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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
72/209

5-3. 炎竜侯の怒り

 東の空には小さな雲が集まって太陽の姿を隠していたが、数条の曙光が天蓋を切り裂く槍のように走っていた。眩しげに手をかざした歩哨の視界で、槍の穂先についた深紅の宝玉がぐんぐん大きくなり、領主館に迫ってくる。

「お帰りなさいませ、陛下!」

 敬礼に応じるように、きらめく赤竜が旋回してから中庭に翼をたたむ。その背から軽やかに降り立ったのは、炎色の髪をした女主人だった。

「早朝の哨戒、ご苦労様。変わりはなくて?」

「はい! 陛下にも、お怪我はありませんか」

「ええ」

 鷹揚にうなずいて館に戻りかけ、エレシアはふと思い出して足を止めた。この兵士、名前は忘れたが、確か以前、仲間達に故郷がとんでもない辺境の田舎だとからかわれていたような……

「そういえば、東方の出身だったわね?」

「は、はい!」

 予想外の言葉をかけられ、兵士は驚いてしゃちこばる。

「ノーネスに近い、畑と牧場だけの小さな村です。……あの、まさか何か……」

「いいえ、逆よ」エレシアは微笑んで見せた。「何もなかったことを知らせておこうと思っただけ。南は海まで、東は奈落の近くまで見回ったけれど、異変はなかったわ」

「そうですか……良かった。ありがとうございます」

 ほっと息をついて、兵士は安堵の表情で再度敬礼する。エレシアは目礼を返し、今度こそ館の中へと歩き出した。

 闇の獣が辺境の村々を襲っている、という知らせが届き始めて、もうかなりになる。都を取り戻して以来、彼女はゲンシャスの翼を借りてしばしばそうした土地へ飛び、篝火に炎神ゲンスの加護を与えてきた。

 おかげで、今はまだ廃村になった所はない。とは言え、農地の多くは荒れており、そのせいでここロフリアにおいても農産物が品薄になりがちで、人々の心に不安が兆していた。

(この冬は特に、闇の獣の勢いが強い)

 まるで何か合図でもあったか、闇が秘密の協定を結んで今冬を戦の時と定めたかのように、追い払っても追い払っても、執拗に攻撃を繰り返してくる。

 むろんそうした懸念を気のせいだと片付ける楽天的な市民も多く、だからこそ戦の準備に力を注いでいられるのだが――しかし、それで本当に良いのかと、ほかならぬエレシア自身が時に背後を振り返って確かめたい衝動に駆られる。前面の敵、すなわち皇帝に、全力を叩き込んでやりたいはずなのに。

 ふと、彼女は無意識に顔をしかめていたと気付き、指で額をこすった。眉間の皺が取れなくなったら大変だ。

 ゆったりとくつろいで気分を変えよう。そう決めると、エレシアは浴室に向かった。帝国の古い貴族の館に相応しい広さと設備で、昔から好きな場所のひとつだったが、今では特にお気に入りだ。

 召使を呼んで着替えの用意を言いつけると、エレシアはさっさと服を脱いで浴室に入った。浴槽の中はただの水だが、朝っぱらから下男に薪を焚かせて大汗をかかせる必要はない。彼女が水に手を浸してしばらく待つと、じきに湯気が立ち始めた。

 召使が入浴用の香草を急いで運び、湯に浮かべる。爽やかな香りが蒸気と共に室内に満ち、エレシアは満足して微笑んだ。ゆっくりと肩まで湯に浸かり、ほう、と息をつく。

〈これは思わぬ余禄だったわね〉

 竜と絆を結ぶ前は、こんな事が出来るとは夢にも思わなかったが、もしかしたら今、竜侯としての能力で一番気に入っているのは、この力かもしれない。

 そんなことを考えて苦笑した彼女に、ゲンシャスは呆れたような鼻息だけで返事をした。

 ともあれエレシアは、侍女に手伝わせながら、爪先から髪の一本一本まで丹念に解きほぐすように洗った。それが終わる頃には憂鬱な気分もすっかり流されて、唇は自然と柔らかな笑みにほころんでいた。

 身繕いも時間をかけてゆっくりとしたので、女主人らしくなったエレシアが次にすべき事は、ぐうぐう鳴る腹を黙らせるばかりになった。

 一晩中ゲンシャスと共に飛んでいても、その間はさして疲れも空腹も感じなかったのだが、竜の力と一体になっていた意識を少し離して一人の人間に戻った途端、本来の欲求がいっせいに押し寄せてくる。今は心地よい疲労と眠気が寝台に誘ってもいたが、食卓へ引っ張る空腹の方が強かった。

 低いテーブルには既に前菜が用意され、脇息とクッションが丁度良いところに置かれていた。行き届いた召使を持つと、こうした些細なところで安楽を味わえるものだ。

 続いて運ばれてきた料理を片端から平らげて行くエレシアに、給仕をしていた侍女が苦笑した。

「女王陛下は健啖でいらっしゃいますね。その可憐なお口のどこに、これほどの料理が消えてゆくのか、本当に不思議です」

「きっとシャスの胃袋につながっているのよ。エディオナ、給仕はもう良いから、少し一緒に食べなさい」

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」

 エディオナは遠慮する様子も見せず、別の召使に水差しを預けて食卓についた。侍女とはいえ彼女もまた良家の娘であり、エレシアに仕えて長いため、感覚的にはもう家族に近い。

