3-1. 襲撃者
三章
黄昏の中、色づいた木の葉がちらちらと舞い降り、秋がひそやかな吐息をもらす。ドングリがぽとりと落ちて、フィンの頭を直撃した。すぐ後ろについていたヴァルトが、ぷっと失笑する。フィンは曖昧な顔で頭に手をやったが、声は出さなかった。
彼らの姿を隠す茂みの向こう、そう遠くない場所に一軒の小屋がある。街道に沿って点在する簡易宿泊所だ。健康な旅人を基準にした一日分の旅程が終わる辺りには、食事はもちろんベッドも酒場も、替えの馬もいる施設がある。だがすべての旅人が必ずそうした施設から施設へと移動できるわけではないので、間には簡素な小屋だけが建てられているのだ。
板の寝台と厩があるだけで、食べ物はおろか毛布さえない。以前は定期的に管理人が見回り、日持ちする二度焼きパンと毛布を調えていたものだが、帝国の資金と人手が届かなくなって久しい。
むろん、各自が毛布と数日分の食糧とを背負う軍団兵にとっては、何の問題もなかった。
今フィニアスが見張っているのは、十人ほどの軍団兵だった。小隊ひとつだ。彼らは伸びた木の枝を伐り、緩んだ敷石を補修し、崩れ落ちた岩や土を取り除くなど、地道な作業をこなしながら山を登ってきた。
フィン達はこれまで既に数回、偵察隊と思しき集団を追い払っていた。夜中にこっそりロバや馬の手綱を切って逃がしてしまったり、のんびり休憩しているところを狙って荷物をひとつふたつ失敬したり、といった姑息な手段だったが、それだけで彼らはあっさり諦めて引き返してくれたのだ。おかげで良心もたいして痛まず、余分の食糧が手に入り、ヴァルトが楽な仕事だと笑ったほどだった。
しかし今度の小隊は手強かった。恐らくこれまでとは違い、カルスム勤務の正規軍から寄越されたのだろう。作業中も荷物は手の届く範囲に置いていたし、休憩する時も必ず歩哨を立て、ロバや仲間の安全を守っていた。
フィンは失っていた軍団兵への敬意を思い出し、彼らを襲撃することを考えて気が重くなった。が、しかし、こちらも仕事である。そうせねばならない理由もある。
――と、カサリと低木の枝が揺れ、マックが戻ってきた。小柄な体を生かして、巧みに姿を隠しながら静かに動ける彼は、この仕事が始まってから随分と活躍していた。
彼は声を出さず、手の動きで報告した。
『表に二人、裏に一人。あとは中に』
合図はフィンが必要だと気付き、青霧に教わったものだ。こうした奇襲はサルダ族の十八番なので、獲物の数や配置、自分達の行動など、必要な“言葉”はすべて揃っている。
フィンはうなずくと、後ろの仲間達に手ぶりで指示を出した。マック以外は全員、自分より年長で軍団経験もある先輩なのだが、いざ行動を始めると、フィンはすぐにためらいも遠慮も感じなくなった。必要なのは確実で明快な作戦だけだ。
赤く潤んだ太陽が、尖った山頂にひっかかっている。辺りは既に大部分、薄紫の影に支配されていた。小屋の前でも松明が焚かれている。
フィン達は静かに、それぞれの役割に従って動き出した。援護の青霧とプラストだけはその場を動かず、指で幸運のまじないを送る。
襲撃組が充分小屋に近付いたところで、青霧がすっと目を細め、蝋燭の芯をつまむような仕草をした。途端に、松明の炎が風もないのに揺らぎ、心細い音を立てて縮こまってゆく。
なんだ、どうした、と見張りの二人がそばに寄ったところで火が消え、二人は闇に目を潰されて驚きの声を上げた。
同時にフィン達が駆け出した。見張りの片方にマックが身を沈めて体当たりし、突き倒したところをフィンが手早く縄で縛り上げる。その間にマックがさるぐつわを噛ませた。同様にしてもう一人も、仲間の手で動きを封じられる。
