3-7. 殺すこと、守ること
軍団兵は呆れるほど無防備だった。武器を持たない村人を脅し、食糧や金目のものを奪うことに夢中で、フィンの接近に気付いてもいなかった。
(殺すまでもない)
冷静に判断し、フィンは剣の柄で強烈な一撃を打ち込んで昏倒させた。ぐっ、とくぐもった声をもらして軍団兵が膝をつき、倒れる。その頃にはもう、フィンは次の獲物に牙を立てている。
数人片付けたところで、一部の兵が予期せぬ敵に気付いて騒ぎ出した。運んでいた物や、連れ去ろうとしていた女から手を離し、槍を構える。フィンも、剣の柄ではなく刃を使うために握り直した。
雄叫びを上げて軍団兵が襲いかかる。迎え撃つフィンはいつものように、彼らの動きを読んでいた。槍の進路からすっと体をずらして避けると同時に、左手で相手の腕を押しやる。サルダ流武術の応用だ。兵士は己の勢いに引きずられて体勢を崩す。がら空きになった胴に、フィンは素早く一突きした。
間を置かず、仲間が倒れて怖気づいた別の兵の懐へ飛び込み、利き腕の肩に剣の切っ先を潜らせる。悲鳴を上げて槍を取り落とした兵士はもはや脅威ではなく、フィンは軽くあしらって次の標的を探した。
「何だ、貴様ら!」
ようやく隊長がこちらを見て、喚いた。残りの軍団兵が集まり、遠巻きに取り囲む。フィンはどこからかかって来るかと気配を探りながら、隊長に目をやって答えた。
「ただの粉屋だ」
端的な返事に、戸惑いが広がった。これが、不敵な笑みやとぼけた声音で言われたのであれば、愚弄か挑発だと考えられたろう。だが、たった二人で三十人はいる軍団兵の只中に斬り込んできた若者は、薄ら寒いほど平静なのだ。
「軍団兵はいつから山賊になった」フィンは厳しい声で言った。「大方ディルギウスの八つ当たりだろうが、その尻馬に乗って、丸腰の村人相手に狼藉をはたらくなど、恥を知れ」
「気取るな小童が! そもそもこ奴らは長年帝国市民を脅かしてきた野蛮な盗人だ、卑しいクズどもだ! ゴミが消えれば山も美しくなるわ!」
隊長は部下にも聞かせるために大声で喚いていたが、フィンが剣呑に目を細めた途端、怯んで口をつぐんだ。だがすぐに、取り繕うように剣を抜き、やれ、かかれ、と部下をけしかける。
軍団兵が一度にわっと襲いかかってきたが、フィンはそれには目もくれず、一直線に隊長めがけて走り出していた。行く手を阻む兵は素早く無駄なく、利き手を斬るか、急所への一突きで片付けてゆく。
その並外れた腕前を目にした隊長は一気に青ざめ、あろうことか、身を翻して逃げ出した。動物的な本能としては全く正しい反応だが、軍団の一隊を預かる者としては最悪の行動だった。
何の指示もなく置き去りにされた部下たちは唖然とし、あえてフィンに立ち向かうことをやめた。おかげでフィンは楽に隊長を追うことが出来た。
隊長が逃げて行く方向に気付き、フィンは顔をしかめた。あちらではヴァルトが村人を逃がしているはずだ。まだ全員は避難していないだろう。
案の定、家の陰に回ると、逃げ遅れた老婆がよたよたしていた。走れと叫んだところで、どうしようもない。フィンはなんとか追いつこうとしたが、あと数歩というところで間に合わず、隊長が老婆を捕えて盾にした。
「どうだ、これでもかかってくるか!?」
勝ち誇り、隊長はしなびた喉に剣を当てる。フィンは肩で息をしながら、歯を食いしばって立ち尽くした。
「卑怯な」
小さく唸ったフィンに、隊長はひきつった笑いを返した。
「貴様のような化け物相手に、卑怯も何もあるか。そら、こんな婆ぁでも惜しいというなら、剣を捨てて膝をつき、両手を頭の後ろで組め!」
「…………」
「早くしろ!」
隊長が怒鳴り、フィンが剣を手放しかけた、その時だった。
「フィン兄!」
マックの叫びが聞こえて、フィンはハッと顔を上げた。その目に、隊長の愕然とした顔が映る。咄嗟に背後を振り返ろうとした姿勢のまま、彼はゆっくりくずおれた。解放された老婆がよろけ、その陰からマックの姿が現れる。
フィンはほっと息をつくと、彼に駆け寄った。
「すまない、助かった」
言いながら、老婆を促して木立の向こうに見えるヴァルトの方へ行かせる。マックは答えず、青ざめ、血のついた剣を両手で握り締めたまま小刻みに震えていた。
「……マック?」
様子がおかしい。フィンは心配になって彼の肩に手を触れようとした。が、より早く、彼は剣を取り落としてしゃがみこみ、激しく嘔吐し始めた。
驚いて立ち尽くすフィンの足元で、マックは自分が刺し殺した男の傍らにうずくまり、ガタガタ震えながら泣いていた。
(こうなるのが普通なのか?)