 エレシアは焼いたリンゴを優雅に口へ運びながら、不意に悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「それで、昨夜は頼もしい騎兵隊長と良い時間を過ごせて? 折角わたくしが外出したのだから、まさか好機を無駄にしたとは思いたくないのだけれど」

「エレシア様!」

 途端にエディオナが赤くなり、抗議の声を上げる。あらあら、とエレシアは苦笑した。

「その様子では、何もなかったようね。残念だこと」

「マリウス様は陛下のお留守につけこんで夜遊びをなさるような方ではありません。ご存じでしょう」

「ええご存じですとも、彼の目がしばしばわたくしの横を通り過ぎて、後ろに控える侍女の方に釘付けになっていることもね。何もそなたの部屋で夜を過ごさなくとも、せめて花の一輪でも捧げに来れば良いものを。不甲斐ない」

「……マリウス様は、遠慮なさっておいでなのです。ご自分の家柄がほとんど平民だからと。私の家とて、古いだけでさしたる名家でもありませんのに」

 エディオナは目を伏せ、沈んだ口調で言った。エレシアは食べ終えた食器を横にやり、身を乗り出す。

「自然な成り行きを待っているのだと思っていたけれど、そなたが望むなら、わたくしの方で縁談をまとめても良いのよ。マリウスは確かに貴族ではないけれど、実績で言えばそなたの夫に相応しいわ。それに、市民にも慶び事が必要だもの。戦に備えて怠りなくあれと言うばかりでは、息が詰まるでしょう」

「そうですね。……少し、考えさせて下さい」

「急かすつもりはないけれど、あまり時間をかけ過ぎないようにね。こういう事は思い切りが大事だから、悩めば悩むほど決断出来なくなるものよ」

 冗談めかして諭したエレシアに、エディオナはふと苦笑した。

「陛下の経験談ですか」

「さあ、どうかしら」

 おどけてエレシアが肩を竦め、エディオナも少し笑う。そうして場の空気が和らいだところへ、召使が駆け込んできて台無しにした。

「エレシア様! 塔の……竜眼が!」

「――!」

 エレシアは一瞬で表情を変え、さっと立ち上がった。従おうとしたエディオナを手で制し、一人で走り出す。

 館の中の狭い階段を登るのが面倒で、彼女は一番近い扉から庭に出ると、ゲンシャスの手を借りて一気に見張り塔まで飛んだ。

 歩哨が一人いたが、女主人の登場の仕方に度肝を抜かれて奇声を上げた。エレシアはそれを一瞥しただけで、乱れた髪と服を手早く直して竜眼の前に立つ。

「御機嫌麗しゅう、ノルニコムの女王陛下」

 先日と同じく、ナクテ領主の顔がそこに映っていた。エレシアはふと、相手には自分がどのように見えているのかと訝ったが、そんな内心はまったく面に出さず、艶やかに微笑んだ。

「竜侯セナト閣下、お久しゅう。わざわざ竜眼でのお知らせ、凶事でなければ良いのですが」

「さて、凶事か吉事か……。早晩、陛下のお耳にも噂が届くでありましょうがな」

 セナトは勿体をつけて間を置き、エレシアの表情が曇るのを確かめてから続けた。

「皇帝からの申し出により、会談を行うことになり申した」

「それは――」

 エレシアは一瞬言葉に詰まり、急いで表情を取り繕った。

「わざわざお知らせ下さるとはご親切に。では閣下は皇帝と手を結ばれるおつもりですか」

「警戒なさることはない。協定など形だけのこと。孫もまだ見付かっておりませぬゆえ、皇帝が小セナトを改めて養子にすると申し出たところで、空約束に過ぎぬのですからな。お互い、嘘は承知で手を握るのです。しかし陛下のお耳に届く頃には、噂もどのようになっておるか分かりませぬのでな」

 裏切ってはいませんよ、そうなったら困るでしょう?――そんな厭味が、言葉にせずとも伝わってくる。エレシアは顔がこわばるのを自覚しながら、かろうじて微笑を保った。

「下々の口さがないことには、何かと迷惑を被るものですわね。無論わたくしは承知しております……閣下の皇帝への憎しみ、ひとかたならぬ事を」

「これは畏れ入る」セナトは目礼し、鋭い笑みを閃かせた。「皇帝がナクテ竜侯を手なずけたと思い上がっている隙に、陛下は軍勢と共に皇都を目指されよ。されば僭帝ヴァリスは愚かにも、我らに背を向けて東へ向かうでありましょう」

