3-3. 遠い空の下
サルダ族の村に戻ると、青霧がすぐに気付いて出迎えてくれた。その後から青葉もついて来る。
「無事だったか」
良かった、と青霧はほっとした様子を見せたが、青葉の方は心なしか拗ねたような態度で、
「竜侯なんだもの、傷を負わなくて当たり前よ」
冷たい一言をくれた。フィンは何と応じたものか分からず、頭を掻く。彼女に嫌われるようなことをしただろうかと訝ったが、記憶を手繰るより早く、薄い感情の靄が見え始めたので、慌ててその場を離れた。
それでも、心の目と耳を完全にふさいでおくことは出来なかった。
(手当てしたくても出来ないじゃない)
ほろ苦く、かすかに甘い感情がフィンの心をかすめる。彼はどきりとして棒立ちになり、思わず振り向いた。だが青葉はもうこちらを見ておらず、ネリスと何か話していた。銀の髪の隙間に見える細いうなじや、優しい曲線を描く肩が、今までに見てきた少女達とはまったく違っているように思われて、フィンは束の間それに見惚れていた。
「どうかしたのかい、兄貴」
軽く小突かれて我に返ると、マックが不思議そうな顔で見上げていた。フィンは目をしばたたき、「あ、いや」と曖昧にごまかした。顔が赤くなっていなければいいが、と願いつつ、話をそらせようと思いつきで口を開く。
「ただぼんやり考えていたんだ。その……」
何でもいいから喋ろうとして、彼は唐突に気付いた。
「いつの間にか誕生日が過ぎたな、と。俺だけじゃなくて、ネリスの誕生日も祝ってやれなかったし。そう言えば確かおまえも、ウィネアに着いて間もない頃に、もうじき十六だとか言ってなかったか?」
「ああ、ええと……俺はまだだけど。あと二月ぐらい先だよ」
思いがけない話題にマックは面食らったようだが、それでもすぐに乗ってきた。
「兄貴は秋生まれなんだね。へえ、なんだかそんな感じがするよ」
「正確な日付はわからないんだが」フィンは苦笑で応じた。「院長先生が、覚えやすいように秋分の日に決めたらしい。そのぐらいだろうから、って」
「ふうん……」
マックは考え深げに相槌を打ったが、フィンの過去については何も言わなかった。代わりに、にこりと笑顔になって提案する。
「それじゃあさ、ネリスの分もまとめてお祝いしようよ。戦利品も手に入ったんだし、今の季節ならきっと栗とか芋とか、色々採れるだろうしさ。青霧に頼んでみよう。とっておきの糖蜜とか、出してくれたらいいんだけどな」
楓の樹液を煮詰めた糖蜜は、北辺の一部と山脈で採れる貴重な甘味だ。低地ではなかなか夏を越して保存することはできないが、この山奥でなら違うかもしれない。フィンは顔をほころばせた。
「もしあったら、おばさんに頼んで栗の蜜煮を作って貰おう。すごく美味いんだ、びっくりするぞ」
「やった!」
もう青霧から糖蜜をせしめられると決めて、マックは嬉しそうに手を叩く。フィンはそれを見ながらふと、ファーネインがいたらきっと喜んだろうな、と考えて空を仰いだ。
(オリア、ファーネイン……どうしているかな。ニクスは無事に、二人を送り届けてくれただろうか)
今頃はオリアの親類の家で、暖かい炉辺に座っているだろうか。お菓子が欲しいと駄々をこねて、オリアを困らせていなければ良いんだが。
優しく辛抱強い姉と、少しわがままだが可愛い妹、二人を見守る青年。そんな光景を想像して、フィンは温かい気持ちになった。少なくとも、彼らの元には平穏な暮らしがあるに違いない。
(俺達がしている事も、きっと無駄じゃない)
どこもかしこも情勢が荒れていては、戦場から離れた土地であっても悪影響は免れない。食料や生活用品の流通、人の往来に無縁ではいられないからだ。
