4-1. 秘めたる力の庇護
四章
深まりゆく秋の森は、意外に賑やかだ。赤や黄金に色づく葉、木の実を巣穴に蓄えておこうと走り回るリス達、眠りにつく前の食べおさめに夢中の熊。風が吹くと、枯れ葉やドングリが落ちて、カサカサ、パラパラ、乾いた音を立てる。
オルゲニアから大森林に入って二日目、既に人の為の道はない。獣道さえ、どこへ続くのか迷い錯綜しているように見える。セスタスは太陽の位置と自分の勘だけを頼りに、森の『奥』だと思われる方向へ歩き続けていた。
すぐ後ろを歩くタズが、つくづくと周囲を見回して感心した。
「北部の森とは大分、感じが違うなぁ。あったかい土地だからか、魔法がかかってるからか知らねえけど」
「この辺りにはまだ、魔法の気配はありません。だから気候の違いのせいでしょう」
「へえー。ネラさん、そういうの分かるんスか? 魔法とかなんとか」
「ええ。なんとなくですけれど」
穏やかなネラの声には微笑の気配がある。二人の会話を背中で聞いていたセスタスは、なにがなし面白くなくて、ぶっきらぼうに割り込んだ。
「北部の森はどう違うんだい、タズ」
「そうだなぁ……この森はほら、葉っぱが落ちる木も多いけど、半分ぐらいは緑のまんまだろ。それに、なんかこう、こんもりしてる感じがする。でもナナイスの近くとかだと、大半の木が冬には裸になっちまうし、そうじゃないのは杉か松でさ。ここより大分、すっきりしてるかな」
「船乗りなのに、森で育ったのかい?」
「漁師の子供じゃないんでね。ナナイスは海辺だけど、街の近くには小さい森もあったんだ。子供が野苺とかヤマモモとか桑の実とか、お楽しみを採りに行くような所さ。おまえだってそういうの、あるだろ」
何の含みもなく投げかけられた言葉だったが、セスタスはやや怯んだ。昔の――『セナト』の記憶が、不意に脳裏に広がる。館の近く、農民達が豚にドングリを食べさせ、薪を集めるための森。両親に連れられて、そのすぐ近くまで散歩に出かけた。むせるような木々と苔の匂い、棘に手をひっかかれながら摘んだ野苺の甘酸っぱい味……。
束の間、過去にとらわれて沈黙したセスタスに、タズが不審げな声をかけた。
「もしもーし、坊ちゃん? 目ェ開けたまま寝るなよ?」
「起きてるよ」セスタスは肩を竦め、現在に意識を戻した。「苺は摘んだことがある。でもそのぐらいだね。僕はタズと違って食い意地が張ってないからさ」
「言ったな、このお坊ちゃんめ」
タズは後ろからセスタスの頭をぐしゃぐしゃにし、ふと前を見て目をしばたいた。
「ところでおまえさ、行き先が分かってんのか?」
問いかけながら、なんとなくセスタスの頭に顎を置く。セスタスは迷惑そうに顔をしかめたが、逞しい船乗りの両手でがっちり押さえられているので、逃げられない。
「知らないよ。でも、言い伝えが本当なら、避難所を探している人間は森が受け入れてくれるはずだ」
「えー。そんな適当なことでいいのかよ。俺は食い意地が張ってるから、食い物が足りなくなったら坊ちゃんの手足をかじりだすかも知れないぞー」
「だから来るなって言ったじゃないか!」
セスタスは憤慨して無理やりタズを振り払い、ずかずか先へ進みだした。タズはおどけて怖がる仕草を見せ、ネラが苦笑しながら後に続く。
年長者二人に笑われているのを感じながら、セスタスは一人で苛々していた。フィダエ族が見付からなかったら、タズのせいだ。彼のせいで、深刻な事さえ冗談のようになってしまう。
(こっちは真剣に隠れ家を探しているのに……きっとタズは、身勝手な子供が意地を張って家出しているぐらいにしか、思ってないんだろうな)
そんなことではないのに。
泣きたくなるのを堪えて、セスタスはむっつりと足を動かし続けた。自分勝手な家出などではない。帰りたくとも帰れない理由があるのだ。
――だが、本当に帰れないのだろうか。ほかに方法は?
予定外の第三者が飛び込んだことで、セスタスは自分の考えに確信が持てなくなっていた。ネラと二人だけなら、いつまでもどこまでも、逃げ続けることが出来たろう。だがシロスを去ると決めた時、『最善の方法だから』逃げたのだろうか。ただ逃げるためだけに、その選択をしたのでは?
