5-7. 白い神剣
「で、ありゃ本当かよ?」
ヴァルトに訊かれて、フィンは疲れた顔を上げた。なにが、と目だけで問うたフィンに、ヴァルトは芝居がかった仕草で天を仰いで腕を広げて見せる。
「天神デイアの制裁が下らんことを!……ってやつだよ。本当に天罰が下るのか?」
「そんなわけないだろう」
げんなりとフィンは答え、壁際の衣装櫃に目をやった。役目を終えた濃紺の服と深紅のマント、それに剣と剣帯がきちんと畳んで置かれている。上質の衣服は快適だったし、マントを翻して歩くのは少々恥ずかしいながらも気分が良かったが、今はそれを惜しむよりも、やっと終わった、という解放感でいっぱいだ。
「どうすればデイア神に願いを聞いてもらえるのかも知らないよ。あの台詞は事前に誰かが考えたんだ……皇帝かグラウス将軍か、彼らの秘書官か、ともかく、そういうはったりの得意な人がさ」
「なんだ、はったりか」
「決まってるだろう」
「ばらさなきゃいいのに。せっかく格好良かったんだから」
横からネリスが苦笑して口を挟んだ。マックもうんうんとうなずき、未練げに竜侯の衣装を見る。フィンは小さく首を振った。
「柄じゃないさ。必要だからやったまでだ。ようやっと役目が終わって一安心だよ」
「これからどうする」
ヴァルトが、不意に重い口調になって訊いた。フィンが訝しげに振り向くと、ヴァルトはふざけた気配を消して、じっとフィンを睨んでいた。
「おまえが望むなら、皇帝も将軍も、喜んでおまえを取り立ててくれるだろうよ。なんたって本物の竜侯だ。お嬢ちゃんの姿を見た時の連中の顔ときたら、なかったぜ。だがな、フィニアス。おまえがこのまま偉いさんの仲間入りをするつもりなら、正直に言って、俺ァ面白くねえ」
正直すぎる言葉に、場の空気が緊張した。フィンは敢えてあっさりと、「だろうな」と同意した。貴い生まれでもない、かつて部下だった田舎の若造が、いつの間にやら皇帝や貴族と肩を並べているなどとは。しかも、取り柄といったら“異常”な人殺しの能力だけ。出世してめでたい、と喜んでやれるわけがない。
「勘違いするなよ。別におまえが憎たらしいからってわけじゃねえ。小憎らしいのは確かだが、見込みのある奴だと思っちゃいる」
ヴァルトは険しい顔のオアンドゥスを見てそう注釈をつけると、フィンに目を戻して続けた。
「だが俺は、おまえのケツにくっついて、皇帝陛下に尻尾を振りながら皇都に向かうのは、ごめんだ。それぐらいならコムリスに戻って粉屋を再開するか、いっそウィネアのアンシウスに復職を願い出る。俺はおまえを利用したし、力を貸してやったし、仲間にもなったが、おまえの家来になった覚えはねえからな」
「俺だってそんな覚えはないよ。願い下げだ」
フィンは苦笑して憎まれ口を返し、気分を変えるようにうんと伸びをした。
「潮時だというのは同感だ。協定も無事に結ばれたし、皇帝と将軍に報酬を請求して、北へ帰ろうと思っていたところだよ」
反応は様々だった。ぱっと喜びに輝く顔、出世の好機を逃すのが惜しそうな顔、安堵と失望の相俟った複雑な顔。
――と、そこへ。
「それは残念だ」
ドアを開け、皇帝が現れた。流石に全員がぎょっとなり、大慌てで姿勢を正す。フィンは前に進み出ると、右手を左胸に当てて一礼した。グラウスに仕込まれた作法だ。
ヴァリスは供の一人も従えていなかった。何か細長いものを布に包んで小脇に抱え、質素ないでたちで、まるで雑用を頼まれた書記か何かに見える。彼は室内の面々を見回し、最後にフィンに穏やかなまなざしを当てた。
「そう畏まらずとも良い。今は公式の場ではないし、ここに来たのはごく私的な用のためだ。フィニアス、そなたには慣れぬ仕事を押し付けてすまなかったな」
「いえ。本国の情勢が少しでも落ち着くのなら、この程度のことはなんでもありません」
「そうか? なら、そなたの求める報酬も、ささやかなものであろうな」
しれっと切り返されて、フィンは言葉に詰まる。皮肉なのか本気なのか、口調からも表情からも読み取れない。見ようと思えば見えるだろうが、そうまでするほどのことでもなし。情けない顔をしたフィンに、ヴァリスは微苦笑した。
「いや、そなたをいじめるつもりはなかった。こちらなりに報酬は用意しておいたが、そなたの望みを先に聞くとしよう。新しい竜侯の骨折りに、我々は何をもって報いれば良い?」
「――自治、を」
反逆と取られかねない望みを口に出すのは、流石に勇気が言った。フィンは咳払いし、改めて言い直した。
「我々が北に帰って、自分達の手で町を取り戻し、暮らしを建て直すことを、許し認めて下さい。第八軍団がウィネア周辺を守るので精一杯だというなら、総督や市長を帝国の法に則って選び直している余裕がないのなら、ささやかな自治都市を認めて欲しいんです」
