5-1. 断裂する家族
五章
本国の冬は比較的温暖で過ごしやすいが、にもかかわらずナクテ領主の館は常になく底冷えしていた。
一足遅かったという情報だけを携えて帰って来たルフスは、老領主によって再び東のクォノスにある兵営へ追いやられた。残された軍団兵は領主の厳しい要求で、訓練漬けの毎日を送っている。
領地の切り盛りはフェルネーナと執事が行っていたが、そこにも領主の冷たい息がかかっていた。銅貨一枚、麦一粒でも多くたくわえ、出て行く方はぎりぎりまで切りつめるよう求められたのだ。新年用の新しい服も、市民への施しも許されなかった。目前に迫った冬至祭も取りやめだ。小セナトが行方不明だというのに祭どころではない、というのが建前だったが、単に金を惜しんでいることは明らかだった。
「厳しい冬になりそうですな」
執事のため息に、フェルネーナも憂鬱な同意を返すほか、なかった。
「本当にね。お父様はこうまでして集めたお金を、何に使うつもりかしら」
「わたくしには、何とも……」
「ああ、気にしないで。今のは独り言。おまえをこれ以上困らせるつもりはないわ」
フェルネーナはやれやれと首を振った。戦の準備だというのは見え透いていたが、それを口に出せば、皇帝への翻意を認めることになる。
(セナトを抜きにして、皇帝に背くつもりかしら)
竜侯セナトは決して領民にも軍団兵にも好かれてはいないが、竜侯会議の一員として、また領地の治安維持においても、立派な実績がある。彼が皇帝を名乗れば、あるいはナクテの独立を宣言すれば、帝国最大規模の第四軍団は丸々、彼の私兵となるだろう。
(でもそうするつもりなら、あの子は死んだことにしなければならない)
先代によって指名された帝位継承者が生きている限り、現皇帝ヴァリスの地位も、またそれに取って代わろうとする者の地位も、確定しないのだ。いかにヴァリスが先代の遺言を無効と宣言しようとも、評議会でそれを蒸し返すことは出来るのだから。
(お父様はあの子の捜索を打ち切るのかしら)
フェルネーナは苛々と指先で机を叩いた。収支帳簿の数字など、さっきからまったく目に入っていなかった。
「少し気分を変えに行きます。おまえも、この部屋で番をしていて貰わなければいけないけれど、仕事の手は休めて構わないわ」
彼女はじっと座っていられずに立ち上がり、執事を一人残して部屋から出て行った。
向かった先は、例の物置部屋に紛れた半地下室だった。埃っぽい空気に咳き込みながら、顔をしかめて扉を叩く。
思わせぶりに軋みながら開いた扉の内側は、相変わらず異様な眺めだった。以前に運び込んだ球体は変わらずそこにあり、巨大な目玉のようにぎょろりと来訪者をねめつけている。わずかに入る明かりの下で、暗い影のように佇む老人は、寒さのゆえか以前に見た時よりも深い闇をまとっているように思えた。
「これは、若奥様」
嗄れた声でささやくように言い、魔術師は慇懃に一礼した。フェルネーナは室内に入らず、戸口に立ったまま厳しい声を投げつける。
「おまえの助言は役に立たなかったわね、オルジン」
「何のことでございましょう」
返事はいたって平静、たじろぎも、とぼける気配さえもない。憎らしい、とフェルネーナは眉をぎゅっと寄せた。
「セナトはシロスにいると、お父様に知らせたのでしょう」
「それは私ではございません」
「おまえでなければ誰だと言うの」
「存じません」
オルジンはそっけなく答え、それからフェルネーナの怒りを察してか、おざなりに言い足した。
「占い師か夢のお告げか、そんなところでございましょう。私の仕事は古の魔術を役立てるよう努めるのみ。失せもの探しは含まれておりません」
「失せもの、ですって?」
「失せ物、迷い人、何とでも。ともかく、私の仕事ではございません。気が済まれたなら、お引き取りを。ここは若奥様がいらっしゃるべき場所ではありません」
夜中にうなじを撫でる隙間風のような声に、フェルネーナはぞっとして後ずさりかけた。が、退けば扉を閉められると感じ、辛うじて踏みとどまる。
「……おまえでは、セナトの居場所を見つけられないの? お父様はまるでもう諦めたように、あれきりセナトのことを口にしないのよ。黙って待ってはいられないわ」
「居場所は、若奥様もご存じでしょう」
さらりと言われて、フェルネーナはぎくりとした。ネラのことを知っているのかと危惧したのだ。が、そうではなかった。
「ルフス様はお戻りになった時、なんと仰せでしたか。若様はシロスから船で西へ向かったと仰せられたのでしょうが」
「それだけでは、どこにいるかなど分からないわ」
「シロスの西には何があります」
辛抱強い口調でオルジンが問う。フェルネーナはむっとしたが、無知だと思われるのが癪で、わざと詳細に答えた。
「海岸沿いにウルカスの街、その西には大森林。大森林の南岸にはオルゲニアがあり、さらに西へ行けばネダス村があるわ。まだ続ける? あの子がこの内のどこへ行ったのか、分かるというなら勿体ぶらずに教えなさい」
