1-7.希望の種
隊長、と呼びかけながらドアを開けると、マスドがだらしなく椅子に身を沈めたまま、けだるそうに顔を上げた。初めて城門の覗き窓ごしに見た時と同じ、酷薄な薄青色の目。それがフィンの姿を認めるや否や、害虫でも見つけたかのように険しくなった。うんざりした風情のため息がひとつ、それから瞼がゆっくり下りる。
「……生き返っちまったか」
小さく口の中でつぶやかれた台詞を、しかしフィンは確かに聞き取った。眉を寄せ、どういう意味かと表情で問いかける。マスドはうんと伸びをして、上げた手を勢い良く振り下ろすと同時に立ち上がった。
「あのまま死んでりゃ、役に立ったんだがな。まったく、なんだってこう往生際の悪いのがいるもんかねぇ」
ぼやきながら彼は机の縁を回り、フィンの前に立つと、大仰にお手上げの仕草をして見せた。
「で、何だ? ここから出て行くのか、何か夢物語みたいな計画をおっ始めようってのか、それとも結婚式でも挙げたいのか?」
「結婚式?」
思わずフィンが頓狂な声で聞き返すと、マスドは面白くもなさそうに肩を竦めた。
「そうした奴がいるんだよ。おまえみたいにある日突然“生き返った”面で騒々しく飛び込んできたかと思ったら、命を懸けるに値する女を見つけたとか言って、このご時世だってのに頭に山盛り花を咲かせて挙式しやがった。ものの半月と経たずにおっ死んだがね」
「…………」
フィンの表情が曇ったのを見て、マスドは面白そうに目を細めた。フィンが再びすごすごと墓穴に引き返すのを待ち受ける目だ。そうと気付くとフィンはぐいと顎を上げ、負けじと瞳に力を込めた。マスドがあからさまに落胆したが、フィンは構わなかった。喜ばせてやる義理はない。
「そんな用件で来たんじゃありません。俺はただ、神殿に行きたいので外出許可を貰いに来たんです」
「神殿? なんだ、神頼みか。それとも崇高なるデイアか母なるアウディアのお告げでもあったのか? 言っとくが、町の連中を引っ掻き回すことを企んでいるのなら、早いとこ諦めた方が身の為だぞ」
「引っ掻き回す?」
「奴らに下手な希望や目的を与えるな、ってことだ」
さらりと言われた内容を理解するのに、フィンの頭はしばし手間取った。ようやく理解したら、次はその事実を信じられなくて言葉が喉につかえる。
「どうして……、あんたは、」ゆるゆると首を振る。「あんたも、自分で言ってる『生きて』る一人じゃないか。なのに、どうしてそんなことを言うんだ?」
丁寧語を使うことも忘れて、彼は愕然とマスドを見つめた。
今ならわかる。この男は、あの無気力な鈍感さに侵されてはいない。このままでは希望がないことも、いずれ現状は破綻して終わりが来ることも、分かっているはずだ。それなのに、なぜ何もしない?
「死人をまとめるのに、生きてる人間も必要だ。と言うより」マスドはにやりとした。「死人ども相手だから、俺がここにふんぞり返っていられるわけさ。おまえは何が出来るってんだ? 放っときゃぁ、半分眠ったまま、痛みも感じずおとなしく死んでってくれる連中を、ありがたくもお節介に揺り起こし目を覚まさせて、ぎゃーぎゃー喚き騒がせて、逃げ場のない囲いの中で押し合いへし合いさせるつもりか? それを連中が感謝するとでも?」
「やってみなきゃ分からないじゃないか!」
フィンは思わずむきになって言い返す。マスドは冷笑で応じた。幼稚だな、と。
(駄目だ、具体的な話を出さないと適当にあしらわれるだけだ)
フィンは唇を噛むと、深く息を吸って心を落ち着かせ、言うつもりではなかったことをゆっくり話しだした。
「……このままじゃ、いずれ食糧は手に入らなくなる。だから、壁の内側で、少しでも麦や豆を育てられないかと思ったんです。収穫があれば、きっと皆もまた希望を取り戻すだろうと」
「誰がその畑を守るんだ、馬鹿」
マスドが呆れ声を上げた。今でさえ、食糧の配給には危険な空気がつきまとう。市民達は飢え、荒み、隙あらば他人のものを奪おうと目を光らせている。無防備に畑を耕しなどすれば、実りを待たずに土は掘り返され、種籾や豆の奪い合いになってしまうだろう。それはフィンにも容易に想像がついた。
「だから、フィアネラ様に頼むんです。神殿なら、簡単に荒らされる心配はないし……第一、余分の土地があるのはあそこぐらいでしょう。今じゃ街は、どこもかしこも人が溢れてる」
「…………」
マスドは腕を組み、ふうっと息を吐いて、難しい顔をした。そのまましばらく沈黙し、しかめっ面で考え込む。フィンは固唾を呑んで返事を待った。
「分かった」唐突にマスドは言った。「行って来い。警備の兵は出せんが、必要な種や農具は融通すると伝えろ」
「はいっ!」
驚きながらも威勢良く答え、フィンはもう早速と走り出した。
つむじ風のように彼が出て行くと、残されたマスドは大きなため息を吐き出した。
「やれやれ……また新しく補充せにゃならんか。折角使えるようになったと思った途端に、面倒なこった」
