4-4. 吹雪に吼える闇
皇帝が広場で急使の知らせを受ける七日ほど前、ピュルマ山脈では激しい雪が吹き荒れていた。
サルダ族の村でも、人は皆、家の戸口をぴったりと閉めて、毛皮にくるまり身を寄せ合っていた。寒さにも平然としているのは、青霧とフィンだけだ。
「いいよなぁ、兄貴は」
マックが赤い鼻をして羨むと、フィンは苦笑を返した。
「何も感じないわけじゃないぞ。寒いことは分かっているさ。ただ体に堪えないだけだ……だからこんな天候でも外に追い出される。代わって欲しいか?」
おどけた質問に、マックはにやりと笑って首を振った。フィンは軽く少年の頭をはたき、家族に行ってきますと告げてから素早く外に出た。
夜かと見紛うほど、空は重く暗い。実際、そろそろ夕暮れだろう。降りしきる雪が視界を遮っているが、隣に立つレーナの放つ仄かな光が足元を照らしてくれた。
うっかり村の中で遭難しないよう、フィンは注意深く歩を進める。雪の上に残っている足跡はほとんどない。鳥も獣も、どこかで息を潜めているのだろう。やむを得ない用事で外に出た村人の足跡が、白と灰色の中へ消えてゆく。吹き溜まりにはまった者がいる様子もない。
フィンは小さな雲のように息を吐き出し、ぐるりを見回した。
「特に異状はないな……」
そもそも、こんな日に異状の起こりようもないか。フィンは小さく肩を竦め、ふと思いついて悪戯っぽくレーナに笑いかけた。
「雪だるまを作って、ネリスとマックを驚かせてやろう」
「なあに、それ?」
「雪遊びのひとつさ。ナナイスでは降ってもそんなに積もらなかったから、小さいのしか作れなかったけど、ここなら埋もれるほどある」
手近な雪をすくって丸め、それを核にしてころころと雪玉を大きくしてゆく。レーナは興味津々とそれを見ていたが、やがて合点が行くと、嬉しそうに自分も雪玉を転がし始めた。
適当な大きさのものがふたつ用意出来たところで、飾る場所を決めて、よいせと積み上げる。石や枯れ枝を探して顔を作ってやると、完成だ。
「用事で出てきた村の人が、ぎょっとしなきゃいいけどな」
半ばそれを期待する声音でフィンが言うと、横からレーナが手を伸ばし、雪だるまの頬に松葉をくっつけた。フィンは目をぱちくりさせ、それから、ああと納得して苦笑する。彼の左頬にある傷痕だ。
「ネリスがこれに気付いたら、大喜びで壊してくれるぞ」
「まさか。ネリスはそんなこと、しないわ」
レーナが驚いて否定したので、フィンは肩を竦めた。愛情の裏返しだとか、照れ隠しの暴言・暴挙といったものは、彼女にはまだ理解出来ないらしい。フィンはレーナの頭をぽんと撫でた。
「だったらいいんだが」
壊さないまでも、変な顔にするぐらいはやるだろう。既に諦めながらそんなことを考えて、分身となった雪だるまをつくづく眺める。
――と、その時、不意に冷気が身を包んだ。
フィンは息を飲んで竦み、反射的に周囲を見回す。
(この感覚は)
暗い夜の記憶が瞬時によみがえり、彼は意識する間もなく剣の柄を握っていた。
(まさか。この天気とは言え、まだ陽があるのに)
雪と共に、静寂が肩にのしかかる。息を殺して気配を探っていると、人の耳ではとらえられない音が、遠くかすかに聞こえてきた。
ガシャガシャと、剣帯や盾がこすれる金属音。巨人の寝言のように、何百もの靴が雪を踏みしめる。そして、無口な軍団を取り囲んでゆく、密やかな影の気配……
「そんな馬鹿な!」
思わずフィンは声に出して罵った。この時期に、しかもこの天候に、山に踏み込むなどとは。とうとうディルギウスは気が狂ったのか。
レーナも動きを察知し、不安げに灰色の空を見上げている。
そこへ、毛皮にくるまったネリスがやってきた。
「何やってるのよ、いつまでも帰ってこないと思ったら、こんな大きな雪だるま!……お兄?」
大袈裟に呆れたふりで心配していたのをごまかし、それから、フィンの様子がおかしいことに気付いて眉を寄せる。
「どうしたの? 何か……」
訊きかけて彼女もぎくりとし、北を振り向く。
「なんで……どうして? 闇の獣が、あっちに集まってる……」
「軍団が山に入って来たんだ」