「既に北辺では、実質的にそうした状況になっているのではないのか」
ヴァリスが辛辣な声音で、つぶやくように答えた。元軍団兵の治める、孤立した町。税の徴収が出来ないのはもちろん、現状報告の要請も無視されたまま。
だがフィニアスが求めているものは違う、とヴァリスは思い直してため息を堪えた。
「無法化ではなく、あくまで帝国の一部としての自治ならば、喜んで認めよう。そなた達の手でそれがかなうのなら、むしろ私の方から頼みたい。町ひとつと言わず……だがそれは、そなた一人に一個軍団に匹敵する働きをせよと言うようなものだな」
やれやれとヴァリスは首を振り、持参した包みをほどいた。
中から現れたものに、フィンは思わず目をみはり、感嘆の吐息をもらした。
「これは……」
そう言ったきり、先が続かない。ヴァリスは興味深げにフィンを観察していた。
「やはり、そなたには分かるのか。私にもグラウスにも、いたって普通の剣にしか見えぬが」
その通り、布に隠されていたのは、一振りの古い長剣だった。材質は何なのか、まったく分からない。全体が黒ずみ、鞘と柄に施された装飾もほとんど形が見えない。
好奇心に負けたヴァルトやマックがそろそろと近寄り、皇帝のお咎めがないのをいいことに、興味津々と剣を見つめる。
「抜けるのか、これ」
ヴァルトが胡散臭そうにつぶやくと、ヴァリスはフィンに柄を差し出した。
「無論だ。グラウスに話を聞いて皇都の宝物庫から持ち出したものだが、一度抜いて状態を確かめてある。その目で見るが良い」
「…………」
フィンには彼らの声は聞こえていなかった。明滅する光となって目に映る剣の拍動が、意識に響いて雑音を消し去る。招くように、拍動が徐々に大きくなってゆく。求められるままにフィンは手を伸ばし、柄をぐっと握り締めた。
「あっ!」
マックが短い叫びを上げた。
剣の黒ずみが、見る見る消えて行く。フィンの手からこぼれた光が汚れを洗い流すように、柄から鍔、鞘の先へと、白い素地が現れる。
「……美しい」
ヴァリスが感嘆し、放心したように見とれる。白い鞘は大理石のようにつややかに光り、フィンがそれをゆっくり払うと、現れた刃は星の光を集めたようにきらめいていた。
「女神フェリニムの剣ですね」
フィンは剣を掲げてじっくりと眺め、それから恭しく鞘に収めた。カチン、と小さな音を立てて完全に刃が隠れると、剣全体を覆っていた光が消え、そこにあるのは風変わりながらも神秘とは無縁の、古ぼけた剣に戻っていた。
「そなたに預けよう」
さらりとヴァリスが言ったので、フィンはぽかんとし、たっぷり一呼吸の間を置いてから、慌てて剣を返そうとした。
「光栄ですが、陛下、俺……いえ、私は」
「畏まらずとも良いと言ったろう。そなたがセナト侯からの贈り物を断った理由を、忘れてはおらぬ。ゆえに預けると言ったのだ。その剣はそもそも、大戦の折に北の竜侯が用いたものとされている」
「えっ……」
「ナクテやノルニコムと違い、北部では竜侯が生き残らなかった。竜侯家がないことからも明らかだろうが、それゆえ遺品は皇帝が受け継いできたのだ。そなたには、その剣を使う権利がある」
ヴァリスは淡々と言い、それからフィンを正面から見つめると、真摯な表情で頭を下げた。
「一個人ヴァリスとして、竜侯フィニアスにお願いする。どうか、軍団に見捨てられた北辺の人々を、その力で救って貰いたい」
フィンが絶句して何とも答えられずにいる内に、ヴァリスは顔を上げて言った。
「無論、皇帝として言うならば帝国は北部を見捨ててはおらぬし、可能になり次第、第八軍団の再編に取り組むつもりだ。しかし、いつになるとの保証は出来ぬし、それまでは……我々はまず本国の安定をはからねばならない。そなたにも、北の竜侯としてではなく、皇帝の臣下として北部へ戻って貰いたいところだが」
「そうすると、帝国の資金と兵力を割かなければならないが、それは出来ない……ということですね」
「そうだ」
ヴァリスは率直に認め、言い訳はしない。短い一言に、無念や歯痒さ、この事態を招いたこれまでの為政者に対する怒りが凝縮されている。フィンはそれを感じ取ると、手の中の剣に目を落とした。
(グラウス将軍と同じだ)
皇帝や将軍といった肩書きをもつ者であっても、結局は制度に縛られたひとりの人間にすぎない。帝国の巨体を思うように動かせず、病み腐れていく部分を癒すことも出来ず、さりとて縛られた場から逃げ出すこともかなわない。
フィンはゆっくりとひとつ息を吸い、心を決めた。
「――わかりました」
皇帝のまなざしを真っ向から受け止め、深くうなずく。
「この剣はお預かりしましょう。俺に出来る限りのことをすると……誓います」