フィンは愕然と悟った。マックが人を殺したのは、これが初めてなのだ。ウィネアの外で盗賊に襲われた時は、守られている側だった。この山に入ってから軍団兵を襲った時も、殺さないことが前提になっていた。
今、マックを苛んでいるのは、殺人の衝撃なのだ。
ヴァルトが走ってきて、マックの背中をさすりだした。
「大丈夫だ、おまえは立派だったぞ」
滅多に見せない表情で、父親のように言い聞かせている。
「おまえは正しいことをしたんだ、婆さんを助けたんだよ。よくやった」
それでも、マックの震えと嗚咽はなかなか止まらなかった。ヴァルトは彼の背を力づけるように叩いてから、立ち上がってフィンに向かい合った。その表情は、初めて会った時のように厳しくよそよそしい。
「何を驚いてる、フィニアス。いいか、こいつの反応が普通なんだ。俺はテトナで軍団勤めをしている間、山賊退治に駆けずり回って、何度も戦闘を経験した。たとえ相手が山賊でも、初めて人を殺した新兵は大概こうなる。鶏や豚をシメるのとは訳が違うんだ。吐くわ泣くわ、小便もクソも垂れ流しちまう奴だっている。そのうち少しは慣れるにしたって、おまえみたいに血に酔うこともなく、顔色ひとつ変えずに効率良く人殺しが出来るもんか。おまえは異常なんだ。覚えとけ」
非難めいた口調に、マックが青い顔を上げて抗議のまなざしを向けた。しかしとてもフィンの弁護を出来る状態ではない。何か言おうとしたものの、唇がわなないて、結局こぼれたのは嗚咽だけだった。
当のフィンは、黙って立ち尽くしていた。
(やっぱり、俺はどこかおかしいんだろうか。人を殺しておいて何とも思わないのは……だからって楽しんでなんかいない、殺したいわけじゃない。でも)
暗い考えが広がり、自分には光の竜などより、闇の獣の方がよほど似つかわしいのでは、などと思い始めた、その時。
「ああ、確かに特別なんだろうさ」
温かい手が肩に置かれた。指の欠けた、けれどしっかりと力強い手が。
どきりとしてフィンが顔を上げると、いつの間にかオアンドゥスがそばに立っていた。いつもの、実直で心のこもった微笑を浮かべて、彼はゆっくりと言った。
「俺は戦のことは分からんからな。息子には何も変わった所はないと思ってきたが、ヴァルト、やっぱりあんたが正しいのかも知れん。なにしろ俺は、一目でこいつが気に入ったんだからな」
彼はそこまで言うと、強いまなざしでフィンを見つめた。
「フィニアス、おまえは戦えない者を守る、特別な人間なんだ。孤児院で初めて見た時、俺にはすぐに分かったぞ。こいつはほかの子供とは違う、強い奴だ、ってな。だから俺は、おまえが気に入ったんだ。ほかの、もっと体力や腕力のありそうな子供じゃなく、絶対におまえがいい、って言い張ったんだ」
肩を握る手に力がこもる。フィンは目をみはり、危うく涙ぐみそうになって、慌ててうつむいた。
「おまえは確かに、人とは違うかも知れん。今じゃ竜侯なんてものになっちまったしな。だがそれでも、俺の自慢の息子だ」
その宣言は、フィンを励ますようにも、ヴァルトを説得するようにも聞こえた。否、ヴァルトだけではない、世界に対して宣戦布告するかのようにさえ。
フィンは養父がそこまで強く弁護してくれることを、その時は不思議に思いもしなかった。ただその力強さに圧倒され、心底安堵し、深い喜びを噛みしめていた。
ヴァルトが鼻白んだ様子で目をそらし、マックを気遣うふりでごまかす。フィンは込み上げる熱いものが溢れないように必死で自制しながら、どうにか声を出した。
「……ありがとう、父さん」
良かった、そんなに涙声にならなかった、と、こんな時に些細なことを気にかける。だが彼が涙にむせぼうと落ち着きを保とうと、オアンドゥスにはどっちでも良かったろう。