フィンが唸った。ネリスは息を飲み、それから慌ててフィンの腕を掴んだ。
「行かないよね? お兄、まさか行かないよね!?」
「ネリス……」
恐怖を浮かべたまなざしに見つめられ、フィンはたじろぎながら、そっとネリスの手を外した。
「俺だって出来れば行きたくない。だがもう、見捨ててはおけないんだ。ネリス、おまえは……皆は、サルダ族と一緒にいれば安全だ。青霧が守ってくれる。だが軍団兵はどうなる? ディルギウスに奴隷のように追い立てられて、雪の中で闇の獣に囲まれて全滅するのを、好都合とばかり放置するなんて、俺には出来ない」
「でも、お兄一人じゃ、いくらレーナがいたって危ないよ!」
「死にそうになったら逃げるよ。それにな、ネリス。今、軍団兵を助けに行かないのは、何十人もの俺自身を見殺しにするのと同じだ」
フィンが静かに諭すと、ネリスは言葉に詰まり、唇を噛んでうつむいた。
そう、偶然レーナと出会わなければ、フィンは軍団兵になり、今もディルギウスの下にいたかも知れない。もしそうなら、脱走兵として家族に迷惑をかけないように、何よりその場で斬り捨てられないように、無謀な進軍にも黙って従っただろう。
「行って来い」
穏やかな声が背中を押した。ハッと振り返ると、青霧がいつの間にか立っていた。
「怒りに満ちた闇の獣たちが山の深くにまで入り込んだら、我々も今までと同じ関係を保っていられなくなる。だが俺が行っても、平地の獣にさしたる影響は与えられんだろう。むしろ、獣たちに軍団兵を手早く片付けさせて、速やかにお引き取り願う方が被害が少ない。俺たちサルダ族にとっては、な」
だからおまえが行け、と、重ねて言われるまでもなかった。フィンはうなずき、レーナに意志で合図する。彼がレーナの肩に手をかけたかに見えた瞬間、少女の姿は輝く白い翼に包まれ、変化した。
竜の巨体が空へと駆け上がり、羽ばたきに煽られて地吹雪が舞う。腕で顔をかばったネリスが次に目を開けた時には、レーナの姿は灰色の雲から降る雪の一片と見分けがつかなくなっていた。
流星のように空を横切って行く間、フィンは既に剣を抜き、身体の内に満ちる光を刃に集めていた。空気の薄さも気温の低さも、今の彼には何の害をも与えない。
周囲で波打つ白い毛は、実体があるのかないのか判然としないが、暖かく力強い存在感は確かにあった。フィンはそこに乗っていると言うより一体となって、重い雲の間を駆け、山々の嶺を越えてゆく。
じきに、目指すものが見えてきた。
険しい山並みが終わりに近付き、まだ雪に埋もれていない街道が頼りなげな筋となって現れる。北の平地から峠をひとつ越えた辺りに、軍団兵がひしめいていた。
闇が、濃い。
戦う者と逃げる者がぶつかり合い、騒々しい音を立てている。混乱した悲鳴、怒鳴り喚く士官たち、そして闇に接するところからは断末魔の声が。
街道を長く埋め尽くす軍団兵の列は、既に寸断されて統率も秩序もなくなっている。最後尾の兵たちはまだ状況が分かっていないらしく、救援に行こうとして、かえって退路を塞いでいた。
フィンは上空からそれらをすべて見て取ると、まず隊列の後方へ飛んだ。彼らに姿が見えるよう、ただし矢を射かけられないよう高度を保って。
「退却しろ!」
フィンは声に力を込めて叫んだ。混乱を稲妻のように切り裂いて、その命令が軍団兵の耳に届く。
「前方の部隊は闇の獣に囲まれている、下がって退路を空けるんだ! 急げ!」
光を帯びた剣を振って後退を指示しながら、フィンは胃が締め付けられる思いを味わっていた。驚愕してこちらを見上げる顔、顔、顔。単なる驚きだけでない、強烈な感情のこもったまなざし。
それは、フィンが今までの人生で一度も向けられたことのない、そしてこの先の人生のどこかで受けるだろうとも、受けたいとも、決して考えたことのないものだった。
畏怖と感動、大きな期待。彼の姿を見た兵たちが、本能的に己のすべてを委ねようとするのが感じられた。あたかも神にまみえたかのように、おののき平伏して。
(やめてくれ、畜生! 竜に対する反応ならば分かる、だが竜侯に――よりによってこの俺に、そんな目を向けないでくれ!)
