入ってきた筈だから、もしかしたら何か消息がつかめるかも知れないしね」

 きびきびと言って、彼は村の中央にある大樹へと走って行く。

 タズはその後ろ姿を見送り、ようやく我に返って瞬きすると、半開きの口から、は、と気の抜けた声を漏らした。

「は……はは、ははは! まったく、お坊ちゃんがいきなり大人になりやがって」

 笑いながら頭を振って言い、おっと、とネラに目をやる。むろんネラは無礼を咎めなどしなかった。一抹の寂しさをまじえた、満足の笑みを返してうなずく。

「あなたと、ファーネインのお陰ですね。すみませんタズさん、出発は少し待って頂けますか」

「ああ、そりゃもちろん、待ちますよ。そもそも俺、ここからどっち向いて出て行きゃいいのかも、分かってなかったし」

 自分で言って苦笑し、タズはごまかすように頭を掻く。ネラはおどけて目を丸くし、それからくすくす笑った。

「あなたのお友達は、そんなに大切に思われて果報者ですね」

「さあ、どうッスかね」

 タズは今さら照れ臭くなって、皮肉っぽい笑みでごまかした。

「あいつ本人はともかく、妹は可愛いし、おじさんとおばさんは本当にいい人なんスよ。あいつは放っといても自力で何とかするだろうけど、他がね」

 白々しく深刻ぶって言い、タズは腕組みなどして、一人うんうんとうなずく。ネラはあえてそれ以上『お友達』については触れず、温かな声で、荷造りを手伝って下さい、とだけ頼んだ。

 ネラが緑の帳をくぐり、タズも続こうと自分の荷物を担ぎ上げる。そこで彼はふと顔を上げ、梢の間にわずかに見える空を仰いだ。

(生きて、いるよな……?)

 おまえなら、きっと何とか切り抜けてるよな? あっさり死んだりなんか……

「……っっ!」

 縁起でもない、冗談じゃない、あり得ない。タズは激しく頭を振って不吉な考えを追い払った。だが、どんなに希望を持ちたくとも、消息を知る術はないのだ。

 今は、祈るしかない。

 タズは指でアウディア女神のしるしを作り、船上でよくしたように、それを額に当てて加護を願うまじないをつぶやいた。



(第二部・完)


※第一部同様、本来ならこの後に「幕間」が入っておりました。

出版にあたり書籍のみの収録としましたが、本編大筋の把握には問題ありません。


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