5-5. 貴人の駆け引き
クォノスはナクテ領最東の城砦である。
開けた平野のささやかな丘上に位置しており、大戦後の戦乱期にはここで、“竜王”と皇帝とが大軍を率いて激突した歴史もある。今では古戦場跡も大部分が牧場や畑地になり、耕された土の下から鏃や穂先や古銭が出てくることも、滅多になくなった。
とは言え、いまだここがナクテ領であるという事実は、アウストラ一門の誇りと勢力を象徴している。またいつでも受けて立つと言わんばかりに、この砦の町は全体に無骨で、闘技場や浴場は他都市と同じく備わっているものの、劇場や図書館、庭園の類はない。
冬至祭の後でグラウス将軍とヴァリス帝がクォノスに揃い、それから大セナトが最後に到着した。しかし、すぐに本題に入る気配はどちら側にもなく、一日中、飲み食いに詩歌や楽曲といったお楽しみが続いた。
饗応に付き合わされるフィンは、刻一刻いたたまれなくなっていった。ヴァルトやネリスは、ふんぞり返ってご馳走を食べて結構なご身分ではないか、と冗談半分に羨んだが、当人はとてもそんな気分になれない。
確かに料理は美味だった。だが、毎回変わる豪勢な献立の食事には、どこから材料を用意するのか、食糧庫が空になりはすまいかと不安になる。今この時も北辺の破壊された町や村では、豆一粒を求めて這い回る人がいるだろうに、と思うと、喉がつかえて飲み込めなかった。
そんな彼の目の前では、皇帝と竜侯セナトが計算された世間話を空々しく続けているのだ。さながら睨み合ってぐるぐる回る二頭の狼のようで、見ているだけで胃が痛い。
どうにかフィンが慣れたものといったら、例の濃紺の服と深紅のマントだけだった。
館での宴会が二日続いた後、三日目には趣向を変えて馬で郊外へ出ることになった。真冬であるから寒いことは寒いのだが、流石は本国と言おうか、天気が良くて風が穏やかであれば、日光浴には最適なのである。
むろん、フィンもお供せざるを得ない。乗馬まで仕込む暇のなかったグラウスが、出発前に「乗れるか」と小声でささやいた。
「少しは経験がありますし、この辺りはほとんど平地だから大丈夫でしょう」
自信なさげにフィンは答え、鐙に片足をかけてひらりと馬にまたがる。鞍に腰が落ち着く間もなく、
(まずい!)
フィンは反射的に体を伏せ、馬の首に抱きつく姿勢になった。同時に馬がいななき、棹立ちになって前脚で宙を掻く。慌ててグラウスが横から手綱をつかみ、なだめにかかった。
(怯えるな、何もしないから)
フィンは自覚せず馬の意識に触れ、落ち着かせようと敵意のないことを伝えた。動物の本能にはレーナの光が眩しすぎるのだろうかと気付き、外に漏れ出ないよう己の内側に意識の覆いをかける。
じきに馬が鎮まり、フィンは体を起こした。グラウスのみならず、既に騎乗していたセナトとヴァリスの二人が彼を凝視していた。
「ああ、これはすまぬことをした」
目が合うと、セナトが顔をしかめて詫びた。
「普段は問題のない馬だが、どうやら慣れぬ客人に怯えたようだ。一番大人しいものを出すように言っておくべきであったな。怪我はないかね、北の竜侯」
淡々とした口調だったが、その場の全員が遠まわしな侮辱を感じ取った。乗り手が未熟であるから馬も嫌がったのだ、と。
だがフィンは気付かなかったふりで、ご心配なく、と応じて手綱を取った。
「竜の力に怯えたのでしょう。こちらこそ、配慮が足らず大事な馬に怪我をさせるところでした。申し訳ありません」
彼は頭を下げてから、この馬で結構です、と言い添えて、すっかり大人しくなった馬の首を軽く叩いてやった。グラウスが密かにほっと息をつき、セナトが内心いささか落胆したことが、竜の目を通すまでもなく気配で分かった。