「おい! 今、やっと言ってくれたな!?」
一転して狂喜の表情になり、彼は荒っぽくフィンを抱きしめた。
「もう一度、な、もう一度聞かせてくれ! そんなに行儀良く呼ばなくてもいいんだぞ、ほら、なぁ!」
親馬鹿丸出しでせがむオアンドゥスに、流石にフィンも驚くやら呆れるやらで、つい今しがたの感動が吹き飛んでしまった。
マックが涙まじりに失笑し、ヴァルトが「なんだそりゃあ」と呆れる。軍団兵を片付けてやって来たプラストが目をしばたき、隠れていたファウナも出てきて、あらずるいわ、と大袈裟に憤慨した。その横でネリスが半ば呆れ、半ば拗ねて言う。
「墓石みたいに可愛げのない、でかい息子に『父さん』って呼ばれて、そんなに嬉しいの? 気持ち悪い」
「娘に言われるのと、息子に言われるのとは、まったく別のものなんだ! なぁフィニアス、頼む、ほらもう一回!」
「えっ……いや、その……」
こうなっては恥ずかしくて、それどころではない。フィンはしどろもどろになり、あたふたとオアンドゥスの抱擁から逃げ出した。
ささやかな騒動の後、ようやく状況が落ち着くと、避難していた村人が戻ってきた。生き残りの軍団兵は全員武装を解かれ、広場にひとまとめにされて、粉屋の面々に監視されている。無傷の者はわずか数人で、隊長を含めて部隊の半数が死亡していた。
フィンは軍団兵を見回して、ふと気付いた。自分が殺した兵士のほかは、ほとんどが生き残っている。運悪くプラストの矢を急所に受けた兵もいるが、そうでなければ――つまりフィン以外の者と戦った兵は、怪我だけで済んでいるのだ。
フィンは隊長が逃げ出した時の様子を思い出し、一人心中で納得した。
(普通は皆、戦わずに済むなら極力戦うまいとするものなんだ……たとえ軍団兵でも)
闇の獣を相手にするのと、人間を相手にするのとでは、まるで違うらしい。
つらつら考えていると、マックが横にやってきた。小川で顔を洗って来たようだが、まだ気の毒なほどやつれた様子をしている。フィンが気遣うより早く、マックは「ごめん」とうつむきがちに謝った。
「……簡単だと、思ってたんだ。兄貴みたいに出来る、練習の時は止める手をそのまま突き出すだけだ、って。一突きすれば……でも」
声がかすれ、小柄な体が悪寒に襲われたように震えた。
「こんな風だなんて、全然予想してなかった。自分が情けないよ。あんなに、兄貴に教えて貰ってたのに」
「いいんだ。ヴァルトも言ってただろう、おまえは普通だよ」
「これが普通だってんなら、俺も兄貴と一緒で、異常の方がいいよ」
あえてヴァルトの言い様を真似たのは、遅まきながらの抗議だろう。フィンは彼の頭をくしゃりと撫でてやった。
「どうかな。俺はつい今さっきまで、普通はどういうものなのか分かってなかった。だから今までに、殺さなくても良い相手まで殺していたかもしれない。それに、俺は一人で突っ込んで行っても平気だが、そのままでは皆との連携が取れないだろう? おまえが調整してくれたら助かるよ」
「無理に慰めてくれなくても……」
「本気で言ってるんだ」フィンは声に力を込めた。「おまえは、俺に欠けている部分を補ってくれるんだ。何も恥じることなんかない」
「……分かった」
こく、と小さくうなずくと、マックは深く息を吸い、背筋を伸ばして顔を上げた。
「それじゃあ今度から、出来るだけ敵の背後を取れるように考えてくれるかい? 俺、さっき、あいつが背中を向けてたから刺せたんだ。振り返りそうになった途端、すごく……まずい、って思った。自分がやられる、っていうより、とにかく無性に怖くなったんだ。正面から戦うより、背後からの方が有利なのは当たり前だけど、それを別にしても、なんて言うか……楽なんだと思う」