フィンは暴れだしたい衝動と戦いながら、もう一度命令を繰り返した。
後方の部隊が反転し、来た道を戻り始めたのを確かめると、フィンも向きを変えて前に戻った。
「退却しろ! これ以上進むな、山を下りるんだ!」
まだもたついている途中の部隊に呼びかけながら、街道を意識し、レーナの力を少しずつ注いでゆく。闇の中に光の筋を描くように。
闇が退き、怒りの咆哮が森を揺らした。フィンは初めて、己の内に満ちる光が闇に押されて弱まるのを感じた。
(ここは……こんなにも、闇が強いのか)
レーナが恐れるのも当然だ。鋭くなった感覚で、周囲の森に潜む暗がりが、山々の陰に凝る闇が、じわじわと迫り来るのが分かった。空さえも、今は重い雲に支配され、薄暮が密やかに覆いかぶさってくる。
フィンは挫けそうな意志を奮い立たせ、世界を覆う闇に向けて剣を掲げた。抵抗のしるしではなく、命乞いする降伏の旗だ。
〈見逃してくれ、許してくれ、一人でも多く〉
フィンは強く祈ると、獣にすっかり囲まれた部隊の上で、レーナの背から飛び降りた。
「うわっ! なんだ!?」
頭上に光が射すと同時に人影が降ってきたもので、軍団兵たちが驚きの声を上げた。だがフィンはそれに構わず、地面に片手をつき、光を注ぎ込む。長くはもたないことが分かっていた。
「俺が道を開く、退却しろ!」
叫びながら剣を振るい、街道の外から襲ってきた得体の知れない影を薙ぎ払う。闇の中で蒼い光点が踊った。退路をふさぐ影を次々に斬り捨て、振り払い、生じた隙に兵士を逃がす。気付くとフィンは、焦りも恐怖も感じず、ただオアンドゥスの言葉を心の中で何度も繰り返していた。
――おまえは戦えない者を守る、特別な人間なんだ――
鞭のような触手が腕を打つ。痺れと痛みが走ったが、血は流れない。いつもの傷だ。フィンは闇の中に引きずり込まれる前に、触手を断ち切った。
いちいち屈んではいられず、地面につけた足からも光を移してゆく。自分がただの導水管になった気がした。
軍団兵は次々に向きを変え、恐怖に青ざめて、もはや武器を構えることもせず逃げてゆく。フィンは一人、その流れの外側をさかのぼり続けた。
やがて彼の目は、軍団の旗を捉えた。まだ倒れていない。誰かが必死で守っているようだ。
「退却だ! 逃げろ!!」
もう何度目になるか、喉を嗄らして叫ぶ。次いで彼は、ぎょっとして立ち竦んだ。
旗の下にいたのは、ディルギウスその人だったのだ。憤怒の形相で、抜き放った剣を構え、汚れた靴で軍団兵の死体を踏みつけている。磨き上げられた鎧の胸当てには、赤い飛沫が飛んでいた。
その光景の意味に気付き、フィンはぞっとなった。
闇の獣にやられたのなら、血は流れない。あの赤い汚れは、ディルギウスが配下の兵を自ら手にかけたがゆえのものだ。
「……司令官」
なぜ、という言葉は出なかった。すぐに分かったからだ。ディルギウスは逃走を許さなかったのだ、と。代わりにフィンは呻いた。
「何て事を」
周囲にまだ残っていた兵たちが、司令官と、謎の救い手とを交互に見ながら、じりじりと後ずさる。だが数人は完全にディルギウスに支配されているらしく、フィンに向かって剣を構えた。
「俺たちが争っている場合じゃない!」フィンは怒鳴り、ぐるりを手で示した。「分からないのか、ここでは闇に勝てる者はいないんだ! 俺が道を作るから、早く逃げろ!」
「やはり貴様の差し金か!」
言い終えるより早くディルギウスが吠えた。
「貴様が手引きしたのだな、この裏切り者! すべて貴様が仕組んだのだろう、闇の手先めが! どこまでも俺をコケにしやがって、このガキがぁ!!」
咆哮と共にディルギウスが襲いかかった。激しい斬撃を受け、フィンは防戦一方で少しずつ街道の外へ、森の方へと追いやられていく。いかにフィンが並外れた才能を有していても、相手は歴戦の武人なのだ。
(殺さずに済ませる方法はないのか)
フィンは相手の手筋を読みながら、反撃の機会を窺っていた。迂闊にディルギウスの動きを止めたら、待ち構えている部下たちが一斉にかかってきてフィンを串刺しにするだろう。一撃で殺してしまっても同じだ。忠実な――あるいは汚染された――彼らが、フィンを殺すよりも司令官の介抱を優先して、この場から立ち去るように仕向けなければ。
(出来れば何週間か、指揮を執れないようにしてやりたいが……ああくそっ、闇の獣じゃなくて人間相手に、こんな危機に陥るなんて)
森に向けた背中に、悪意に満ちた冷笑の気配が忍び寄る。闇が待ち構えているのだ。あと一歩、二歩、後ずさって来い……もう少しだ、そら、踵が光からはみ出るぞ……。
