2-7. 探す者、逃げる者
従者や召使が慌しく行き来し、出立の用意を急ぐ。ナクテ領主館の中庭には馬が十頭ばかり引き出されていた。左右に振り分けて括りつけられた荷物は、数日分の水や食糧だ。鞍も既に置かれているが、そこにまたがる人物はまだ現れていない。
「必ずセナトを連れて帰るから、迎えの用意をしておいてくれ」
彼はまだ居室にいて、妻に別れの挨拶をしているところだった。部下に恐れられる鋭い目に、今ばかりは優しい色を浮かべて、妻の髪をそっと指で梳いている。フェルネーナは、曖昧な微苦笑で「どうかしら」とつぶやくように答えた。
「本当にあの子がシロスにいると思う?」
「義父上はそうおっしゃったよ」
「でも、シロスなら以前あなたも……」
「探させた。確かにね。だが僕が自分で行ったわけではないし、シロスは皇帝寄りの街だ。徹底的な捜索は出来なかっただろう。今はどんな手がかりでも、信じるしかないよ」
穏やかに諭すルフスに、フェルネーナはまだ納得していない風情で唇を噛んだ。そして、ちらっと扉に目を走らせ、聞かれていないと確かめてからささやく。
「私は信じられないわ。あの魔術師が告げたことなんて」
先日の出来事を思い出し、彼女は眉をひそめた。
倉庫から重い球体を運び出すように、とセナト自らルフスに命じたのを聞き、フェルネーナは夫を人足扱いされたことに怒って、抗議しようとその場へ出向いたのだ。
そこは館のあまり使われない一角で、彼女は埃とがらくたばかりの物置部屋しかないと思っていたのだが、その時初めて、ひっそりとした半地下室があることを知った。
天井近くに細長く走る窓から差し込む光は、書き物机にだけ当たるようになっていた。光の届かない場所には棚が並び、素焼きの壺や、乾燥させた種々の植物、見たことのない鉱物、それに年代物の書物がぎっしりと詰まっていた。
そして、部屋を管理するのは黒衣の魔術師一人。乏しい光で見る限り、痩せた老人で、彼に力仕事は無理だと言われてはうなずくしかなかった。
「一族の秘密だから下男を立ち入らせてはならない、なんて、もっともらしいことを言っていたけれど、お祖母様が魔術師を雇うなんて考えられないわ。とても実際的な方だったもの。あの魔術師はお父様に雇われたのよ。さもなければ、詐欺かぺてんね。いかにも常人には分からないことを行っているふりをして、住処と食事をせしめただけ。どうせ今回のこともあの魔術師が何か言ったのでしょうけど、分かれ道で棒切れを投げて行き先を決めるのと変わるものですか」
不機嫌に唸ったフェルネーナに、ルフスは温かい苦笑をこぼす。
「君は少しお父上に厳しすぎるね。僕がまともな方法で手を尽くして見つけられなかったんだ、義父上がいささか常識外れの方法を選ばれたのも、僕と全く同じことをするのは労力の無駄だと判断されてのことだろう。つまりはそれだけ、僕が力を尽くしたと評価して下さっているんだよ」
「別に、お父様が嫌いだから信用しないわけじゃないのよ」
むすっとしてフェルネーナが応じる。嫌いなことは否定しないのか、とルフスは失笑しかけ、なんとか表情を取り繕った。それには気付かず、彼女は寒気を堪えるようにしっかりと腕組みした。
「あの魔術師は気味が悪いわ。名前はオルジンでも、秘めたる力の神オルグよりは、闇の神ナルーグの加護でも授かっているように思えて……あの部屋にいたのは短い間だったけれど、時々、彼が本当に息をしているのか疑わしくなったもの。死人と一緒にいるような気分だったわ」
「まあ確かに、今にも墓に入りそうな御仁だったがね」
おどけて応じたルフスに、フェルネーナはつられて苦笑してしまい、やれやれと頭を振った。
「ごめんなさい、今更文句を言っても仕方がないわね。東からいきなり呼び戻して、またすぐに南へ行けなんて、お父様は本当にあなたを何だと思っているのかしら」
「僕に任せて下さるんだ、信頼の証だと思うことにしているよ。ところで、僕の賢い奥さんは、忠実な侍女から何か報せを受け取っていないかな」
質問を向けられて、フェルネーナはさっと表情を翳らせた。
「……ごめんなさい、何も聞いていないの。多分、本当にあの子は……私達からも隠れてしまうつもりなんだわ」