マックが顔を上げて悪戯っぽく笑い、その意味を察してフィンも苦笑した。素早く手足を縛れるように、さるぐつわを失敗なく噛ませられるように、仲間内でさんざん練習したのだ。これで失敗していたら、自分達が痛い目をしたのは何だったのか、となるところだ。
裏手でも、ヴァルト率いる仲間が手際よく見張りを片付けていた。
小屋の中から物音がする。最初に見張りが上げた短い叫びが聞こえたのだろう。だが、窓は既に雨戸を下ろしてあったため、マックが外からそれを押さえつけて開けられないようにしてしまった。
裏からヴァルトが顔を覗かせ、合図を送る。フィンはうなずくと、茂みに向かって手を上げた。じきに小屋の中でも、うろたえた声と物音が聞こえた。角灯の明かりが消えたのだ。
「騒ぐな!」隊長の叱責が飛ぶ。「外に出るぞ、用心しろ。二人一組になれ」
マックとフィンは顔を見合わせて失笑を堪えた。暗闇の中で指示するには声を出すしかないとは言え、これでは用心も何もあったものではない。
だが呑気に構えていたのは間違いだった。中でも軍団兵は彼らなりのやり方で相談していたのだろう。
いきなり扉が蹴破られ、剣の切っ先を突き出しながら、軍団兵が一度にわっと飛び出してきた。慌ててフィンも剣を構えて応戦する。裏口からヴァルトも駆けつけ、茂みからはプラストの矢が飛んできた。
(殺すな、出来れば傷付けるな)
フィンは自分に言い聞かせながら素早く全員に目を走らせ、隊長を見付けると迷わず斬り込んでいった。邪魔になる兵士を刺し殺さずに退かせるには、青霧に教わった技が役に立った。関節を利用して軽くひねったり押したりするだけで、相手は体勢を崩してよろけたり、ぐるりと反対側を向かされてしまう。
フィンの目的は、隊長にもすぐ分かったようだった。目と目が合い、刃が噛み合う。
「まだガキじゃないか!」
憤慨するかのように怒鳴り、隊長はフィンの剣を払った。流石に速い。だがフィン同様に隊長もまた、殺すつもりはないらしい。生じた隙に突きを入れることもなく、いまいましげにフィンを睨んでいる。
フィンは背後の気配に警戒しながら、隊長の動きをじっと見つめた。いつものように感情が消え、感覚だけが研ぎ澄まされてゆく。
フィンの表情から、ただの少年ではないと察した隊長が、無意識に後ずさる。身構えながらではない、怯んだがゆえの半歩。それを、フィンは見逃さなかった。
かけ声も気合もなく、フィンが前へ飛び出す。隊長が我に返って、身を守るように剣を下から上へと払ったが、空を切っただけだった。
振り上げられた腕をフィンが掴み、勢いを利用して後ろへ倒しながら素早く足をかけ、踵で隊長の足を蹴り上げる。
ズン、と重い響きを立てて隊長が倒れると、フィンは膝で相手の肩を地面に押し付け、剣を喉めがけて振り下ろし――寸前で、横にそらせた。
「武器を捨てろ!」
フィンが顔を上げて叫ぶと、場の空気がびりっと震えたようだった。軍団兵はまだ一人も倒されていなかったが、苦戦していた証拠に誰もが肩で息をつき、フィンの命令に逆らわず剣を捨てた。
マックやヴァルトたちが急いでそれを集め、投降した軍団兵を縛り上げる。フィンの下で隊長が呻いた。
「山賊が出ると……報告があったのは、貴様らのことか」
「俺達は難民だ」
フィンは言い、状況を確認してから隊長を立たせてやった。もちろん、剣は油断なく喉元に当てたままだ。
「山の冬は早く訪れ、長くて厳しい。あんた達は麓に戻れば暖炉の前で食べ物にありつけるだろうが、こっちはそうはいかないんだ」