「くっ!」
フィンは際どいところで大きく横に跳び、ディルギウスの剣と、手招きする闇の両方から逃れた。石畳に横腹をぶつけ、ウッと息を詰まらせながらも、反射的に転がって起き上がる。
攻撃を予想して剣を構えたが、しかし、刃には何も触れなかった。
「あ……」
切れ切れの息の合間に、声が漏れる。ディルギウスの背後で、闇が巨大な顎を開いていたのだ。
「――っ、逃げろ!!」
フィンの叫びに弾かれたように、数人の軍団兵が一目散に走り出す。だが間に合わなかった。左右の暗がりから闇が大波となって押し寄せ、逃げる兵士を片端から飲み込む。もはや闇は、“獣”と呼べる形状ではなかった。
悲鳴が響いた。兵士たちの、そしてディルギウスの。
愕然と凍りつくフィンの目の前で、ディルギウスが闇に喰われてゆく。逃げようとあがく手足に、幾本もの闇の手が絡みつき、無数の口が牙を立て、貪り喰う。狂ったような絶叫が、甲高くなり、途切れ、思い出したようにまた闇の中から響いた。
フィンは気がつくと、腰を抜かしてへたり込んでいた。手からも力が抜けて、剣は石畳に投げ出されている。恐怖のあまり歯がカチカチ鳴り、自分の体を律することも出来ない。
(駄目だ、逃げろ、ここで死ぬわけにはいかない)
生きて帰らなければ。
彼を引き止めたネリスの顔を思い出し、フィンは震える指で無理やり剣を握った。
辺りはもう、静まり返っている。うごめく闇と、そこからまだはみ出ている爪先があるだけだ。
(レーナ)
自身の内を探ってみても、光は弱く、怯え縮こまっていた。暗くなった空に竜の姿は見えない。レーナの助けとなるような光は、星ひとつさえなかった。
〈ごめんなさい、フィン、でもあなただけは守れるから〉
微かにレーナの声が聞こえた。フィンは強いて息を吸い、剣を支えに立ち上がる。もうすっかり闇に取り囲まれていたが、しかし、それが襲ってくる様子はなかった。
「……満腹したか」
無理に作った笑みはひきつっていた。闇が揺らぐ。フィンは街道の前後を見やり、それから、麓の方へ――軍団が逃げていった方へ、ゆっくり歩き出した。ここからサルダ族の村まで、歩いて戻るのは無理だ。それに、下界から上がってきた闇の獣を引き連れては行けない。
のろのろと痛む足を引きずって歩くと、凝っていた闇が渋々のように道を空けた。目の前をデザートが通り過ぎて行くのを、指をくわえて見ているかのようだ。フィンはそんなことを考え、唇を皮肉に歪めた。
ひたすら戦い、竜の力を注ぎ続けてきた疲労が、今になって一気に押し寄せる。フィンは石畳につまずいてよろけた。そのまま倒れるかと思ったが、何かが彼の体を支えた。
「――!?」
巨大な霜柱に寄りかかったような感触だった。フィンは驚き、自分の目が信じられずに呆然とする。
「おまえは……」
青黒い闇の塊が、体の下にあった。僅かな陰影で毛並みらしきものが見えるが、触れた感じは、ガリガリに凍った雪同然だ。息が白くなり、気力が萎えてゆく。だがそれでも、フィンはかつてウィネアの郊外で夜を過ごした時と同じではなかった。
体の芯では光が息づき、希望と力を与えてくれる。冷気と絶望に負けはしない。
ぐったりとしたフィンを背負って、闇の獣が歩き出した。彼が向かっていた方へ、そのまま。
〈愚カナ〉
獣がフッと鼻を鳴らしたように聞こえて、フィンは途切れそうな意識をなんとかつなぎとめる。鼻で笑われるいわれはない、と心中で反抗して気力を保った。
〈殺ス者デアリナガラ〉
(俺は人殺しじゃない)
体から力が抜けて行く。剣が滑り落ちてカシャンと音を立てたが、拾い上げようにも指一本動かせなかった。
〈殺ス者ダカラ生カシタノニ〉
声が残念そうな響きを帯びた。そんな感情が闇の獣にあるのならば、だが。
フィンは朦朧としたまま、ああそういうことか、とすんなり納得した。
(だからおまえたちは、山賊は放っておいたのか)
野宿生活をしている山賊が闇の獣に殺されないのは何故なのか、ウィネアにいた頃、不思議に思った。だが答えは簡単なことだったのだ。放っておけば、同じ人間を殺す輩だからだ。勝手に殺し合って滅んでくれるなら、手間が省ける、というわけだろう。
(俺は違う)
そう思い通りには行くものか、と言い返す。
(俺は、守る者なんだ)
〈……愚カナ〉
くく、と喉の奥で笑う声。そう思っているのはおまえだけだ、と言わんばかりに。
フィンはムッとしたものの、それ以上は気力が続かなかった。己の内に宿る光が消えてしまわないように、闇を心から締め出して光を守る。暖かな気配が意識を包み、フィンはその中にゆっくりと溶けていった。