もし、このまま帰ってこなかったら。息子に見捨てられてしまったら。
たった今まで頭をいっぱいにしていた怒りが、あっけなく不安に取って代わられる。心細くて寂しくて、我が子への思いが込み上げて体が震えた。
ルフスはそっと彼女を抱き寄せ、こめかみに口付けした。その姿勢のまま、ほとんど聞き取れないほどの声でささやく。
「もし……その侍女が、セナトと一緒に死んでいたら」
「あり得ないわ」
言葉が終わるよりも早く、フェルネーナはきっぱりと否定した。
「絶対に、あの子は生きています。私には分かるの。お願いルフス、父を信じるのならそれよりも強く私を信じて。あの子が死んでいるなんて考えないで」
頑なな信念を宿した目で見つめられ、ルフスは一瞬たじろいだ。妻が現実を見まいとするあまり、妄想に取りつかれたのではないかと思われたのだ。
ルフスとて、息子が死んでいるとは考えたくない。現に今こうしてシロスへ向かうのも、生きていると信じればこそだ。しかし彼には、妻ほどに強く断言することは出来なかった。神々は常に、人には理解し得ないやり方で世界を動かす。絶対に、などと言い切ることは、彼の理性が許さなかった。あるいは、常に万一を考えておくことで、その事態に遭遇した時の衝撃を和らげたいだけかもしれないが。
しばしの沈黙の末、彼はようやく、少し寂しげに微笑んだ。
「そうしたいと思っているよ」
自分の返事が妻を失望させたと知りながら、ルフスは逃げるように背を向けて、部屋から出て行った。
同じ頃、当の息子は己の不在が両親の関係に影を落としているとは想像もせず、書店の手伝いに精を出していた。
新しく届いた本を分類して棚に並べ、注文が入っていたものは客の氏名を記した札を挟む。作業中に糸がほつれたり糊が剥がれかけたりしている書物を見つけたら、注意深く横に取り除け、店主の巧みな癒しの手に委ねる。今ではセスタスも、簡単な修繕ならその場で片付けられるだけの技術を身につけていた。
「上手くなったもんだな、セスタス。このままうちで仕事を続けてくれたら、本当に助かるよ。まあ、店を継いでくれとまでは言えんが……しかし一人前になれたら、本好きの金持ちの秘書、なんて仕事もあるぞ」
初老の店主はすっかりセスタスを気に入っており、今日も仕事ぶりを見ながらそんな世間話を始めた。
「この町は穏やかな気候だから、道楽貴族の別荘も多いしな。沖合いの島には皇帝の別荘まである。知っとるか?」
「ええ」
セスタスは短くそれだけ答え、動揺を悟られないように、手にした本の表紙をじっと睨んだ。古典劇の名作だ。今まさに話題にのぼった別荘で、セスタスもかつてその一幕を見た事があった。
フェドラスの養子として暮らしたのはわずか一年ほどだったが、その短い期間にフェドラスは出来る限りの教養を与えてくれた。皇都のみならず近隣都市へも連れ出し、歴代の皇帝が建てた別荘だけでなく、劇場や神殿や水道橋などの公共建造物を見せてくれた。
あの頃はただ威容に圧倒され、また毎日がめまぐるしくて、何らかの感想を抱くことすら出来なかった。今なら、ぼんやりとではあるが、フェドラスの見せようとしたものが何だったのか、分かるような気がする。
長い歴史と文化、単に金銭的な意味をはるかに超えた“財産”。それらを誇りとし、守り続けるようにと言いたかったのだろう。
「あの別荘にはな、過去の皇帝が著した書物の原本が収められとるそうだ。どうしようもない駄文から、今も歴史や哲学の講義に使われる名著まで、すべてな。ちょっと見てみたいと思わんか?」
悪戯っぽく訊かれて、セスタスも苦笑を返した。
「そうですね。書いたのが皇帝でなかったら捨てられてるようなものまである、って聞きました。そんなのを見たら、大昔の皇帝と友達みたいな気分になれるかも」
「違いないわい、ははは!」
店主の笑い声に、外からセスタスを呼ぶネラの声が重なった。
「あれ、どうしたんだろう」
まだ閉店の時間ではない。セスタスが目をぱちくりさせている間に、いつもは外で待つネラが店内へ入ってきた。何かに追われるようにそわそわと落ち着きがない。
「どうしたんだね、そんなに慌てて」