セナトは“北の竜侯”なるものを信じておらず、初日から事あるごとにフィンの正体を暴こうと、ささやかだが老獪な罠を仕掛けてきた。作法然り、知識教養然り。だが気付いたフィンがあっさりと、自分は貴い生まれではない、と告白したので、そうした方面への攻撃はやんでいたのだが。
(今度は、能力の程度を確かめたいらしい)
やれやれ。内心そっとため息をつき、フィンは皇帝の後からゆっくり馬を進めた。レーナの姿を見せてやれば簡単に片付く問題だが、出来るなら実際に協定が結ばれるその時まで、権力者たちと彼女を接触させたくなかったのだ。
〈心配しなくても、私はもう大丈夫よ?〉
フィンの疲労を察して、レーナがいたわりの声をかける。フィンは景色を眺めながら、緩みそうになった口元を引き締めた。
〈うん、君はもう傷つかないだろうな。でも、人間の方が勝手に傷つくかもしれない。君を目にして、君の力を手に入れようと考えるかも知れないし、それで自制心が砕けたら何をするか分からないから〉
〈……そうね。人間は怖いわ〉
いつぞやと同じ事をつぶやいたレーナに、フィンはそっと心の中で触れる。
と、不意に馬が足を止めたので、フィンはかくんと前のめりになった。目をしばたいて意識を戻すと、馬がなにやら言いたげな顔で、ちらりとこちらを見ていた。このまま歩き続けるのか、それともどこかその辺にしけこむのか、とでも問うように。
フィンは慌てて表情を取り繕い、何食わぬ風情で馬を進ませた。
先頭を行くのはルフス軍団長で、辺りの地理に詳しいことから、良い景色や水を飲める泉などに案内してくれている。その後ろに皇帝とセナトが並び、グラウスとフィンが続いていた。それぞれの従者や護衛たちは、ずっと後から荷馬車と一緒に徒歩でついてくる。戸外で食事をするのも、それが皇帝となったら、籠ひとつにワインとパンを放り込んで、というわけにはいかないのだ。
太陽が高くなり、馬に揺られ続けて一行の体も充分に温まったところで、ルフスが昼食の場についたと告げた。見晴らしのきく小さな丘の斜面で、日当たりが良く乾いており、所々露出した白い岩は腰掛けにでもテーブルにでも使えそうだ。
常緑の潅木に馬たちをつなぎ、皇帝が適当な岩に腰を下ろす。追いついた従者達は、休む間もなく敷物を広げ、昼食の用意に取りかかる。フィンは少し体を動かしてこわばった膝をほぐすと、焚き火の用意をしているマックの所へ向かった。
「手伝おう」
「馬鹿!」
途端にささやき声で叱られて、フィンは目をぱちくりさせる。マックは今にも頭を抱えてそこらにうずくまりそうな様子で、ひそひそと続けた。
「竜侯がそんな事してどうするんだよ、いいから兄貴はお偉いさんの相手をしててくれよ!」
「だが、俺が貴族じゃないことは言ってあるぞ」
「貴族じゃなくても! いいから、少なくともあの爺さんが見てる前では、あんまり庶民的なことしないでくれよ。俺が心配でたまんないよ!」
「……?」
理由が分かるような、分からないような。小首を傾げたフィンを放って、マックは憤然と草をむしり、石を並べ、枯れ枝を寄せ集めて、手際良く焚き火の用意をする。それから彼は、荷物に手を突っ込んで火打石を探しはじめた。
そこでフィンはふと背後を見て、セナトがさり気なくこちらを観察していることに気付いた。そのまなざしに含まれるのは、疑いと軽侮だろうか。所詮どこの馬の骨とも知れない若造では、付け焼刃の稽古で竜侯のふりなど出来ぬわけだ、というような。
フィンはセナトの視線を意識しながら、素知らぬふりでマックの肩をつついた。
「火をつけるぐらいは、任せてくれよ」
言いながらもう、片手を枯れ枝の上に伸ばしている。自身の内側に施した“覆い”を少し外し、光を導いてゆくと、簡単に炎が生じた。
見世物にするつもりはなかったので、わずかの間の出来事に気付いた人間はほとんどいなかった。だがフィンがちらりと様子を窺うと、セナトが動揺しているのがはっきり見えた。その身体にまとわりつく、薄暗い影も。
(……?)
