1-6.虚脱
壮絶な一夜を過ごした後、フィンの感覚はそうと自覚せぬ間に変化していた。
夜明けの町をどう歩いて兵営まで戻ったのか覚えていなかったし、道端にずらりといたはずの憐れな避難民の姿も目に入っていなかった。
その鈍い無感覚はぐっすり眠った後も続き、彼はもはや町の現状にも、兵士たちの放埓な振る舞いにも、何も感じなくなっていた。
なくした剣を探しに城壁の外に出た時も、篝火の台が途切れた先まで歩くと、明らかに人間のものと判る骨が転がっていたが、彼はただ、ああ、と思っただけだった。
獣に奪われた剣は藪の手前に無造作に転がっていた。それを拾い上げる瞬間だけは、またあの冷たく暗い憎悪に貫かれはすまいかと恐怖をおぼえたが、柄を握っても何も起こらないとわかると、感情の波はすうっと引いておさまった。
兵営への帰り道、新しく逃げ込んできた一家が、つい先日の自分たちのように身ぐるみ剥がれる場面に行き会った。だがフィンはそれを止めようとも、せめて慰めの言葉をかけようとも、思わなかった。そんな考えはちらとも浮かばなかった。
フィアネラが言ったように、「感謝さえしなければならない」と認識したわけではない。略奪や暴行を容認したわけでもない。ただ、それを現実として感じられなくなっていたのだ。
あれほどの苦役を負っている兵士たちが、見返りを求めるのは当然の権利だろう。かつてなら、それは軍団から、ひいては帝国から与えられる、昇進や昇給、そして栄誉だった。しかしもう、それは望めない。給料や肩書きはもちろん、単なる名声や栄誉、あるいは誇りすら、今では何の魅力もなかった。褒め称えてくれる市民も、勲を歌い記してくれる詩人も歴史家もいない。碑や建築物に功績を刻む機会もない。
となればいきおい、目の前の卑小な利益に喰らいつくのが人間だ。
兵士――今はもう単に戦士と呼ぶべきだろうか――たちの頭にあるのは、次の当直までの日数だけ。その後のことは、考えても無駄だから。幸運にも夜を生き延びられたら、また次の当直までの日を数えて過ごすだけだ。
ゆえに彼らは、金目のものよりも刹那の快楽を求めた。飲み、食べ、暴れ、女を抱く。
フィンはそうした騒ぎには加わらなかったが、単に彼はそうしても気が晴れないと分かっているからに過ぎなかった。よく観察してみると同様の者も少なくはなく、そうした戦士たちはただ、黙々と鍛錬に励んでいた。フィンも彼らにまじって剣の扱いを覚え、頼りの足を鍛えた。
無感覚なまま、一日、また一日と過ぎて行く。彼が己の陥った危険な鈍感さにようやく気付いたのは、ひと月あまり経ってからだった。
その頃には彼も数回の当直を生き延び、元から謹厳な顔つきはもはや“墓石”同然になり、彼を「ぴよぴよの小僧」呼ばわりした男からもちゃんと名前で呼ばれるようになっていた。が、それでもまだ自分には傷つきやすい部分が残っていると、その日、彼は思い出すことになった。
そうさせたのは、ひとりの少女だった。
フィンが自分の部屋に向かって兵営の廊下を歩いていると、行く手の部屋から女の悲鳴が聞こえた。しかしフィンは気に留めなかった。よくあることだ。いささか声が大きいのは、扉を閉め忘れたのだろう。
声がはっきり聞こえる距離になると、フィンはやれやれとため息をついて、無意識に入っていた肩の力を抜いた。ただの嬌声だ。もし行き過ぎた暴行であれば、面倒を引き起こさない為に誰かが止めなければならないが、どうやら今回はその必要はないらしい。
フィンは、通りすがりに扉を閉めてやろうか、それとも放置するほうが親切だろうか、などとぼんやり考えながら歩いていく。と、女の声の質が変わった。
途切れがちに聞こえる言葉から察するに、どうやらことが終わって早々と女が去ろうとしているようだ。鉢合わせすると、なにがなし気まずい。フィンは束の間、足を止めて目をしばたたいたが、引き返すのも馬鹿らしいと考え直してまた歩き出した。
部屋の主は女を引き留めようとしているらしい。女はそれを拒む。嫌だったら、離してよ馬鹿、しつこいわね――もみ合い、打擲する音。
これなら女が出てくるまでに通り過ぎられるかもしれない、とフィンは足を速めた。だが、彼が開け放たれた扉の前に差しかかったまさにその時、女が飛び出してきた。
「ちょっと調子を合わせてやったからって図に乗るんじゃないよ! 今度その変態趣味を出したら、大事な息子をすり潰してやる!」
獣のように歯を剥いて怒鳴った女は、何かを胸に抱えていた。走り去ろうとした途端にフィンにぶつかり、ぎょっとなって顔を上げる。
「っっ!?」
その瞬間、フィンの中にいきなりすべての感情が戻ってきた。衝撃に目が見開かれ、絶望に唇がわななく。
薄汚れた顔に乱れた髪をへばりつかせ、彼を見上げているのは、かつて見知った少女だった。ネリスの友達だ。フィンの脳裏に半年ばかり前の記憶が鮮やかによみがえる。