逆を言えば、たとえ限られた時間や地域であっても、平和を――正常で平穏な生活を守ることは、必ず良い結果につながるはずだ。
そう信じて、フィンはマックと一緒に青霧の方へ歩いて行った。
細く寂れた街道を、小さな足が頼りなげにふらふらと進む。つまずき、よろけ、ついに道端に座り込んでも、差し伸べられる手はなかった。
幼い少女はそのまま抜け殻のように、茫然と宙を見上げていた。その目は宝石のような深緑色だったが、焦点は合っておらず、瞳はただの虚ろな闇の穴だ。
どうしてこんな事になったのか、ファーネインにはまったく分からなかった。
歩くのをやめて、疲れきった足を投げ出して座っていると、このひと月ほどの経験が次々によみがえり、今まさにその渦中にいるが如き生々しさで少女を苛んだ。
優しかったニクス、オリアとその母親。三人とも、ファーネインを可愛がってくれた。じきにフィンやマック達のことも忘れてしまったほどだ。
頭を撫でてくれる手の温かさが、束の間、ふわりと感じられる。
だが、安住が約束されていたはずの村で待っていたのは、徹底的に荒らされて一切合財を持ち去られた廃屋だった。何があったのかと途方に暮れている間に、早くも荒くれ者が集まり、新参者を取り囲んだ。
金を返せ、と脅す大声。ニクスの抗議、オリアの懇願。やがて言葉の代わりに拳や棍棒が喚きだし、激しいやりとりの末にニクスが倒れた。
怖くてたまらず、ファーネインはわんわん泣いていたが、誰も助けてくれなかった。うるさいと引っぱたかれる事さえなく、汗臭い手に腕をつかまれ、表に引きずり出された。
――あの時の痛みと恐怖はまだ忘れられない。
ファーネインは草の上に座り込んだまま、無意識に腕をさすった。
目の前に、黄色い歯をむきだした男のいやらしい笑いが現れる。吐きかけられた臭い息、こいつは別嬪だ、という言葉。
ファーネインは激しく頭を振って、その幻覚を追い払おうとした。だが強烈に焼き付けられた記憶は消えない。可愛いとか別嬪だとか、褒められたことは数限りなくあったが、あれほど恐怖を感じたのは初めてだったから。
「う……うぅーっ……!」
押し殺した声が、食いしばった歯の間から漏れる。両手で頭を抱えたまま、ファーネインは小刻みに体を揺らし始めた。
その後、どこに連れて行かれたのか、今も正確にはわからない。
奴隷を運ぶ馬車に押し込まれ、景色が見えないままゴトゴトと揺られ続け、やっと外に出された時には、けばけばしく装飾された店の裏手にいた。
店主の値踏みするまなざし、手渡される金貨。彼女を売った男が口笛を吹いた。気が付くとオリアの姿はなかった。馬車で一緒にいたのかどうかも、覚えていなかった。
たった一人、何一つ持たず、ファーネインはその店に買い取られた。
汚く荒っぽい男達から解放され、恐怖が引いていくと、今度はその店が楽園に思えた。彼女は風呂に入れられ、髪を梳かされ、見たこともない綺麗な服を着せられて、たっぷりの食事を与えられたのだ。
「あたし、奴隷にされたんじゃないの」
当惑して問うたファーネインに、彼女の髪を結っていた女が優しくささやいた。あなたは特別なのよ、可愛い子――と。
(あたしは特別だった)
確かにその通りだった。店に入ってから毎日、ファーネインは好きなだけ眠り、好きなだけ食べ、遊び、花や宝石や香水など美しいものに囲まれて過ごした。
同じ年代の少女がファーネインの付き人だった。何を言いつけても良かった。池に落とした耳飾りを取りに行かせても、夜中に毛布をもう一枚取って来させても、咎められなかった。
(あの子は奴隷なんだと思ってた。あたしとは違うんだ、って)