「だったら町に下りたらいいだろう。こんな山奥で、何から逃げ隠れしている?」
「軍団兵の横暴から。飢えと欺瞞から、闇の獣から。下界には逃げ隠れしなきゃならないものが多すぎる」
フィンは淡々と答え、仲間達に目で合図した。捕虜の戒めを確認した後で、数人が小屋へ入って荷物を運び出す。背嚢を開けて迷わず食糧だけを取り出す手際良さに気付き、隊長は顔をしかめて唸った。
「脱走兵か」
「一部は」フィンは軽くうなずいて認めた。「だが一般人もいる。皆、望んでこうなったわけじゃない」
「事情がどうあれ、罪は罪だぞ」
「あんたが俺達と同じ境遇に置かれたらどうするか、知りたいよ。ほかにましな選択肢があったなら、教えて欲しいぐらいだ」
皮肉でもなく生真面目に応じ、フィンは作業を見守った。全部は奪わず、山から下りられる程度は残しておくよう言ってある。でないと、軍団兵が略奪者に豹変するかもしれないからだ。
戦利品をまとめて、手の空いている仲間が森の中へと運び去る。フィンはゆっくり隊長から離れ、剣を引いた。隊長は怒りと恥辱に顔を歪め、フィンを睨みつけている。
一冬でどれだけの軍団兵の恨みを買うんだろうか。フィンは憂鬱に考え、剣をおさめた。
「今夜はこの小屋で過ごすといい。俺たちの用は済んだし、見張りも松明もそんなには必要ないだろう。山に住む闇の獣たちは、こっちが手出ししない限り、積極的に襲っては来ないようだから」
「何を白々しい」
縛られている軍団兵が、地面にペッと唾を吐いた。フィンは嫌な予感に襲われ、眉を寄せてその男を見やる。
太陽は山の向こうに姿を隠し、残照が茜色に空を染めていたが、小屋の周辺は既に紫紺の闇が降りていた。取り囲む森の奥は、言うまでもなく暗闇が――
「おいフィニアス」ヴァルトが近寄ってささやいた。「嫌な気配がするぞ。お馴染みの」
フィンは無言でうなずいた。うそ寒い空気が衣服の隙間から忍び込み、肌を這い上がってくる。
〈レーナ、どうなってる?〉
〈まだ遠いけれど、闇の眷属がいるわ。とても……とても、暗い……〉
〈追い払えるかい?〉
〈この人たちの前に姿を見せてもいいのなら、遠ざけておくことは出来るかもしれない。でも、ここの闇はとても深いから〉
レーナが不安になっているのが分かる。この場で支配的な闇の力に逆らうのは、彼女にとっても楽なことではないのだろう。フィンはすぐに決断した。
「全員、小屋に入るんだ! 急げ!」
言うが早いか、フィンは手近な軍団兵の縄を解いた。その場に残っていたヴァルトとマックも、ためらわず彼にならう。当惑する軍団兵たちを急き立て、小屋に追い込んでから、フィンは松明に火をつけた。マックが小屋から角灯を持って来て、火を移す。
迎え撃つ準備が整うと、ヴァルトとマックが剣を抜いてフィンに差し出した。フィンは自身の内に意識を向け、光の泉から流れる力を指先へ導く。刃に触れると、二人の剣がぼうっと光を帯びた。
「三人だけで一晩もつかな」
マックが不安げに言う。ヴァルトは刃をじっくり確かめてから、周囲を見回した。
「どの程度の数が寄って来たかによるな。それより、ほかの連中は無事かね」
「向こうには青霧がいる。心配ない」
フィンは応じて、自分の剣を抜いた。レーナの温かい気配を感じ、その力に全身を満たされて恐怖が消えてゆく。
「出来れば軍団兵に余計なものは見て貰いたくないが、数が多ければ仕方がないだろうな」
ヒュッと剣を一振りし、フィンは木々の間に目を凝らした。ヴァルトもうなずき、
「第一波は三人でしのげるだろうさ。事情の分かってない奴が出てきても邪魔だ」
余裕の台詞を残して裏口へ回った。