彼がもう一人前の戦士のような顔つきになっていることに、フィンは驚きを隠せなかった。無理をするな、と言ってやりたかったが、マックは強がっているのではなく、本当にもっと強くなろうとしているのだ。フィンは数回瞬きしてから、「ああ」とどうにか答えた。
「分かった。教えてくれてありがとう」
律儀に礼を言ったフィンに、マックはちょっと眉を上げておどけた表情になり、無言でうなずいた。この態度には見覚えがある。フィンは天を見やり、そろそろマックの口からもネリスのような言葉が飛び出す頃合かもしれないな、と密かに覚悟した。
その時、ふわりと馴染みの気配が戻ってきた。それだけでフィンは力づけられ、ほっと微笑をこぼす。レーナは姿を見せていなかったが、すぐ近くに存在しているのが感じられた。
ということは、とフィンが首をめぐらすと、案の定、青霧が村に姿を現したところだった。
「どうやらディルギウスは、一度ひとつの事にとらわれると、それしか見えなくなる性質らしいな」
青霧は捕虜を見回して、特段困った様子も見せずに言った。フィンは「ええ」とうなずいて眉をひそめた。この分だと、山が雪に閉ざされる前に、ディルギウスが軍団兵をどっさり送り込んでくるかもしれない。従わざるを得ない兵達こそいい迷惑だ。
「いずれにせよ、村を移動すべきだろう。冬越しに適した土地は他にもある。今から動くのはぎりぎりだが、ここに留まればまた襲撃される可能性が高い。この連中を生かして帰そうと帰すまいと関りなく」
さらりと物騒なことを言って、青霧は捕虜に一瞥をくれた。途端に彼らはぎくりとし、怯えた顔になる。軍団同士の戦いで捕虜になったわけではないので、蛮族に生皮を剥がれるとでも思ったのだろう。
青霧は彼らを脅かしたまま放置して、村の主だった面々と相談に行った。ヴァルトがそれを見送り、ぼそりと独りごちる。
「……奴さん、どうするつもりかね」
フィンにはそれが聞こえたが、どうとも答えられなかった。
長く気掛かりな相談の結果、軍団兵はこのまま帰されることに決まった。ただし、解放するのは村の移動が無事に済んでからだ。それまでは粉屋の面々と共にここに留まることになる。行き先を知られないように、また、ディルギウスに知らせが届くのを遅らせるために、というわけだ。
「このまま捕虜にしておいても、冬の間、食わせるものがない。ただでさえ今年は余分の口を雇っているのだからな。全員殺してしまえば、ディルギウスには何の知らせも届かないから安全なんだが」
青霧は捕虜に聞こえる所で、しらっと言った。どうやら彼流の意趣返しらしい。
「あまり多くの死体を残しては、闇の獣たちが寄ってくるからな。新しい死体が出ないかと見張る青い目に囲まれて過ごすのでは、あまり楽しい冬ごもりとは言えん」
「俺達まで寒気がしますから、そういう話はやめて下さい」
フィンは苦情を申し立てたが、青霧は、何のことだか分からん、とばかりにとぼけていた。
やれやれとフィンは頭を振り、もう早速と移動の準備にかかっている村人達を眺めた。ただでさえ冬支度に忙しかったのに、いまや天地がひっくり返ったような騒ぎだ。しかしその中にも秩序はあり、よそ者の目にはばたばたしているだけに見えながら、着々と作業は進んでいる。家である天幕が解体され、食糧や家財が荷造りされていく。
蟻のように働く村人達を急き立てているのは、ただひとつの恐れだった。
冬が来る。――長い、暗い夜が。
フィンは空を仰ぎ、灰色の冬の雲が広がりつつるあるのを見て、厳しい顔つきになった。
また、あの青い光点が夜の闇に灯るのだ。
フィンは体についた見えない霜を払うように身震いする。手は無意識に、剣の柄をぎゅっと握り締めていた。