「何かあったの?」
店主とセスタスがそれぞれ近寄ると、ネラはこわばった顔で二人を順に見つめ、がばっと頭を下げた。
「申し訳ありません! 急な話で本当に恐縮なんですが、セスタスを今日限りで辞めさせて下さい」
「ええっ!?」驚きの声を上げたのは当人だった。「どうしてそんな事……、」
彼は困惑して言いかけ、自分で答えを思いついてハッと息を飲んだ。見る間に顔が青ざめ、手にしていた本を取り落とす。店主が慌ててそれを拾い、姉弟の様子を不審げに観察しながら問うた。
「切羽詰った事情があるんだね? 人には言えんようなことが」
「すみません」
ネラは再度詫びたが、説明しようとはしなかった。店主は眉を寄せて無言のまま立ち尽くしていたが、やがてふうっと深いため息をつくと、部屋の奥へ姿を消した。金庫を開け閉めする音が聞こえ、じきに彼は小さな袋を手に戻って来た。
不安げに見守る姉弟の前で、店主は会計机に座って蝋板で計算を始める。袋から銀貨を数えて出すと、彼はそれを二人の方へ押しやった。
「そら、今日までの賃金だ」
「……コルニスさん」
セスタスがためらいがちに机の前に立つ。店主は顔を上げようともせず、追い払うように手を振った。
「まったく、ろくでもないガキどもが! ようやく使い物になるかどうかって時にとんずらするんだからな、やっとられんわ。身寄りも行き場もないというから雇ってやったのに、恩知らずめ。さっさと出て行け!」
あまりの豹変ぶりに、セスタスは小さく震え、ごくりと喉を鳴らした。驚きと悲しみとで、涙が目の縁に盛り上がる。瞬きするとこぼれそうなので、セスタスは目を見開いたまま、急に不器用になった手で硬貨を集めて鞄に入れた。
「すみません。お世話になりました」
かすれ声でどうにかそれだけ言い、あとはぐっと歯を食いしばって一言も発さず、ネラの手を引いて表通りへ出る。
「待って、セスタス。コルニスさんが……」
「もういいよ、行こう」
セスタスはうつむいたままネラを引っ張る。いつもなら逆らわないネラが、しかし、今は動こうとしなかった。焦れたセスタスが顔を上げ、振り返ると、店の前に立つ主の姿が目に入った。
「この馬鹿どもが!」
彼は顔を赤くして、くしゃくしゃに歪めていた。ちょうどまさにセスタスと同じように。
「いいか、わしはおまえらなんぞ知らんからな! どこへでも行っちまえ、詫び状なんぞ寄越しても破り捨てるからな! 罰当たりの、ろくでなしが!」
罵りながら腕を振り上げ、何かを投げつける。セスタスは足元に転がってきたそれを拾い、まじまじと見つめた。せっかく堪えた涙がぽたぽたこぼれて、道路に丸い形を残す。
小さな石のお守りをぎゅっと握り締め、セスタスは無言のまま、深く頭を下げた。
走るように書店から離れ、港の見える高台に辿り着くまで、セスタスは一度も足を止めず、また、ネラの手をきつく掴んだまま離さなかった。
ようやくセスタスが立ち止まると、ネラは彼の横にしゃがみ、ふわりと抱きしめた。セスタスは両手を拳に握ったまま立ち尽くし、しがみつこうとも、寄りかかろうともせずにじっとしている。ネラは優しくささやいた。
「コルニスさんは、不器用な人だったんですよ」
「うん」
わかってる、と言いたげにセスタスはうなずいた。
何の相談もなく、いきなり出て行くと告げられて、きっと悲しかったのだろう。保護したつもりの孤児たちに信用されていなかった、簡単に捨てられたと感じ、その衝撃ゆえに大人らしい態度を取り繕うことも出来なかった。
どんな事情があるにせよ、誰にも何も喋らないと、無関係を装うと、そして無理に連絡を取ろうとするな、と――悪態で告げるのが、彼の精一杯だったのだろう。
もっと時間があったなら、違う別れ方が出来たかもしれない。
もっと早くに、仄めかす程度でも相談していれば。
セスタスは拳で涙を拭い、深呼吸して顔を上げた。
「それで、ネラ、部屋を引き払う時間はあった?」
「はい、持ち物もほとんどありませんし」
肩に掛けた大小ふたつの鞄をちょっと持ち上げ、ネラは微笑んでうなずいた。やっと気付いたように、セスタスは慌てて手を伸ばす。