神殿へ参拝に来た時だ。よく晴れた、気持ちのいい天気だった。ネリスと少女は互いの家族から離れて、ひそひそとなにやら楽しげに内緒話をしていた。時々二人はちらりとこっちを見て、またくすくす笑い出して――ネリスの奴、また余計なことを吹聴してるんだな、と……
胸にずしんと石の塊が落ちてきた。フィンは息をすることも忘れ、変わり果てた眼前の少女を、ただ情けなく凝視するばかり。
相手もフィンが誰かを認めたようだった。最初は憎々しげにぎろりと睨み付けてきたのが、はっと目をみはり、その場に泣き崩れるかに見えて――次の瞬間には、自虐的な娼婦の笑みを顔に張り付けていた。
「あんたも来たんだ」
へぇ、と彼女は無遠慮な目でフィンを品定めする。
「あたしに用があったら呼んでよ。もちろん、それなりのモノはもらうけど」
「…………」
何か言おうとしたものの、フィンの口は渇ききって舌が動かなかった。少女が胸に抱えているのが、麦の入った麻袋だと見て取ると、フィンは不意に泣きたいほどの痛みに襲われた。
フィンの顔が歪んだ瞬間、少女はその袋を思い切り振り回して、彼の横っ面を殴りつけた。まるで浮かびかけた表情を突き沈めようとするように。
「何よ! 何なのよその顔は! 文句ある!?」
金切り声でわめき、少女は二度、三度とフィンを打つ。
「あんただって同じじゃない、あんただって……っ、見るな、見るなぁッ! 見ないでよぉ!!」
最後にはもう、泣き叫んでいた。そうして、フィンに何かを言う時間を与えず、少女は乱暴に彼を押しのけて走り去ってしまった。
フィンが放心して廊下に立ち尽くしていると、部屋の中から、まだ素っ裸の男が声をかけてきた。
「なんだ、知り合いか?」
「…………はい」
「ふぅん」
男は無感動に言って、ぺたぺたと裸足でフィンに歩み寄ると、ぺちんと頬を叩いた。
「そりゃ、可哀想なことをしたもんだ。シケた面してんじゃねえぞ」
可哀想、などという単語をこの兵営で聞いたのは初めてで、フィンは驚いて男を見た。もっとも、この場合誰がどう可哀想なのか、フィンには分からなかったのだが。
困惑と衝撃に打ちひしがれたフィンの顔を眺め、男は口をへの字に曲げた。
「古き良き日を忘れていられりゃ、今の自分を惨めに思うこともなかったろうに。あーあ、あいつもう来ねえかも知れねえなぁ。気に入ってたんだが。おまえのせいだぞ、この薄らボケ」
勝手なことを一方的に言うだけ言って、彼はまたぺちぺちとフィンの頬を叩き、欠伸をしながら部屋に戻る。寝直すつもりだろう。
バタン、と彼が後ろ手に扉を閉めると、廊下には何の物音もしなくなった。
フィンは自分が枯れ木になったような気がして、長い間、そこに立ち尽くしていた。だがやがて、手足の先からゆっくり生気が戻ってくると、腹の底から、明確なひとつの意志が強い力を持って湧き上がってきた。
(ここから出て行かなければ)
このまま惰性に流されるわけにはいかない。ここにいたら、いずれ自分も、古参の兵らと同じく、当直までの日を数えて過ごすだけの抜け殻になってしまう。
(このままじゃ、未来はない)
いずれナナイスは落ちる。食糧や燃料が手に入らなくなるか、壁の守り手が一人また一人と暗い黄泉路へ旅立って、闇の獣に蹂躙されるか。
市民も、元兵士らも、それは分かっているはずだった。だが誰もが見て見ぬふりをしているのだ。考えてもどうしようもないから。絶望するしかないから。目を背け、ただその日の過ごし方だけ考えて生きていれば、いつか何処かから、助けが来るかもしれないから――それが死神の優しい手であっても。
だが俺は違う、とフィンは自らを意識した。ごくりと固唾を飲み、拳を握り締める。大丈夫、まだ力がある、まだ意志がある。
(状況が変わるのを、ただ待っていることは出来ない。変えるんだ、自分の手で)
良くなるか悪くなるかは分からないが、ともかく何かをしなければ。
とは言え、この町にいて、内側から状況を変えられるとは、あまり思えなかった。
たとえばマスドを脅すか蹴落とすかして、元軍団兵に昔の規律を取り戻させたとしても、その効果など長くは続くまい。市民たちも同様だ。夜毎に闇が襲来し、食糧は船で略奪してくるしかない現状では、じきに皆が捨て鉢になるだろう。
(そうだ、食糧)
せめて僅かでも、畑を耕して穀物や野菜を育てられないだろうか。城壁の内側で。それが上手く行けばきっと、希望が戻るだろう。そうしたら、少しずつ、外に畑地を広げていけるかもしれない。
(問題は、誰に相談するかだな)
フィンの脳裏に最初に浮かんだのは、日々命令され報告している相手だった。悲しい習慣がついたものだ。フィンは久しぶりに皮肉な笑みを浮かべた。マスドはこんな話を取り合ってくれるだろうか?
(無理だろうな。となると、あとはフィアネラ様ぐらいか)
市長アティラが元軍団兵によって排除されてしまった今、市民の拠り所となっているのは神殿だけだ。大勢を動かそうと思うなら、フィアネラに相談するのが一番だろう。
よし、とうなずくと、彼は久しぶりに生き返ったような心地で、勢いよく廊下を走っていった。神殿に行く許可をもらうために。