だから、時々少女が不満げに睨むようになると、ひっぱたいてやった。“おかあさん”に告げ口をして、笞で打たせたこともある。
誰もファーネインを叱らなかった。ここは楽園だ、来るべき場所に来たのだと、一時は本気で信じたほどだった。
――あの日が来るまでは。
ファーネインは、ファウナの警告を忘れ去っていた。あなたは特別だ、という言葉に潜む罠を。
店に来て半月ほど経ち、ファーネインの血色も表情もすっかり良くなった日、変化が訪れた。あなたもお客様をもてなすのよ、と“姉”達に優しく言われ、ファーネインは微かな不安を感じながらも、大人しくなすがままに任せた。
黒い髪は結い上げられ、真珠や緑柱石をあしらった簪が何本も飾られた。口紅を差し、眉を描き、小さな乳首に金粉が塗られ、化粧が済むと初めての服を着せられた。ほとんど裸に見えるほど、布地が薄く少ない服を。
そわそわするファーネインを、姉達は精霊のようだと褒めそやした。それで一旦は落ち着いたのだが……『お客様』は最悪だった。
ファーネインは身震いし、立ち上がった。これ以上、押し寄せる記憶の波には耐えられない。
なめくじのように体を這い回る、汗で湿った手。鼻孔を膨らませて顔を寄せてくる客の、変に甘ったるい息。逃げ出そうとして初めて手荒い扱いを受け、客が帰った後で血が出るほど叩かれた痛み。そして――
ファーネインは頭を振り、血豆だらけになった足で、ふたたび歩き出した。
足の痛みが過去の幻影を遠ざけ、感覚を鈍らせてくれる。だが、ひとつだけは追い払えなかった。今もなお続く痺れた感覚、風が吹いて顔に冷たさを感じる度に思い出すあの瞬間だけは。
泣きたくなったが、顔を歪めると、右半分がひきつれた。彼女は震える指で、もう何度目になるか、自分の顔を触った。
鏡を見ずとも分かる、でこぼこになった表面。
(いけない!)
“おかあさん”の金切り声が脳裏にこだまする。折檻から逃れようと必死にあがきすぎて、ファーネインは燭台を倒し、まともに顔から突っ込んでしまったのだ。貝殻を加工した優美な燭台が砕けて刺さり、火が服と髪に燃え移った。
幸いすぐに助けられはしたものの、顔の傷はもうおしまいだった。ファーネインの特別な毎日も。
顔に包帯を巻いたまま、数日間は店に置いておかれた。奴隷だと思っていた付き人の少女よりもさらに格下の、本物の奴隷扱いで。勝ち誇った元付き人の顔が忘れられない。
使い物にならないファーネインは、じきに別のところへ売られることが決まった。醜い顔が、何かのはずみで客の目に入ったら台無しだから、というのだ。
ファーネインが逃げ出せたのは、まったくの偶然だった。店が火事になったのだ。皆に押し流されるようにして外へ避難した彼女は、それきり店には戻らなかった。
もちろん、それが幸運だったのかどうかは分からない。
ファーネインは既に自分がどこに向かっているのか、なぜ、何をしようとしているのか、何ひとつ分からなくなっていた。足音や馬車の音が聞こえると恐怖に体が竦み、草の中に伏せて身を隠した。そして、安全になってからまた、街道をとぼとぼと歩きだす。
どこに続く道なのか、知ろうとも思わない。ただそこに道があるから、歩き続けているだけ。
(消えてしまいたい)
誰にも見付からない所へ、記憶さえも追って来られない所へ。
(逃げなくちゃ……)
無意識に左右の足を動かし続ける。
虚ろな緑の目が、行く手にある森を見つけた。吸い寄せられるようにふらふらと街道を外れてゆく。小さな足の歩みよりも速く、森の方が近付いてくるかのようだった。
少女の姿が木々の陰に消えた後、行く人のない街道では落ち葉だけが舞い続けていた。