苛立ちと、我が子への思いから、早口で高圧的な声になる。
魔術師はしばらく答えず、陰気な沈黙に身を潜めた。フェルネーナは相手が怒ったのか、それとも感情的な小娘だと馬鹿にされているのか、判断がつけられずに怯んだ。
ややあって魔術師が、乾いた平坦な声で答えた。
「少しお考え下さい。なぜルフス様がシロスまで行きながら、西への追跡を諦めて戻られたのか。なぜお館様が、西へ向かったと聞きながら捜索を諦められたのか。それはすなわち、誰にも行方が分からないからでございます。知られることも見つけられることもない場所へ行かれたからです」
「まさか、死んだ筈はないわ」
フェルネーナはさっと青ざめ、首を振る。それからようやく、はっと気付いて目をみはった。
「ああ――、大森林……そうだわ、大森林なのね。オルグ様の力によって隠され、迷い込んだ者を決して見出すことは出来ない場所」
「ようやくお分かりですか。では、お部屋にお戻りを」
同情も気遣いも見せず、魔術師は冷淡に言い放ち、フェルネーナの鼻先で扉を閉めた。決して乱暴に閉ざされたわけではないのに、フェルネーナは風にあおられたようによろけ、ふらふらと歩き出していた。
(あの子が自ら森に身を隠したのなら)
もう二度と会えないだろう。
絶望がひたひたと満ちる潮のように、心を覆ってゆく。何もないところでつまずき、彼女は壁に手をついた。硬い石の冷たさが、さらに気分を落ち込ませる。
(ルフス)
夫の温かい手を思い出し、フェルネーナは壁に寄りかかると、その場に座り込んでしまった。己の手を握り締め、それを口に押し当てて嗚咽を堪える。戻ってきて欲しかった。そばにいて、大丈夫だよと励まして欲しかった。
だが、ルフスと彼女の間には、老セナトが立ちはだかっている。
この時になってやっと、フェルネーナは心底から己の父を憎んだ。これまでにも軽蔑し、腹を立て、顔を背けてはきたが、本当に憎いと思ったのは今が初めてだった。
(返してください)
息子を皇帝の養子にさせ、夫を遠い兵営へと追いやり、彼女の希望と慰めをふたつとも奪い去って、しかもそのまま彼女をこの冷たい牢獄に放置した。凍えて死のうと構わぬとばかりに。
(私の心を、私の愛を、私の――……)
己が残酷な仕打ちを受けたことを、不意に自覚した。してしまうと、涙が止まらなくなった。彼女は声を殺し、小さく震えながら、静かに泣き続けた。
同じ日の夜、老セナトもまた、魔術師を訪ねた。人目を避け、ただ一人、燭台と一通の封書を手にして。
「そなたの申した通りであったな。皇帝から書状が届いた」
室内に凝る闇は、小さな燭台の明かりではとても照らすことが出来ない。返事はなかったが、セナトは気にせず、明かりの下で羊皮紙を広げた。既に昼間、目を通して内容は分かっている。
「もう孫を無理に捜す必要もない。そもそも皇都の軍団だけで、東西の竜侯を相手取るのが無謀だというのだ、若造め」
くく、と喉の奥で満悦の声を立てる。もくろみ通り、面倒な第八軍団は潰れた。
「これで我々に有利な取り決めが出来る。若造には女やもめの相手をさせれば良い。そなたの申した未来に変わりはあるまいな?」
影がうなずいた。セナトは口元の皺を深めてにたりと笑った。
「愚かで非力な若造め、腰を低くして来るが良い。せいぜい盛大に歓迎してやろう。このナクテで……」
「クォノスで」
魔術師が不意に口を挟み、セナトは水を差されて顔をしかめた。
「会談はクォノスで行えと言うのか?……ふむ、確かに、ナクテへ来いと言えば、いかに愚かでも警戒するか。良かろう。ちょうどルフスがいることだ、準備はあ奴にやらせれば良い。雑用が似合いだ」
フンと鼻を鳴らし、セナトは書状をもう一度眺めてから畳む。
「新しい年は、我が栄光の輝ける年となろう。アウストラ一門が、ようやくディアティウスの覇者となる年だ。女の一門などとは、二度と陰口を叩かせぬ。アエディウスの血など絶えるがいい!」
拳を握りしめたはずみで、書状がぐしゃりと潰れる。だがセナトは気にしなかった。魔術師を見つめ、彼はすっと目を細めた。
「そなたの働きに期待しているぞ。事成りし暁には、このような狭い部屋ではなく、立派な屋敷を建てさせ、好きなだけ古の力を調べられるようにしてやる。むろん、それを我が国のために使うのならば、だがな」
我が国、と言った時の声音は、既にディアティウスを己の私物とした者のようだった。魔術師は初めて何らかの感情を抱いたように身じろぎしたが、含みのある沈黙の後、結局ただ一言だけ、
「御意」
かすれた声で応じて、頭を下げた。セナトは不審げに眉を寄せたが、追及はせず、無言でうなずくと部屋を出て行った。
燭台の明かりが消え、室内は完全な闇になる。そしてそのまま、死に覆われたように部屋の一切が沈黙した。ネズミの声も、魔術師の足音もなく。
館の外で夜空を照らしている、爪のように細い月の光からさえ、身を隠そうと闇が息をひそめているかのようだった。