「わたくしに正面から皇帝の刃を受け止めさせておいて、閣下が背中を一突きなさるというわけですのね」

 エレシアは辛辣な声を出したが、笑みは崩さなかった。むしろ好戦的に、より深く笑う。相手が要らぬ言葉を返すより早く、彼女は続けた。

「良いでしょう。わたくしはあの裏切り者の息子を、真っ向から叩き伏せてやりたい。背中を狙うのは性分ではありません。閣下のお申し出、喜んでお受けしましょう」

 彼女の答えに、セナトは一瞬、表情に隙を見せた。すぐに畏れ入ったふりで頭を下げたが、そこに浮かんだ色をエレシアが間違いなく読み取るには充分だった。

「女王陛下の怒りの炎には、まこと敬服いたす。その炎がノルニコム軍の勇気となり、皇帝には災禍となりましょう」

「火の粉にはご注意召されますよう」エレシアは微かに揶揄する声で応じた。「あまり遅くなって、皇帝がすっかり燃え上がってしまっては、刃を突き立てるのも容易くはありませんよ」

「左様ですな。こちらも準備は怠りなく進めましょう」

 セナトは皮肉に気付いた様子を見せず、しかつめらしくうなずいて、ではご免、と話を終わらせた。竜眼から光が消え、ただの岩の塊に戻ってしまうと、辺りに少し焦げ臭い空気が漂った。

 エレシアは竜眼の前に立ったまま、歩哨を振り返る。その顔にもはや笑みはなく、正視できないほどの怒りの炎が輝いていた。歩哨は恐れて後ずさったが、狭い場所とて、背中を手摺にぶつけただけだった。

「剣を貸しなさい」

 短く命じられ、歩哨は慌てて剣帯を外しにかかる。もたついていると、苛立ったエレシアがつかつかと近寄り、剣の柄を握って抜き放った。

「エレシア様、何を」

「シャス!」

 おろおろと発せられた歩哨の問いかけは、エレシアの激しい声にかき消される。

 エレシアが剣を掲げると、楼の横までゲンシャスが飛んできた。竜の目が細められると同時に、剣が眩く輝きだす。

 灼熱の光に刀身が溶けてゆくように見えた刹那、

「――ッ!!」

 気合と共にエレシアが腕を振り下ろした。

 ガッ、と岩の砕ける音が響いたのも一瞬のこと。閃光と共に竜眼は真っ二つに割れた。

 熱と光、そして噴き出した蒸気に、歩哨は両腕で顔をかばう。数呼吸の後、彼が恐る恐る腕を下ろすと、竜眼はごろりと左右に分かれて転がっていた。断面は融けてすぐに冷えたように、てらてらと光っている。

 その傍らに立つエレシアは怒りのおさまらぬ様子で、声をかけるのも憚られた。もっとも、彼女の方では、怯えた気の毒な歩哨などまったく意識になかった。

〈あの男、厚顔無恥とはまさにこのこと! よくも真っ赤な嘘を!〉

 皇帝を正面から攻めてやる、とエレシアが言った時の、セナトの顔。嘲りと優越感で歪んだ醜い笑みが、現実に彼の浮かべたものだったのか、エレシアの目にだけ見えるものだったのかは、どちらでも良い。愚かな女をうまく思惑に乗せてやった、と彼が嗤ったのは確かなのだ。

 ゲンシャスが屋根に降り、不機嫌に鼻を鳴らした。

〈名ばかりの竜侯だと自ら露呈したわけだ。仮にも子孫ならば、竜と竜侯に偽りは通じぬと知っていそうなものだがな〉

〈本当に、腹の立つ男! 皇帝だけではない、あの男も竜侯を名乗れぬようにしてやらねば気が済まないわ〉

 エレシアは手の中で冷えてゆく剣を見下ろし、顔をしかめた。すっかりぼろぼろになって、これではもう使い物にならない。

「駄目にしてしまったわね」

 エレシアは素っ気なく言い、歩哨に剣を返した。

「新しいものに交換して貰いなさい。わたくしが使ったからと言って」

 返事は、おっかなびっくりの敬礼だけだった。しかしエレシアはもう彼には構っておらず、ゲンシャスにつかまって塔からふわりと舞い降りた。

 下では、心配したエディオナが待っていた。侍女に見つめられ、エレシアはやっと、自分が恐ろしい形相をしているらしいと気付いて微苦笑した。

「慶び事が必要だと言ったばかりだというのに、当分あの話は先送りになりそうね。マリウスを私の部屋に呼びなさい。主馬長官と、鍛冶の匠も。すぐに!」

 はい、と短く応じてエディオナが小走りに去って行く。エレシアはそれを見送り、束の間、ぼんやりとした罪悪感を抱いて遠い目をした。

 自分が皇帝に背かなければ、彼女はとうに良い相手と結婚していたかもしれない。

 この街の民も、ティウス家ではなく皇帝の支配下で、平穏な暮らしを享受出来たかも知れない。だが――

(後戻りは出来ない。それに、皇帝を許すことも)

 エレシアだけでなく、この町の市民は身に染みて知っている。かつての皇帝がどれほど理不尽に残虐な行いをしたかを、この先また同じ事が繰り返されない保証はないことを。

(迷うものか)

 エレシアは頭を振ると、戦士の顔になって空を仰いだ。彼女の思いを代弁するように、炎竜が大きく羽ばたき、雲間へと舞い上がった。


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