(でも、他にどうすればいいのか分からない)
逃げて、身を隠すことが正解ではないのだとしても――はたから見れば間違った、子供の愚かしい行動なのだとしても――今のセスタスには、別の選択肢は見えなかった。
(悔しい)
子供であることが悔しい。事態を変えられない無力さが悔しい。
ぎゅっと唇を噛んで、行く手をふさぐ低木の枝を乱暴に払う。
と、その時だった。
不意に視界が揺らぎ、セスタスは泣いてしまったかと慌てて目をしばたいた。だが、奇妙に歪んだ景色は元に戻らない。
「あれ?」
セスタスが立ち止まって目をこすると、後ろでタズもきょろきょろした。
「ネラさん、なんか変じゃないですか」
「どうやら、フィダエ族の領内に入ったようですね。意外に早かった……」
ネラもやや呆然とした面持ちで答え、周囲を見回す。そして、不安げに振り返っているセスタスに気付くと、にこりとしてうなずいた。
「そのまま先へ進んで下さい、大丈夫ですから」
「分かった」
怖がっているのを悟られないように、セスタスは短く応じて歩き出す。街でタズに、殺されるという噂はでまかせだ、と言いはしたものの、歓迎されざる客としてフィダエ族に危害を加えられる可能性がなくはない。何しろ、謎に包まれた部族なのだから。セスタスは一歩一歩、罠にかかるのではと恐れながら足を下ろした。
無言でしばらく歩いた後、彼は思い切って問うた。
「なんだか、こっちが歩いているのか、森が動いているのか、分からなくなってきた。この景色、ずっとこのままなのかな」
歩きにくいんだけど、と抗議するような口調を装う。だんだん気持ち悪くなっていたのだが、弱音を吐きたくなかった。
「いいや」
答えた声は、どこか遠くから響く他人のものだった。セスタスはぎょっとなったが、誰がと探すよりも早く、タズが腕をつかんで自分の陰に引き入れた。武器など何も持たないのに、得体の知れない相手から年少者を守ろうとしたのだ。
思いがけず庇われてセスタスは驚いたが、次いで悔しさにカッと血が昇るのを自覚した。
(守られてばかりだ)
王宮から逃げる時も、下町に隠れていた時も、シロスまでの旅でも。そしてまた、ここでも。
彼らが善意で助けてくれているのは分かっている。自分が無力な子供であることも。
(それなのに僕が、戦になるかならぬかを決める鍵かもしれないなんて!)
立場に見合う力を持てないのなら、いっそ誰もが無視してくれたら良いのに。
怒りに拳を握りしめる。その間にも、彼を庇っているタズが虚空へ呼びかけていた。
「誰だ!? どこにいる!」
「来れば分かる」
風がささやく。女のようだが、男かもしれない。曖昧で分かりにくく、感情のない声だ。
「行きましょう」
ネラが促し、タズは警戒しながら歩き出した。セスタスは強引にそれを追い越し、前に立つ。おい、とタズが咎めたが、セスタスは首を振った。
「フィダエ族に会いたいのは僕だ。僕が先頭に立たないと」
「……分かったよ」
タズは意外にすんなり譲り、セスタスのすぐ後ろについた。
無言のまましばらく歩いていると、次第に森の木々が動くのをやめてそれぞれの場所に落ち着き、景色をねじ曲げていた空気がまっすぐに透き通ってきた。
見えない膜を通り抜けるような、不思議な圧力が一呼吸の間、心身を締めつけ……
「――あ」
抜けた、と思った時には、目の前に集落が現れていた。
セスタスとタズは揃ってぽかんと口を開け、放心して立ち尽くした。
今まで通ってきた森とは比べ物にならない、年経りた鬱蒼たる巨木に囲まれたその場所は、空気までが緑に染まっているかのようだ。
家らしい建物は見当たらず、巨樹のうろがその代わりになっている。太い枝が複雑に分かれて部屋を区切り、小さな節穴が窓や煙出しの役目を果たしているようだが、そのいずれもがごく自然で、削ったり彫ったりして作られたようには見えない。
ディアティウスのどの土地にも似ていない、まったく異なる世界がそこにあった。
最大の巨木は、左右の端から端を一目で見ることも出来ず、上に至っては首をのけぞらせても梢が見えなかった。
セスタスとタズが揃ってその威容に圧倒され、無防備に喉を晒して見上げていると、いつの間にか周囲に十人ばかりの人が集まっていた。
我に返ったセスタスが、どきりとして彼らを見回す。似通った顔立ちの人々は、黒髪の下から、青や藍色の目で見つめ返してきた。衣服には神秘的で複雑な織り模様が入っており、古代を思わせながら、未知の雰囲気を醸し出してもいる。
なにか、とんでもない所へ来てしまった――そんな気がして、セスタスは不意にぞくりとした。
「ようこそ、まれびと」
一人が穏やかに微笑んだ。
「隠れ家を求める者に、ひと時の安らぎを」
「傷の癒えるまで留まり、憩われるように」
続けて誰と誰が喋ったのかは、よく分からなかった。誰の口調もよく似ており、優しいが、奇妙に異質で落ち着かない。
セスタスが戸惑っていると、巨木の方からひときわ変わった人物がやって来た。それに気付いたセスタスは、自分が何を見ているのか、すぐには理解できなかった。
長い黒髪の人物のまわりに、緑色の光がとぐろを巻いている。
(光……? 違う、あれは)
目を細め、セスタスはその正体を見極めようとした。
ただの光ではない。圧倒的な、この巨木にも似た存在感をもつ『何か』が、そこに確かにいる。
「まさか」
意図せず、かすれ声が漏れた。横でタズも息を呑む。愕然としている二人の前に、ネラがすっと進み出た。
「フィダエ族の王にして竜侯ウティア様、ならびにオルグの竜よ、私達を招き入れて頂き、感謝します」
深々と頭を下げたネラの前で、ウティアは足を止め、ゆっくりとうなずいた。その身に絡みつく大蛇のような光が鎌首をもたげ、同様の仕草をする。
「竜……これが……」
セスタスは呆然として、初めて目にする伝説の生物を見上げていた。