ぶつくさぼやきながら、乱雑な机の上をかきまわして、羊皮紙とペンを掘り出す。彼は椅子に座ると、前にこの手紙を書いたのはいつだったか、と思い起こしながら、ペン先をインク壺につけた。そしてふと皮肉な笑みを浮かべる。
「せいぜい希望を持つがいいさ」
そのうち、このインクも手に入らなくなるだろう。それを考えると、まだ壺に黒い液体が残っているうちに“生き返る”者が現れるのは、幸運とさえ言えるかもしれなかった。後になればなるほど、気力を取り戻したところで出来る事は少なくなっていくのだから。
マスドは陰気な苦い笑みを浮かべながら、かつて何度も書いた文面を、そのまま繰り返し始めた。
ナナイス駐屯第十七連隊長マスドより、ウィネア駐屯第八軍団長ディルギウス殿――
一方フィンは上司のもくろみなど夢にも思わぬまま、神殿へと走り続けていた。今では、長い坂道や果てしない階段も、まるで苦にならない。
「フィアネラ様!」
呼びかけた声の明るさに、女祭司は目を丸くして振り向いた。
「どうしたの、フィニアス。まるでお祭りにでも行くみたいね」
「あ……すみません、ちょっと浮かれ過ぎですね」
フィンは照れ臭そうに謝り、頭を掻いた。が、すぐに勢い込んで話を始める。
「計画を思いついたんです。マスド隊長も許可をくれました。実は……」
他の者の耳に入らないよう、極力声をひそめてはいたが、それでも時々興奮のあまり、身振り手振りが大きくなる。最初は呆気にとられていたフィアネラも、次第に微笑を広げ、「どうですか?」とフィンが問いかけで締めくくった時には、口元に手を当てて笑いを堪えていた。
「あらまぁ」
ともかくまずそれだけ言い、フィアネラはこみ上げる笑いをなんとか引っ込めた。その反応にフィンが不安げな顔をする。小首を傾げて主人の顔色を窺う犬のようだ。フィアネラは自分の連想にまた笑いかけ、慌てて表情を取り繕った。この年頃の男の子を、あまりからかっては悪い。
「やっぱり兄妹なのねぇ」
「え?」
「ここだけの話ですけれどね」ひそっ、とフィアネラは耳打ちした。「ネリスも、クナドさんの家の庭に、瓜の種を蒔いてみたと言っていましたよ。あそこは塀にぐるりを囲まれていますから、外から見付かる心配はないと言って。ちゃんと育てば良いのだけれど」
「ネリスが……、そうだ、フィアネラ様、ネリスに会われたんですよね。前と変わりありませんでしたか。クナドさんの家で安全に暮らしているんですね?」
はっと我に返って問う。フィアネラは優しく微笑んでうなずいた。
「ええ、今のところは挫けずになんとかしのいでいるようです。時間があるのなら、帰りに様子を見に行っておあげなさい。あれきり一度も会えない、と不安そうにしていましたから」
「……はい」
フィンはしゅんとうなだれた。自分のことに手一杯で、心が鈍るに任せ、大事な家族のことを忘れていたなんて、俺はなんて薄情なんだ――そう自責し、唇を噛む。
フィアネラはそっとフィンの肩を叩いて励ました。
「あなたの計画、とても良い考えだと思うわ。隊長さんが協力して下さるのなら、上手く行くかもしれません。もっとも、神殿ではどうしても人目に触れますから、荒らされないように何らかの策を講じなければなりませんけれど……それは私たちの方で相談してみましょう」
残念なことですけれど、と言い添えて、フィアネラは目を伏せた。傷つき飢えた人々を追い払うなどとは、神殿の本来の役目からするとまったく逆の行いだ。しかし今は、そうでもしなければ本当に彼らを助けることは出来ない。
「お願いします」
フィンは彼女の葛藤を慮り、真摯に頭を下げた。
「俺に出来る事があったら何でも言って下さい。時間の許す限り手伝います」
マスドが何と言おうと、フィンはそうするつもりだった。だが彼の決意を、フィアネラは軽くかわすように微笑んだ。
「ありがとう。あなたのその誠意が何よりの励ましだわ。さあ、もうお行きなさい。また近い内に会うことになるでしょうけれど……それまで、アウディア様のご加護がありますように」
「……?」
フィンは眉を寄せたが、フィアネラはそれ以上は教えてくれなかった。初めて当直についた夜を思い出し、フィンは不安に胸を騒がせる。だが今回は、フィアネラの表情は穏やかだった。もしかしたら、単にまたこの計画のことで打ち合わせをするだろう、という程度の意味かもしれない。
その言葉にどんな意味が隠されているにせよ、じきに分かることだろう。フィンはそう割り切ると、もう一度ぺこりと頭を下げ、坂道を駆け下りて行った。
そのままクナドの家に行こうとして街路を走っていると、不運にも兵営の仲間に見付かってしまった。
「おっ、いい所で。おいフィン、おまえも手を貸せ!」
どうやら鍛冶屋に修理に出していた武具を受け取りに来ていたらしい。重そうなあれこれを荷車に積み込んでいる最中だった。むろん車を引くのはロバではなく人だ。そしてフィンは、どうにか一人前と認められるようになったとは言え、立場としてはいまだ一番下っ端なのである。
断れるはずもなく、フィンは渋々、力仕事に加わったのだった。