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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
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4-5. アンシウスの頼み



 目が覚めると、石畳の上に倒れていた。

 フィンは錆びた蝶番のようにきしむ体を起こし、払暁の光に顔をしかめる。少し先に、カルスムの兵営が小さく見えた。

 どうせなら、もう少し先まで運んでくれたら誰かが見つけてくれたかもしれないのに、などと心中ぼやきつつ伸びをすると、体の中で光が広がるのが分かった。

〈お早う、レーナ〉

 ごく自然に、笑みが浮かぶ。と、真横にふわりと少女が現れた。

「フィン、どこも痛くない?」

 心配そうなレーナに応え、フィンはゆっくり体を動かして確かめると、うなずいた。

「大丈夫だ。まあ、冬に石畳の上で一晩過ごしたにしては、快調だよ」

「そう……良かった」

 ほっと息をつき、レーナはフィンに身をすり寄せた。フィンは彼女の肩を抱いてやりながら、改めて、竜と言えども神々とは違うのだと考えた。万能ではないし、弱りもすれば、恐らく死ぬこともあるのだろう。昨夜のあんな状況では、力を発揮するどころか、生き残ることさえ難しかったに違いない。フィンという絆の伴侶がいればこそ、互いに守り合うことが出来たのだ。

「君の方こそ、大丈夫かい」

 遅まきながらフィンが気遣うと、レーナはにこりと微笑んだ。

「もう平気よ。ここは明るいし、闇の力もそんなに強くないもの」

 そう言って、全身で太陽の光を受けとめるように両腕を広げる。フィンは羨ましげにそれを眺め、自分の空きっ腹に手を当てた。

「それじゃ、兵営の様子を見に行こう。ついでに何か食べ物にありつけたらいいんだが」

「……人間って時々不便なのね」

 レーナは複雑な顔をしたが、反対はせず、フィンと並んで道を歩き出した。

 遠くから見ている時は気付かなかったが、兵営に近付くにつれ、昨夜の悪夢の残滓が目につきだした。ここまで逃げていながら、力尽きて倒れた兵の遺体。闇に追いつかれたと思しき真っ白な骨や、喰い残された体の一部。仲間に見捨てられ、道端の草むらで体を丸めて痛みと恐怖にすすり泣いている兵もいる。

 フィンは生き残りを見つけると、レーナの力を借りて応急処置を施し、励まして立たせ、どうしても歩けない者には肩を貸してやった。爽やかな朝の光の中で、彼らだけが彩りの抜けた灰色の染みのようだ。

 惨めな一行が兵営に辿り着くと、こちらもこちらで似たような状況だった。苦痛の呻きが、怨嗟の声が、そこらじゅうからこぼれて床に淀んでいる。

 だがフィンとレーナがその中を進んで行くと、次第にざわめきが変化しはじめた。

 竜侯だ、誰かがささやき、虚ろな目に光が戻る。

 フィンは彼らの声と視線を痛いほど意識しながら、連れてきた負傷者を医務室へ預けに行く。敢えて後を追う者はいなかったが、賞賛と畏敬のまなざしはどこまでもついてきた。

 医務室に着くと、見覚えのある顔がちらほらとあった。フィンは軍医に負傷者を預け、誰だったかなと記憶を探る。と、寝台から一人の男が手を上げて敬礼した。

「また助けられたな、デイアの竜侯」

「あ!」その声を聞いて、思い出した。「あなたは、あの時の」

 山小屋で闇の獣に囲まれていたところを、フィンとマックとヴァルトの三人で助けた、あの隊長だ。フィンはホッとして微笑んだ。

「無事でしたか。良かった」

「お陰様でね」

 隊長はにやりとしてから、レーナに目を向けた。

「そのお嬢さんが、もしかして……」

「ええ、デイアの竜です」

 紹介されて、レーナが不慣れな仕草で、小首を傾げるように会釈した。フィンは隊長の様子を見て、「災難でしたね」と同情的に言った。隊長は、まったくだ、と苦い声を漏らす。だが彼がディルギウスの暴挙を責めるより早く、会話を遮る者が現れた。

「フィニアス、君か!」

 再会を喜ぶ声ではなかったが、名を呼ばれては無視できない。フィンは嫌な予感を抱きつつも振り返り、アンシウスに無言で頭を下げた。脱走兵という自分の立場を忘れてはいなかったからだ。相手の方も、司令官の顔に泥を塗った若造のことは、よく覚えているらしい。疲労にやつれた顔色をさらに悪くして、怒鳴るべきか感謝すべきか迷いながらフィンを見つめている。

