2-6. 暗躍する影
「司令官に敬礼!」
衛兵が声を張り上げ、整列した兵士がいっせいに踵を合わせて背筋を伸ばす。ずらりと揃った槍の穂先が太陽にきらめき、鎧の金具が音を立てた。
グラウスはそれを満足して眺め、一人一人の顔に目を走らせながら、時折小さくうなずいて信頼と親愛を示す。それだけの仕草で、たまさか目が合った兵士は顔を輝かせた。もっとも、そうでなくとも顔中に汗の粒が光っていたのだが。
「見事だ、諸君」
閲兵を終えて、グラウスはねぎらいと賞賛の言葉をかけてやった。
「このコストムに駐留する軍団は有史以来、常に緊張を強いられてきた。東西南北の力がぶつかる潮目だ。今また、不穏なたくらみを抱いて北から、そして西から、うねりが押し寄せようとしている。場合によっては、我々は完全に自分達だけの力でその両方に立ち向かわねばならぬだろう」
そうなる確率は低くない。だがグラウスは不安など毫も感じさせることなく、むしろ自信満々に胸を張った。
「しかし戦友諸君、私は君達が先祖と皇帝に恥じぬ戦いを成し遂げられると、知っている! 決して仲間を見捨てず裏切らず、友のため、帝国のために戦うと知っている!」
おお、と歓声がそれに応じる。グラウスはさらに兵士らの自尊心をくすぐり、誇りを抱かせ、皇帝が彼らをよく見ていると思い出させて演説を締め括った。
グラウスは歓呼の声に送られて兵営の司令官室に戻り、礼装鎧を外して従者に預けると、ほっと息をついて椅子に腰かけた。
「この手の説得は出来るんだがな」
誰にともなくつぶやき、コップに水を注いで一息に飲み乾す。兵士というのは良いものだ。仲間意識と連帯感とで、つらい境遇を耐え抜き、反吐が出そうな汚れ仕事も黙って片付ける力が生まれる。実戦を通して絆で結ばれた部下たちは、褒賞や空約束や甘言をふりまかずとも、茨の道へ共に踏み込んでくれる。
むろん軍団特有の問題もないではないが、少なくともグラウスにとっては、軍は居心地の良い社会、己の能力を存分に発揮できる場であった。
友にして主君であるヴァリスとは正反対だ。
窓の外を見やると、絹雲の浮かぶ空をよぎって都の方へ鳥が飛び去った。
(今頃、ヴァリスは議場で持久戦を耐え忍んでいるかな)
あの端正な顔をうんざりと歪めて、辛抱強く説得と交渉を続けているか。あるいは愚かな議員に嘲弄されて、頭を冷やしに議場の外へ飛び出しているか。広場で小石を蹴飛ばしている皇帝を想像し、グラウスは思わず失笑してしまった。
直後に彼は、視界の隅に人影を捉え、独り笑いを見られた気恥ずかしさをごまかそうと咳払いした。そして。
(――!?)
ぎょっとなって体ごと振り返る。そこに人はいない筈だった。従者は別室で鎧の手入れをしているし、最初から部屋で待っていた者もいなかった。むろん、彼の後から入って来た者も。
「誰だ」
低く鋭く問いながら、素早く剣に手を伸ばす。部屋の奥、光の届かない隅の暗がりに、闇のような外套に身を包んだ何者かが立っていた。体格も顔立ちも、はっきりとは見えない。
ぞわりと肌が粟立つ。湿った悪寒が背骨にじわりと絡みつく感覚。絶望と不安が翼を広げて魂に影を落とすようだ。本能的に彼は、それが良からぬものだと察知した。同時に、威嚇で追い払える相手ではないということも。
兵を呼ぶか、問答無用で斬り捨てるか、グラウスが迷っている間に、その人影が声を発した。
「セナトの行方を知りたくはないか」
「……何だと?」
グラウスは眉を寄せて聞き返した。内容が予想外だっただけではない。相手の声が奇妙にくぐもって響き、聞き取りにくかったのだ。男か女か、若者か老人かも分からない。否、それらすべての声が少しずつずれて重なり合い響き合うような、不可解で耳障りな声。
グラウスの警戒を嘲笑うように、人影は小さく揺れた。笑ったらしい。
「セナト=アエディウス=ネナイス。欲しいのだろう、切り札が」
「何が望みだ」
グラウスは唸った。こんな怪しげな人物が、何の見返りもなく望みのものを差し出してくれるとは、到底思えない。そして彼の本能は、相手の望みが何であろうと、決して『これ』と取引してはならないと告げている。
「望み、だと?」
虚ろな声が繰り返す。その口調にも態度にも変化はなかったのに、グラウスは突然凍てつく冷気に襲われて身震いした。人影は身動きしないまま、平板な声で続けた。
「重要なのはおまえの望みだ。セナトを手に入れたら、どうする。欲しいのは生きたセナトか、死んだセナトか」
(答えるな)
グラウスは反射的に唇を引き結んだ。迂闊なことを言えば、殺される。その直感が口をふさぎ、言葉を喉の奥へ押し戻した。
互いに身じろぎもしないまま、長い沈黙が続いた。そして、
「……そうか」
黒い人影が、先に言葉を発した。
「必要ないのならば、これまでだ」