「ひとつ持つよ。それで……っと、次はどこに行けばいいと思う?」問うてから、ふと彼は眉を寄せた。「どっち側に見付かったんだい。お祖父様かい、それとも皇帝?」
「わかりません」ネラも声を潜めて不安げに答えた。「ただ、嫌な気配がしたんです。見られている気配……それも、普通でない方法で」
「何だいそれ。追手の姿を見たんじゃないの?」
「姿は見えませんでした。少なくとも、目に見える形では、ですが。いずれにせよ、じきに実体を持った何者かがこの街にやって来るでしょう。そして今度は、隠れてやり過ごすことも、彼らの目を欺くことも出来ません」
謎めいているにもかかわらず、事実を述べる確信を備えた口調だ。セスタスは難しそうにちょっと頭を掻いたが、ぐるりを見回し、空を仰いでから、「わかった」と応じた。
「ともかく、逃げなきゃいけないんだね。今までの相手とは違うのなら、用心しなきゃいけない。だったら、オルゲニアの森はどうかな」
「大森林ですか?」ネラが目を丸くする。
「うん。ここから海岸沿いに西へ歩けば、森の端に出会うだろう。伝説ではフィダエ族以外のよそ者は入れないことになっているけど、海岸にはぽつぽつと村や町がある。そこで食べ物や水を補給しながら、森に入り込めそうな場所を探そうよ。もしフィダエ族に出会えたら、匿ってもらえるかも知れない。もちろんそうなったら、……」
その先の言葉は、飲み込まれて消えた。セスタスは何事もなかったような顔を取り繕い、「どうかな」とネラを見上げて首を傾げる。だがその灰色の目には、深い悲しみが湛えられていた。
オルゲニアの森に住むフィダエ族。竜の力で身を隠しているというから、彼らの元に匿ってもらえたなら、大概のことでは見付かるまい。むろんその場合は、セスタスは一生森から出られないだろう……母親にも二度と会えないのだ。
ネラは痛ましげにセスタスを見つめ、しばし返答を迷った。だが結局、ほかにましな選択肢はない。
「そうですね。参りましょう。ただし、陸を歩いていたのでは時間もかかりますし、私達の足跡がくっきりと残ってしまいます。小船を借りましょう。海の上なら、アウディア様の力が私達を守って下さいますから」
「いい考えだけど……お金、あるかな?」
セスタスは途端に幼い子供の顔に戻った。ネラは思わずふきだして、失礼、と言いながらもしばらくくすくす笑い続けてしまった。
「ご心配なく。この一年で私達、結構お金持ちになったんですよ」
悪戯っぽく言ったネラに、セスタスは「ならいいけど」と恥ずかしそうにつぶやいて鼻の頭を掻く。それから彼は、真面目な顔になってネラを見上げた。
「ネラ、僕のために無理はしないで。お金もそうだし、オルゲニアに行くのだって」
「何をおっしゃるんですか。いくら逞しくなられたと言っても、お一人ではあまりにも危険ですよ。私のことでしたらお気遣いなく、無理などしていませんから」
「でも君はよく、自分だけ食事を抜いたり減らしたりしてるだろう」
鋭く指摘されて、ネラの笑みが一瞬こわばる。次いでごまかすような、困ったような、曖昧な笑みに変わった。セスタスはじろりとそれを睨んで腕組みする。
「僕が気付いてないと思ってたのかい? 確かに僕は子供だけどね、子供だって色んなことを見ているんだよ。無理してないって言ったって、本当かどうか分かるんだ」
「セナト様……申し訳ありません。騙すつもりでも、侮ったのでもないのです。ただ……ええ、おっしゃる通り何度か食事を抜きました。でも本当にその時は、食べたくなかっただけなんです。私は昔から、あまり食べない方で。だから、どうかそんなに睨まないで下さいな」
なだめる口調には、嘘はなかった。子供に嘘がばれた時の大人にありがちな、さらなる嘘の気配は。
セスタスはそれに免じて容赦することにし、腕をほどいてしかつめらしくうなずいた。
「分かったよ。それじゃ、船を探しに行こう。でもネラ、僕にはいつもちゃんと食べろ食べろって言うくせに、自分がそんなことじゃ駄目だろ。もうしないでおくれよ」
「はい、畏まりました」
可笑しそうにネラが笑い、慇懃に一礼する。セスタスは渋面をしたものの、長続きはせず、じきにまたネラの手を取って、港への坂道を駆け下りて行った。