 ややあって、アンシウスの方が折れた。

「……危地を救ってくれたことには、感謝せねばなるまいな。よもや本当に、君が竜侯だとは」

「そうでなかったら、逃げ出す必要もなかったでしょう」

「なぜ脱走したのかね? あれだけの力がありながら」

「ウィネアにいた頃は、まだ自分に何が出来るのか分かっていませんでしたし……いずれにせよ、ディルギウス司令官に利用されたくなかったんです」

 フィンは率直に答えた。怒るなら怒れ、知るものか、と開き直る。

 だがアンシウスもディルギウスに対しては、フィンと似たり寄ったりの評価をしていたのだろう。咎めるどころか、それなら理解できるとばかりにうなずいた。

「……その司令官だが、もしや……」

「亡くなりました」

 フィンは端的に事実を答え、それから思い出して少し困った顔をする。

「すみません、軍団旗も何もかもあそこに放って来てしまいました。戻ればもしかしたら、旗や、司令官杖ぐらいは残っているかもしれません」

 そういえば自分も剣をなくしてしまったのだった。無意識に腰をまさぐり、鞘だけが残っているのを確かめてがっかりする。

「遺体は……」

 アンシウスは漠然と問いかけたが、フィンが首を振ると、そうか、とつぶやいた。闇の獣に食われたら、遺体は残らない。骨は見付かるかもしれないが、誰のものだか判るまい。

 ふうっと息をついて、アンシウスは口元に微苦笑を浮かべた。

「脱走したというのに旗を気にかけるとは、君も律儀だな。軍団に戻る気はないかね」

「いいえ」フィンは再度、首を振った。「家族のところに帰らないと」

 家族、と聞いてアンシウスは何か言いかけたが、思い直して諦めた。彼もかなり参っているようだと気付き、フィンは少しばかり声を和らげる。

「お願いです、軍団をウィネアに戻して下さい。きっと今、あの街も苦境に陥っている筈です。テトナや、ナナイスを……」

 故郷の名前を口にする時、喉が詰まりそうになった。

「取り返してくれとは、言いません。せめてウィネアを守って下さい。北部でまともな街は、もうあそこしかないんです」

「そうだな」

 アンシウスは答え、わずかにうなずいた。言われるまでもなく、撤退を考えていたのだと窺える表情だった。多くの人命と軍資金とを無駄に失い、月日を浪費し、信用は損なわれた。その責任を、公的にはディルギウス一人に押し付けることが出来ても、良心の呵責と、何度も何度も心に舞い戻る後悔の念からは、逃れられない。

 色褪せてくすんだ彼の心が灰色の靄のように見えて、フィンはうつむいた。

 アンシウスは年少者に同情されたと気付き、自嘲気味の苦笑をこぼすと、咳払いしてごまかした。

「フィニアス、もうひと働きしてくれないだろうか。我々がウィネアに撤退する旨を、山脈の南、コストムのグラウス将軍に伝えて貰いたい。皇帝は我々の援護を期待しておられるようだが、それが叶わぬ事態になったと、出来るだけ早く知らせたいのでね」

「それは……」

「むろん、今回限りのことだ。これから信書をしたためるが、それを届けたら君の仕事は終わりだ。家族のもとへ帰るが良い。いや、先に家族の所に寄っても構わんが。何しろ竜の翼があれば、山脈も軽々飛び越えられるだろう」

「……分かりました」

 そのぐらいの義理はまだあるだろう。フィンはうなずき、それからちょっと目をしばたいた。

「では、書状の用意が出来るまで、食堂で何か調達しても構いませんか」

 言った端から、狙いすましたように腹が鳴る。アンシウスは心持ち目を丸くして、それから、初めてフィンの前で笑った。

「むろん、好きなだけ詰め込みたまえ。竜侯といえども、育ち盛りの若者だな! 味は保証できんが、なに、空腹なら何でも美味かろう」

 アンシウスは親しげにフィンの肩を叩くと、後で司令官室に来るようにと言い残して部屋を去った。フィンはそれを見送り、肩に手をやって複雑な気分になる。

 もし、ウィネアに着いたあの頃、アンシウスが司令官だったなら。ディルギウスを何らかの方法で排除し、軍団を掌握してくれていたなら。そうすれば、どれほど事態は変わっていただろうか。

(いや……それでも、結果は同じだったかもしれないな)

 街には、軍団の動向を左右する有力者がいた。ディルギウスを排したとても、アンシウス一人の力では何も変えられなかったかもしれない。フィンが竜侯になろうがなるまいが関係なく、やはり第八軍団は皇帝のために、あるいはナクテ領主のために、南進を決めたかもしれない。

 今のアンシウスの姿は、この成り行きの結果なのだ。それだけを見て、今さら、ああだったらこうだったらと考えても、何の足しにもならない。

 フィンはしばし茫然としてから、レーナを振り向いてにこりとした。

「それじゃ、何か詰め込みに行くか。君は姿を消していた方がいいかもしれないな」

「どうして?」

「きれいな女の子がいると勘違いして、暇な奴らが寄って来たら、追い払うのに忙しくて水も飲めないからさ」

 フィンは冗談めかして言った。本当は、こんな殺伐とした場所にレーナを留まらせたくなかったのだ。もはや人間の暗い感情に害されることはなくとも、無垢で清純な彼女に対し、この状況が良い影響を与えるとは思えない。

 レーナはそんな気遣いを漠然と察したようだが、しかし、やはり正確には理解できないようで、ことんと首を傾げた。そして一言、

「だったらフィンも、暇な人たちに囲まれてしまうんじゃない?」

「………………」

 久々の虚脱感に抗しきれず、フィンはへなへなと床に座り込んでしまったのだった。


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