この二日間、何度か間近で相対しながらも気付かなかった影。なんだろう、とフィンは眉を寄せた。
「兄貴、ありがとう。でも、ここはもういいよ」
マックが小声で礼を言ったので、フィンは慌てて彼に目を戻した。見慣れた苦笑のまわりに、澄んだ小さな光が瞬いている。フィンは微笑んでうなずくと、今度埋め合わせする、とこちらも小声でささやいて、その場を離れた。
馬の様子を見に行くふりで、もう一度セナトの姿を確かめると、やはり灰色の影がかかっていた。皇帝やフィンに対する敵意だろうか。それとも、何か企んでいるということなのか、あるいは……考え難いが、老齢による死の影だろうか。
(到底まだまだ死にそうにないけどな)
はて、と首を捻りながら、ぱたぱたと馬の首を叩く。馬が鼻面を寄せて、何か持ってないのかとねだるようにフィンの手を嗅いだ。
「フィニアス殿」
呼ばれて振り返ると、ルフスが立っていた。背丈はフィンより低いもののがっしりした体格で、いかにも帝国軍人という雰囲気だ。と言って、必要以上に堅苦しくも厳しくも、高圧的にも感じられない。フィンは早くも内心で、上司にしたい軍人の筆頭にルフスを置いていた。グラウスも優れた軍人ではあるのだが、いかんせんあの部屋が……。
そんなことを考えていると、ルフスが穏やかながら辞退を許さない声音で誘いをかけた。
「近くに古戦場の跡があります。セナト閣下が皇帝陛下とグラウス将軍を案内したいと仰せですが、フィニアス殿もご一緒に如何かな」
「もちろん、喜んで」
フィンは短く答え、ルフスの後について歩き出した。
(この人がセナト侯の娘婿でなければな)
竜侯と言っても実際は田舎の粉屋の倅で、大層な力も人脈も何もないのだから、特別扱いしなくて結構です――と、白状してしまえるのに。
考えながら改めてルフスの後姿を見ると、いつの間にか薄ぼんやりと灰色の影がかかっていた。
(なんだ……? セナト侯と同じものか?)
フィンは眉を寄せた。性質的には、恐らく同一の影だ。しかしこの軍団長が、舅の意向に従うことはあっても、その内面まで同じだとは思えない。ではこの影は、セナトから及ぼされる影響なのだろうか。
(あまり良いものじゃない)
正体ははっきりしないが、どことなく嫌なものを感じて、フィンは警戒を強めた。
行く手ではセナトが皇帝に語りかけながら、丘の斜面をゆっくり降りている。グラウスもその近くにいたので、フィンは少し走って彼に追いついた。
「……この辺りではまだ時々、古い槍の穂先や折れた剣などが見付かることがありましてな」
セナトがヴァリスに説明している声が、風に乗って届く。フィンは景色を眺めながら、最近詰め込みで覚えた戦史を頭の中でおさらいした。皇帝と初代ナクテ竜侯の戦い、ではないはずだ。それはもう少し東の方で行われた。ここは……
「闇の眷属との、最後の戦いがあった場所だな」
ヴァリスが静かに応じた。そうだ、と内心フィンはうなずきながら、改めて辺りを見回した。視力が鋭くなり、自然の風景に中に様々な力が薄い靄となってたゆたうのが見えた。静かで穏やかな凪の海に似ている。しかしその底に黒い流れがあることを、竜の目は見逃さなかった。
「まだこの辺りには、闇の力が漂っていますね」
口にするつもりはなかったが、気付くとフィンはそう言っていた。先を行くヴァリスとセナトが、足を止めて振り返る。ヴァリスはわずかに驚きの色を浮かべ、セナトはかなり疑わしげな表情をして。
フィンの発言の真偽には触れず、セナトは咳払いしてふたたび前を向くと、皇帝との会話を続けた。
「初代ナクテ竜侯が、大地竜の力で闇のものらを地の底に追い落としたのが、まさにこの近辺だと言い伝えられております。もはや恐れる必要はない筈ですが、土地の者らは迷信深く、風が吹いても雨が降っても闇の嘆きだと言い、日照りになれば闇の怨念だとおののく有様。いまだにこの辺りでは土を耕す者がおりませんのでな。陛下、そこらを掘らせてご覧になれば、すぐにひとつふたつ、興味深いものが見付かりましょう」
地元民の恐れは正しい、とフィンは思ったが、今度は黙っていた。セナトに対して異を唱えるような発言は、出来る限り慎しむ方が賢いだろう。
フィンは皇帝があまり闇の近くに寄らないように見守りながら、何気ない態度を装って、爪先でそこらの土をちょっと掘ってみたりした。さすがにその程度では、草の根が見えるだけで古銭一枚出てこなかったが。
グラウスの方はフィンよりも興味をそそられたらしく、従者を呼ぶまでもない、と皇帝に笑いかけて、自ら屈んで適当なところを手で掘り返していた。