フィンの返事に、ヴァリスはひとつ肩の荷を降ろしたように、ほっと息をついた。
「恩に着る。そうだ、剣の名はフェーレンダインというらしい。存分に使ってくれ。今日のところは、それだけを頼みたかった」
立ち去る前の挨拶にか、ヴァリスが手を差し出す。フィンは一瞬だけためらったものの、すぐに力強く握手を交わした。
ではまた明日、と告げてヴァリスが立ち去り、パタンとドアが閉じた途端、その場にえも言われぬ虚脱感が落ちてきた。
ヴァルトはゆっくりと首を振り、夢じゃないよなと確かめるように、フィンの持つ剣をじっくり観察する。マックは恐る恐る手を伸ばして、鞘に触れてみたりした。
オアンドゥスとファウナは顔を見合わせ、本当に皇帝が自分達の息子に親しく話しかけてきたのかと、目をぱちくりさせている。
誰もが放心気味で声を出せずにいたところへ、「はぁー」と嘆息したのはネリスだった。
「どうした?」
フィンが振り返ると、ネリスはぽうっとした顔で宙を見上げていた。
「格好良かったねぇ、皇帝陛下」
「……は?」
間の抜けた声が、フィンのみならずそこかしこからこぼれる。その声音に傷ついたように、ネリスはむっとなってフィンを睨みつけた。
「何よ、その声。格好良かったじゃない、違う!?」
「え……いや、俺はよく分からないが……」
フィンは口ごもり、視線でマックに助けを求めた。が、こちらも曖昧な顔で目をしばたたくばかり。ネリスは苛立って、口の中で「まったくもう」とかなんとか毒づいてから、母親に話を振った。
「母さんは見てたよね? 美形だったよね、皇帝陛下」
「そうねぇ」ファウナは愉快げにうなずいた。「確かに、きれいな方だったわね。本国に来てからお噂はよく耳にしたけれど、本当にあんな整ったお顔立ちだとは思わなかったわ」
「ほら!」
どうだ、とばかりにネリスが勝ち誇ってフィンを見る。もっとも、そう言われてもフィンには、何が『ほら』なのか分からない。しばし困惑して首を捻ったが、段々おかしくなってきて、しまいに笑い出してしまった。ネリスが赤くなってフィンに詰め寄り、腕を掴んでゆさゆさと揺さぶる。
「ちょっと、何よ、なんで笑うのよ!?」
「いや、なんだか……おまえにかかると、物事が単純になっていいなと思ったんだ」
「何よそれ! 馬鹿にして、失礼ね!」
「してない、してない。難しいことばかりじゃないんだ、ってことさ」
フィンは笑いながら、ネリスの頭を撫でる。眉間に皺を寄せてばかりいるような状況でも、単純な事柄はあるものだし、面白いことも、楽しめることもある。ネリスの言動はそれを思い出させてくれるのだ。
ネリスは「わけわかんない」とぷりぷりしていたが、フィンの腹に拳を一発お見舞いすると、気が済んだらしく、お許しを賜った。
「いいけどね、もう。お兄がつまんないのは今に始まったことじゃないし」
「お嬢ちゃんが面白すぎるんだ」
ヴァルトが横から要らぬ一言を挟んだもので、またネリスは憤慨し、ヴァルトに枕を投げつける。すると他の仲間たちまで一緒になってヴァルトをいじめだし、なにやら随分“面白い”事になってしまった。
「いい歳した大人が、なんだかなぁ」
マックが呆れ、フィンも苦笑する。いつの間にか騒ぎから抜け出したネリスが、すました顔で応じた。
「揃いも揃ってお兄みたいにクソ真面目よりは、いいんじゃないの?」
「ネリス」
フィンがじろりと睨み、言葉遣いをたしなめる。ネリスは首を竦めたが、まるきり反省していない風情で続けた。
「それにしても、皇帝陛下のお顔を見られるのも、明日か明後日でおしまいなんだね。ちょっと残念だな」
「ネリスはああいう顔が好みなのかい?」
マックが複雑な声音で問うたが、ネリスはあっさり「別に、好みってわけじゃないけど」と受け流した。美形は美形、あくまで鑑賞の対象ということらしい。その反応に、マックはまた奇妙な顔になる。
フィンは二人の間に通う感情の糸に気付いて、おや、と目をしばたいた。まだ細くて弱い、けれど切れることはなさそうなつながり。だが、自分が口出しすべき事ではないだろう。彼は何も見なかったように、いつもの口調で言った。
「顔はともかく、皇帝陛下や将軍と別れるのは、確かに少しもったいないな。随分色々と勉強になった」
「そうだね」
マックも、フィンを見上げてうなずく。
剣技や所作を教わり、数日間とは言え皇帝と行動を共にして帝国上層部の仲間入りをしたことは、実に濃厚な経験だった。このままどっぷり浸かっていたい世界ではないが、いざ離れるとなると、やはり名残惜しい。
二人は、寂しくなるな、などとしんみり言葉を交わした。
――まさか翌日にはその言葉を撤回したくなるとは、知る由もなく。