落胆した気配も、引き下がると見せかけて誘う意図もまったく感じさせず、人影が揺らぎ、暗がりに退く。
「待て!」
グラウスは咄嗟に剣を抜いたが、しかし、斬りかかることも投げつけることも出来なかった。その時にはもう、部屋の隅にあった闇は消え、ぼんやりと薄暗い陰が残っているだけだったのだ。
大声を上げたと気付いたのは、隣室の従者が駆けつけた後だった。
「何事ですか、グラウス様?」
驚きに目を丸くして、すわ曲者か変事かと身構えている。グラウスが剣を抜いているのを見て取ると、従者は慌てて自分の短剣に手をやりながら、素早く室内を見回して敵の姿を探した。
グラウスは深々と息を吐き、剣を収めて首を振った。
「すまん、驚かせたな。大丈夫だ、危険は去った……当面は」
「何があったのです? 胡乱な者が潜んでおりましたか」
「分からん」
難しい顔で唸った司令官に、従者は不安げに首を傾げる。出来れば、司令官が幻を相手に剣を抜いて怒鳴りつけた、などという結論は出したくないのだが――とでも考えているのだろう。グラウスは苦笑し、もう一度、部屋の隅を見やった。
「得体の知れぬ何者かが、そこに立っていたのだ。不穏な誘いをかけてきおった。あれは……魔術師だったのかも知れん」
「まさか、そんな」
「分からんぞ。竜侯が現れたのだから、魔術師や精霊や、神々さえ姿を現したとて不思議ではなかろう。闇の獣が人里を荒らしているという話も聞かれることだしな。まったく油断ならん世の中になったものだ。とは言え、怪異のものが相手ではどう用心したものか。やれやれ」
ぼやいてから、グラウスは従者に都への早馬を手配するよう命じて下がらせた。皇帝に手紙を書かねばならない。小セナトは確実に生きている、その居所は魔術師を使えば分かるはずだ――と。
(生きているセナトか死んでいるセナトか、と奴は問うた。取引する気があったのなら、少なくとも今はまだ生きているはずだ。死んだものを生き返らせることは出来まい。ただし、生きたセナトが必要だと答えた場合は俺を殺すつもりだったのなら、話は別だが)
ああやれやれ、本当に厄介なことになった。
グラウスは顔をしかめてインク壺を開け、羊皮紙を広げた。
本音を言えば、小セナトが生きていようと死んでいようと、彼は構わなかった。別段彼に恨みはないので、生きて見付かればあえて殺そうとは思わない。だがどちらにしても、第四軍団長と竜侯セナトを大人しくさせるのは難しいだろう。
生きていたならヴァリスの養子に迎えて次期皇帝の座を約束すれば、当面、戦は避けられるかもしれない。だが皇太子の血縁者としての立場を利用して彼らが権勢を増し、グラウスと皇帝を引き離そうとする可能性は高い。それどころか、さっさと代替わりしろとばかり現皇帝の座を揺さぶりさえするかもしれない。
死んでいたら、大人しく諦めてくれるかというと……
「あり得んな」
苦い微笑に口元を歪め、グラウスは小さくつぶやいた。竜侯セナトの気位の高さと激しやすさは彼も知っている。そもそも、諦めるような老人なら、今頃軍を集めていることもあるまい。
そこまで考えて、ふと彼は嫌な可能性に思い当たった。
(まさか)
先刻の怪しい人物が、ほかならぬ竜侯セナトに取引をもちかけたならば。
小セナトがナクテに戻れば、彼らには大義名分が完全に揃う。先代皇帝の遺志を守るため、簒奪者を玉座から追い払うため。
今はまだ、もしかしたら小セナトが皇帝の手に落ちるかもしれない、という恐れから、向こうも動き出してはいない。だが……
「くそッ!」
舌打ちし、彼は拳を机に叩きつけた。セナトの居場所を聞き出しておくべきだった。どれほど不吉な相手であろうと。
乱雑にペンを走らせ、あらゆる手を使ってセナトの居場所を見つけ出すよう進言すると、彼は忙しなく封をして、戻ってきた従者に手渡した。
「これを伝令に預けたら、百人隊長をここへ呼び集めてくれ」
従者は主の焦りを察してうなずき、余計な事は言わずに走り出て行く。それを見送り、グラウスはむっつりと眉間に皺を寄せて立ち尽くしていた。
威厳をかき集めて命令を下す自分の姿が、それを聞いた隊長たちの呆気に取られた顔が、まざまざと想像できた。
(近隣の町や村を回り、魔術師と思われる人物を片っ端から引っ張って来い!)
隊長たちは当惑して目配せを交わすかもしれない。誰かが頓馬な質問をするかもしれない。承服しても、司令官の頭を心配しながら退室するだろう。
だがそれでも、打てる手はそのぐらいしかないのだ。
この時、初めてグラウスは小セナトに対して個人的な感情を抱いた。
(いまいましい小童め、隠れん坊遊びではないのだぞ!)
さっさと出てこないから面倒なことになるのだ、見つけたら尻を叩いて説教してやる。
彼は馬鹿げた妄想で焦りと不安を紛らしながら、部屋の中を苛々と行きつ戻りつして、隊長たちが集まるのを待っていた。