じきに、おっ、と将軍が声を上げる。その手になにやら小さな鋲が握られていた。
剣帯の留め具ですかな、そのようで、などと他愛無いやりとりが交わされる。より良い収穫をお求めならば、と、セナトが少し先の場所を示した。以前その辺りで謎めいた杖が見付かり、調べてみたら天然の金銀合金製だったという。
聞いたグラウスは皇帝に向き直り、おどけて猟犬の真似をして見せた。
「しばしお待ちあれ。皇帝陛下の財布を膨らませるものを、ひとつ掘り出して進ぜましょう」
ヴァリスは気乗り薄の様子であったが、セナトの提案を無視して白けさせるのは良くないと判断してか、苦笑まじりにグラウスを行かせた。
そのやりとりを見ていたフィンは、グラウスの向かう先に嫌な気配を感じ、慌てて後を追った。
「将軍、あまりそちらには近付かないで下さい」
声を潜めて警告したフィンに、グラウスは楽観的な笑顔で応じる。
「なんだ、毒蛇でも見つけたか」
「……そのようなところです」
「そうは言っても、このまま引き返すわけにはゆかぬのでな。皇帝の将軍がお宝目当てに土を掘る姿を見んことには、セナト老の自尊心がおさまらんのだろうよ」
まさか皇帝本人にはさせられんし、従者全員を一列に並べて穴掘りをさせるわけにもゆかぬ。そう言ってグラウスは肩を竦め、適当なところまでぶらぶら歩き続けた。フィンも心配で、少し後からついて行く。
「この辺りなら、何かあるか……うん?」
「どうしました」
「いやなに、地面に亀裂がな」
グラウスは不思議そうに答え、小さな岩と草の間に埋もれたその場所を、無造作に靴の先でつついた。
その瞬間、フィンの目に小さな影が飛び出すのが見えた。
「危ない!」
咄嗟にグラウスの腕を掴んで引き戻し、素早く剣を抜いて影に斬りつける。
剣の切っ先が影を地面に縫いとめた。直後、ボコリと土が崩れ、岩ごと亀裂に落ち込む。フィンは慌てて飛び退り、剣が大地に呑まれないよう引き抜いた。グラウスも数歩さがって、驚きに目を丸くしている。
その間にも、ズズッ、とさらにいくらか周辺の土と砂が落ちていき、亀裂は一気に数倍の幅にまで広がった。グラウスがフィンの背後からそれを覗き込み、落ち窪んだ穴の意外な大きさを見て、かすかに安堵の息を漏らした。
「なんとまぁ、知らずに手を突っ込んだら指を折るところだったな。フィニアス、礼を言うぞ」
「いえ、ご無事で何よりです。……存外、深いですね」
フィンはじっと亀裂の奥を睨んでいた。ヴァリスとセナトが駆けつけるのが、足音で分かる。だがフィンは振り向きもしなかった。
「うっかり人が近付かないように、周辺を杭で囲んで注意を促したほうがいいと思います。この亀裂は……底が見えない」
フィンは首を振り、険しい表情で言った。背後でヴァリスが、誰にともなく問う。
「まさか、竜侯が闇を封じた大地の裂け目そのものではあるまいな」
「もしそうならば、こんな小さなものではありますまい。自然に出来たものか、獣の巣穴の跡でしょう」
セナトが苦笑でいなした。フィンはそれぞれの言葉を否定も肯定もせず、わかりません、と正直に首を振る。
「ただの空洞のように見えますが、ともかく、うっかり片足を突っ込んだらそのまま地の底に呑まれかねない深さです。闇が潜んでいるかいないかは別としても、近寄らない方が安全でしょう」
フィンは他の三人をさがらせ、念のため周囲にレーナの力を注いで亀裂を封じ込めた。
(飛び出してきたあれは……蛇だったのか、それとも)
地面に突き刺した剣の切っ先には、砂のほかに何の汚れもついていなかった。蛇か何かであったとしても、その体は土と一緒に亀裂の中へ落ち込んでしまってわからない。
「グラウス将軍、知りようもないこととは言え、まったくもって面目ない。謝罪のしるしに、昼食の葡萄酒は貴殿にすべて差し上げよう。さあ、こちらへ」
セナトは深々と頭を下げて言うと、皆を促して丘の方へ戻って行く。フィンはもう一度亀裂を見やってから、最後に歩き出そうとして――ルフスの姿に気付いた。丘の斜面に立って一行を見守っていたようだが、その顔は心なしかこわばり、ひきつっていた。
(彼は知っていたんだろうか)
あの亀裂の場所を。思わぬ深さがあること、あるいは毒蛇が棲みついていることを。それを、セナトに教えたのだろうか。
(もっと気をつけなければ)
どうやら、形ばかりの立会い人だからと傍観してもおれぬようだ。
フィンは唇を引き結び、一歩一歩慎重に歩いていった。




